昔話の解釈ー偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿3👸🤴

バーゲンセールで戦って、欲しいものを手に入れたためしがない。
行列のできるお店では、必ず横入りされる。
人気アトラクションでは、いつも人の頭ばかり見ている。
神社の餅まきでは、ひとつも拾えない。
一日から始まっているワクチン予約の電話が、まだつながらない。わたしはきっと、ワクチンが打てないのだろう。

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マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。

第6章偽の花嫁と本当の花嫁

「がちょう番の娘」

偽の花嫁が自分の悪事に自分で判決を下す。そんな実際にはありえないことを描くのは、悪は自壊するということを、わたしたちに象徴的に伝えるためでしたね。
そう考えると、この偽の花嫁のモティーフ自体が象徴的だということを念頭において読まないといけないわけです。

そこで、ユング派の心理的、人類学的な見方から、偽の花嫁を解釈しています。

偽の花嫁と結婚すること
=偽の価値が私たちを支配すること。人格の中心が曇らされること。
ほんとうの花嫁が姿を現すこと
=人格が復権すること。

これを昔話に当てはめれば、正当でない花嫁をうけいれるのは心が正当でない価値へ傾いていることを反映している。心の中の王者のようなところがないがしろにされていると、リュティさんは言います。

心の中の王者のようなところだってφ(゜▽゜*)♪

でね、ヴィルヘルム・グリム(弟のほう)が、「がちょう番の娘」のことをこう言っています。
この美しい昔話は、召し使いの姿に身をやつしてもなお失われることのない王者の尊厳を示しているが、その顔つきに飾り気がないだけいっそう深みを増している。
語り手にとって、めっちゃ貴重なコメントですね!

リュティさんは、「召し使いの姿に宿る尊厳」という言葉に傍点を付けて、シェークスピアのこんな言葉を引用しています。

私たちの中には誰にでも王者のようなところがある。

わたしたちは、自分の中の王者のようなところをおとしめて召し使いの仕事に用いていることが多いとリュティさんは言います。あ、もちろん象徴的にですよ。現実的に読むと職業差別になりますよ。

この召し使いの姿に宿る尊厳は、多くの昔話の核心をなしているけれども、とりわけ、「がちょう番の娘」にそれが当てはまるというのです。

さてさて、次回はいよいよがちょう番のクライマックスです。

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昨日は、初めて「おはなしひろば」の更新をわすれました。
ワクチン予約電話のせいです。
今日の午後、更新します。
予約電話はあきらめますo(≧口≦)o

 

 

昔話の解釈ー偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿2👸🤴

夫が、畑で、珍しく動画を撮った。
夫「これなんや?」
私「てんとう虫」
夫「オオテントウムシや」
ふつうより大きいやろと、夫は得々としておる。知ってるということがそんなに偉いか!?
珍しく家族のラインに動画を送った。
夫「これなんや?」
息子「ハラグロオオテントウ」
夫「ハラグロって、なんでそこまでわかる!?」
娘は無視(笑)
同じ環境で育った姉弟でも、興味をそのまま伸ばしてやったら、全然異なった分野に進んでいくんやな。
3歳児から虫博士といわれた息子は、30歳過ぎた今はそれを生業にしている。英数は超低空飛行だったが、頑固に塾を避け続けた。それでも何とかこの道を歩いている。おそらく一生好きなことだけをして生きていくつもりなんだろう。
自分で食べていけたらそれでいいと、わたしは思っている。
今日は、子供の日。

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第6章偽の花嫁と本当の花嫁

きょうは、「がちょう番の娘」ですよ~
リュティさんは、まず、「がちょう番の娘」のあらすじを書いています。(ここでは省略しますね。みなさん、自分で全文を読んでくださいね。)
そして、あらすじを書きながら、3か所、コメントを入れています。

1,娘の母親、つまり年とった女王様ですが、彼女のことを、リュティさんは魔法に通じた母親といっています。
娘に与えた、3滴の血のしずくや口をきくことのできる馬ファラダ。
長年語っていたのに、魔法の力だとは気づかなかったです。魔法というより母親の愛の力だと思って語っていました。

2,娘がキュルトヒェンといっしょに野原でがちょうの番をする場面を、リュティさんは、名高い野原の場面といいます。
ここでハインリッヒ・ハイネの詩を引用しています。

おばあさんがあの王女の話をするたびに
わたしの胸はひどくどきどきした
王女はただひとり荒野に座り
金色の髪をとかしていた・・・

ああ、「吹け吹け風よ~」の場面。ここ大好きなんだけどなかなかうまく語れないのよo(≧口≦)o

3,キュルトヒェンが年とった王さまに、野原でがちょう番の娘との間に起こったことを話す場面について、ここには、「悪いことが善いことになる」というなじみの深いモティーフがあらわれていると言います。
キュルトヒェンは、娘をやっつけてやろうと思って告訴するだけど、それがまさに事態をよいほうへ転換します。
おもしろいねえ。キュルトヒェンが王さまにいいつけなかったら、お姫さまは、いつまでたってもがちょう番だよ。ストーリーとしてはとっても大事なところ。ここをどう語るかやね( ̄︶ ̄)↗

