栗林公園🏞️

最終日は栗林公園に行きました。
江戸時代初期の回遊式大名庭園。
四季折々の花木が美しいところですね。
都会の中の公園なので、手付かずの自然を満喫できるわけではありませんが、とにかく広くって、きれいに整備されていました。
花菖蒲が見ごろでした。
これからだと、蓮とか紫陽花かな。

ぼんやり過ごして、ストレス解消してきました~

帰りも高速バスで高松からOCATまで4時間半ほど。空席がいっぱいで、ぼんやりのんびりドライブを楽しみました。
これからも、うまくコロナをかわしながら、ささやかに老後を楽しみたいと思います。

 

第2回昔話の残酷性について

昔話の中に出てくる残酷な場面。
たくさん出てくる残酷と思われる場面を、子どもたちに昔話を与える側の大人や語り手がどうとらえたらいいのかを探す勉強会の2回目です。

テキストとしている野村泫先生の『昔話は残酷か』(東京子ども図書館)は、前回の続きから「第3章文芸学の立場から」をおしまいまでと「第4章民俗学の立場から」を読んでいきました。
民俗学では、16世紀の魔女裁判や18世紀の「公定処刑料金表」の記録から、その時代に実際にあった処刑方法の一部が昔話の中に反映されているだけで、特に残酷な場面を描きたいがために新たに考え出したのではないことが明らかだということでした。
わたしは、韓国と中国のドラマに日ごろ大変お世話になっておりますが、時代物や宮廷物を数をこなしていきますと処刑場面が多々あり、まさに西欧の処刑と同じ場面を見ているのでとても納得しました(笑)
次に、今回はヤンさんが用意してくれた資料を基に、小澤俊夫先生が刊行されている雑誌『子どもと昔話』とヤンさんが昔ばなし大学で実際に残酷性の講義を受けられた内容を講義していただきました。
この、昔ばなし大学の講義がとても面白くてよかったですし、感動する内容でした。
小澤先生がおっしゃっているように、「昔話は、人生と生命をまるごと、あるがままに語る」ものなので、実母であれ継母であれ、ひどいことをする一面は必ずあります。
また、子どもたちの幼い理解力からすると、善と悪をはっきりさせたうえで最後には悪を完全に倒して亡き者にしないと主人公の身の安全は得られません。
昔話が中身を抜いて語ることによって残酷な場面をリアルさを消しながら必要だから登場させている。
そのことを語り手は心に落としておいて、人間の残酷さに目を背けないで語る勇気を持たないといけないということでした。
昔話を聞いた子どもたちがいつか大きくなって生きる力を奮い起こさなければいけない状況になった時に、残酷だと思われる場面を含む昔話をきいたからこそ「最後に悪は完全に滅びて幸せがやってくるんだ」と思ってくれることを祈ります。
大人が残酷な場面を抜いたり改ざんしたりしていると、子どもたちの生きる勇気になる材料を消してしまっているのかもしれません。

他にも、古代信仰の現れとか生き物はすべてが他の命をもらって生きているとか、いろいろな説明をしていただき、昔話のすべてを包括する奥の深さと面白さに改めて感動しました。
聞き手が「ああ、怖いぃ~~、もうやめて~」と感じたらそれは失敗で、「やっつけてほしい!」「(悪者が)死んでよかったぁ~」と感じてくれたら成功なんでしょうね。
どんな昔話にしろ、終った時に満足してくれているのかどうか聞き手の様子をよく見て次につなげる、ということをやり続けていかないといけないなあと思いました。
次回は最後の回となります。
「心理学の立場から」をお勉強します。
次回も楽しみです(^O^)/

四国村🏘️

琴電屋島から徒歩10分ほどで、四国村ミュウゼアムに着いた。

このミュウゼアムは野外博物館ね。
四国各地から、江戸時代からの古民家を集めてある。移築してあるから、本物ね。
本物には、そこで生活していた人たちの息吹や手あかが感じられる。
昔話を語る者にとって、つるつるになった黒い上がりがまちや囲炉裏、天井の梁、縁側のごっつい板は、昔の風俗を知識として知るだけでなくて、体感できる宝物だと思う。
すべてイメージの材料になるし、イメージの宝庫。

って、ごちゃごちゃ言うてんと、写真を何枚か紹介しよう。


小豆島農村歌舞伎舞台


いのしし除けの土塀


左半分が便所、右半分が風呂
風呂は五右衛門風呂で、風呂の湯を抜いて、便所の下のつぼに流す、それを肥やしにして田畑にまく。SDGsなんて、いまさらって感じやね。


便所の中。木のふたがある。窓もある。小僧さんはあの窓から逃げ出したんやね。竹の桟はどうやってこわしたんやろ?それとも、山姥のトイレには桟が入ってなかったのかもしれない。もっと簡易なトイレかも。


大きな木の臼


砂糖しめ小屋
サトウキビから砂糖をつくる。

などなど。古民家の板の床に座ってぼうっとしたりして、3時間は楽しめました。
最後に異人館(これも本物)でカフェヾ(≧▽≦*)o
アップルケーキとアイスコーヒー

琴電で瓦町まで戻って、昨日娘に教えてもらったうどん屋を探す。
しんぺいうどん!
なんか、しんぺいとうざみたい(笑)
が、シャッターが下りていた(;´д`)ゞ
しかたがない。あとは勘に頼るしかない。
居並ぶうどん屋の中から見つけたのが「晴れ屋製麺所」
店主おすすめの牛筋カレーうどんをいただく。当たり!

