マックス・リュティ『昔話の本質』報告
第9章昔話の主人公ー昔話の描く人間像つづき
昔話は人間像を描き、それがどんな人間像なのか理解したうえで、子どもに語る必要がある、というのが前回のお話。
では、昔話にはどんな人間が主人公として登場するでしょう。
陽気で向こう見ずな男、じっとこらえる女、怠け者、狡猾で抜け目のない者、正直で開けっ放しな者、悪賢い者、何があってもびくともしない者、愚か者、やさしい親切な者、無慈悲で信用のおけない者、困難に出会うたびに座り込んで泣き出す者。
王女もいれば灰かぶりもいる。王子もいれば豚飼いもいる。
あまりにも多種多様。昔話は多様性の世界ですね( •̀ ω •́ )✧
さてここから人間像をどうやってとりだすことができるでしょう。
リュティさんによると、じつは、この人間たちは象徴に過ぎないというのです。
こういう人間たちがストーリーを紡ぐ。たとえば、一文無しが金持ちになる、女中が王妃になる、できものだらけの頭をした男が金髪の若者になる、ヒキガエルやクマや猿や犬が美しい娘や輝くばかりの若者に変わる。
それらは、人間を非本来的な在り方から本来的な在り方へ救い出すことを象徴しているというのです。
このストーリーを聞くとき、聞き手は、人間は変化することができるのだということを感じ取る。
「主人公は竜をやっつけて王女と結婚して王さまになりました」と語るとき、語り手も聞き手も、外面的な出来事だけを追っているのではありません。ストーリーに象徴されるものを感じ取っています。
人間は誰でも内なる王国を持っています。こうありたいという目標となるイメージです。王さまになるということは、それを実現することです。
王になるということは、全き自己の実現を象徴するものであるとリュティさんは言います。
だから、本格的な昔話を聞き終わったときの子どもの目が輝いているんだ。
言葉にするのは難しい「こうありたい」自分が、たくさんの課題や困難を乗り越えて目的に達する。大人だって嬉しいのに、子どもはどんなに幸せだろう。
たった20分や30分の話の中で、なんて充実した心の旅路なんだろう。
いままで、語り手として、わが子やたくさんの子どもたちと昔話を共有できたこと、幸せに思います。
みんな、がんばろうね(*^▽^*)
おっとっと。戻ります。
昔話では、王冠とか美しい衣装とかは、心の中で遂げられた高い完成からほとばしる光輝を、目に見える物で表したものなのです。それが昔話の表現方法。
「ホレばあさん」の娘が浴びる金は、娘の美しい魂の象徴。
娘が髪をとかすとダイヤモンドがこぼれるのも、象徴。
そんなん非科学的やということ自体が、昔話ではナンセンスなのです。
そう考えたとき、昔話が表す人間像が見えてきます。
引用
人間は自己を超えて成長しうる存在であり、最高のものへ至る芽をうちに孕(はら)み、その最高のものに到達することすらある存在である、というのが昔話に描かれている人間像である。
子どもは、そんなこと、頭では理解していないけれど、心では感じ取っているって。うん。賛成!
でね、美は心で感じる方が頭で理解するよりずっと大事なのだってo(*^@^*)o
はい、ここまで。
次回はもうひとつの人間像について。
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大きな台風、みなさまの被害が最小で済んでいればいいのですが・・・
昨日はホームページ更新の日。
《外国の昔話》と、ひさしぶりに《昔話雑学》を更新しました♪(´▽`)
ほんとに、リュティ先生は、ええこと言いますねえ~(^_^)
ちょっと言えませんよね。
〝美は、心で感じるほうが…〟
カッコいいです!
人によって何を美しいと感じるかは違うけど、だれもが一瞬で目を奪われる美というのは、きっと心が一瞬で奪われる圧倒的な美しさなんでしょうね。
そうねえ。でも当然のことやねえ。
わあ、美しいって思うときって、何にも考えてないし、心がどきどきするね。
自己を超えて成長しうる存在って言葉にもビビってきたよ。