宿に帰ると、空はすっかり晴れ渡り、瀬戸内海に沈む夕陽をながめた。

 

 

 

 

鰆を食しに🥢

ずうっとむかし、瀬戸内の民宿でいただいた鰆(さわら)のさしみのお味が忘れられなくて、行ってきました~
5月いっぱいは夕食に鰆のさしみが出るって広告に載ってたのでね~
あわてて行った2泊3日の旅。

小さな贅沢です。
ふふふ。

JR四国がやってる高速バスで大阪と香川を往復しました。
そのバス路線、大阪うどん線っていうのよ。

午後に高松について、まずはうどん。
これは、失敗。観光客相手の店に入ってしまった。

そのあと、高松城址を散策。
石垣が、とっても美しいの。
お堀は、海水が入っていて、鯛が泳いでる╰(*°▽°*)╯
いかにも海のそばのお城で、これは初めての体験でした。

この写真をラインで共有したら、娘から、あっれ~~と返信。
孫がうどん好きなので、先日、高松にうどんを食べに行ったとのこと。
おなじ石垣の上にのぼってたんや。
親は鰆で、子と孫はうどんかあ。
で、娘からおいしいうどん屋の情報をゲット。
翌日、そのうどん屋を目指して、旅は続く~

***************

きょうのおはなしひろばは「てえてえこぼし」です。
ちょっとこわいかな?
小さい人には、大人の人が一緒に聞いてあげてくださいね。

 

 

 

5月のプライベートレッスン

まだ5月なのに今年はもう梅雨入りしたそうで、そういえば今週はまだ一度も洗濯物を外に干していない…。
そしてちょっと前より気温が低くなってて、ちょっと肌寒いので半袖か長袖か迷うという、うっとうしさ。
愚痴っていても仕方ない(笑)
今月のプライベートレッスンは3話でした。

語り(日常語)
「ぶんぶくちゃがま」語りの森HP → こちら
語り
「三枚の鳥の羽」『語るためのグリム童話4』小峰書店
語り(日常語)
「きつねの恩返し」『日本の昔話3』福音館書店

今月は語りが3話。
1話目の「ぶんぶくちゃがま」は、残念ながら参加できずに聞けなかったのですが、語りの森HPの「ぶんぶくちゃがま」のページをみると、こちらの話は2つある型の2番目ですね。
そして、3話目の「きつねの恩返し」が1番目の型で、期せずして両方のぶんぶくちゃがまが上がったということで、1話目が聞けなかったことがなんとも残念でありました。
2話目と3話目の語りを聞いていて、わたしの頭に残っているほかの方の同じ話の語りも思いだされてきました。
それは、「ほかの人は、こんな感じだったなあ~」というぼんやりした記憶だったり、目の前の語りの中でわたしのツボに入った好きな箇所との比較だったりするのですが、どの人の語りもいいなあと思いました。
同じテキストなのに語り手さんが変わると違ったふうに感じるというのはどなたも経験があると思います。
今回もそうなのですが、特に「みんな違ってみんないい!」と思いました。
細かいところは違う語り方なのに、それぞれにいいなと思うのはなんでかなと考えますと、今のところ思いついたのは語り手の伝えたいという気持ちかなと思いました。
日頃漠然と、語り手さんの語りたい気持ち伝えたい気持ちは、別物ではないかなと思っています。
まったく一個人の私的な考えなのですが、違うような気がしています。
わたしも話を選ぶときはもちろん好きな話を語りたいと思って決めるわけです。
だからこの時点では語りたいなんですけど、覚える時点からは伝えたいに変わるんです。
どうやったら伝わるかなと思って、テキストを修正したり、語りの練習をしたりしていると思います。
話の背景を調べるときも、話のメッセージを知ったらそれを伝えたくなります。
その間に、話を読み込んでメッセージをある程度つかんでいるから聞き手に伝わるのかなと今回語りを聞いていて思いました。
語りたいというのはテキストを覚えればできるけれども、伝えたいというのは話を理解しないとできない、という違いなのかな、とかそんなことを感じました。
だから、それぞれの語り手さんの語りに、テキストが同じでもそれぞれの良さがにじみ出てくるのかなと思いました(^^)
で、ひとつ前のヤンさんのブログで、「耳をきたえる」っていうのが出て、そのなかに「伝わるように話す」ということばがあったので、やっぱり伝えるっていうことが大事なんやと再確認したのでした~