物語の最後の場面で、王さまが偽の花嫁に謎をかけます。
偽の花嫁自身がした悪事を事細かに聞かせて、「そんな女にはどんな裁きを下すのがよいか」と謎をかける。
偽の花嫁は、自分のしたことなのに、気づかないで、「そんな女はすっぱだかにして、内側にとがったくぎを打ち付けたたるに入れ、二頭の白馬にひかせて、死ぬまで町中を引きずり回すとよいでしょう」と答える。
で、その通りの罰を受けるんですね。

自分のしたことだと気付かないなんて、非現実的で、実際には考えられないことですね。
つまりこれは、話が現実的写実的な物語ではなくて、象徴的な物語であることの証というわけです。だから、昔話を読むときは、それが象徴であると認識して読まないといけない。でないと、「そんなことないやろ」って、なるのですね。

そして、なぜ昔話は、犯罪を犯した偽の花嫁が自分自身に判決を下すことにこだわるのかというと、それは、昔話が、悪は自滅する、と信じ、望んでいるからなのです。
昔話が、」というのは、「昔話を語りついできた人々が」と同じ意味ですよね。

「ヘンゼルとグレーテル」の魔女は、パン焼き窯の中で、自分がグレーテルに対してやろうとしたやり方で滅ぼされます。
ペローの「眠れる森の美女」では、悪い王女は、自分が娘を投げ込もうと用意した、蛇のうようよいるたるの中に飛び込みます。
人食い鬼を殺すには、人食い鬼の所有する刀で殺すしかないというモティーフもあります。
このような、悪の自壊作用は、リアルに現実を映しているのではなくて、本質を象徴的に表現しているのです。
リュティさんは言います。
現実観察でなく、本質観照が昔話の固有の贈り物なのである。

はい、今日はここまで。
次回も「がちょう番の娘」です。

 

 

憲法記念日📖

今日は風が強いけど、一転、晴れた~

遊びに行きたいけど、わあわあ騒ぐこともできないし。
わが子孫たちにも会えない(~ ̄(OO) ̄)ブ
さびしい。

朝からワクチン予約の電話をかけ続けてるけど、「こちらはNTTです。」ばっかり。
ストレスたまる。なんでネット予約じゃないの???

さてさて、憲法です。

きょうは自由権のことが書かれているところを読んでみました。

第十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
最近ミャンマーや香港で起こっているようなことは、今の日本では起こらないと保障されてるんやね。覚えておこうね。

第二十二条
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

第二十三条
学問の自由は、これを保障する。

この辺で写すのやめるけど、まだまだある。
わたしたち、たくさんの自由が守られてるんや。
権利はちゃんと使わないと、いつのまにか消えてしまう。
ふだんからちゃんと読もうと思ったこの三日間でした~

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今日の更新は《外国の昔話》
インドの「非暴力」
短いけど、きらりと光るお話です。

 

 

けっこうおもしろい📖

憲法っていったら、子どもたちに平和のブックトークをするときに第九条を説明することが多い。
昨日書いた基本的人権も平和とかかわるから、けっこう児童書にもあるよね。

でも、今日読むのは、これ。第十五条。

公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である。
罷免っていうのはやめさせることね。
公務員っていったら、ふつう、公立学校の先生とか、警察官とか、役所の人とか思い浮かぶけれど、議員とか、市長とか、知事とか、大臣とか、総理大臣とかも、公務員ですよね~

すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
これ、ギャグじゃないよ~
(もりかけさくら・・・(⊙x⊙;))

公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
普通選挙っていうのは、全ての成年者に選挙権と被選挙権がある選挙のこと。
例えば明治時代なら、財産のある人にしか選挙権はなかった。この縛りがなくなったのが1925年。でもその時は、25歳以上の男子にしか選挙権がなかった。
で、戦後、この憲法ができてから、女子にも参政権ができた。
わたしのおばあちゃんは、若い頃、参政権がなかったんだo(≧口≦)o
憲法、ありがたいね。おかげで私も選挙に行ける。
みんな、選挙に行ってる?
これ、権利だよ。

すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任は問われない。
そういえば、うちの両親は、選挙の後、だれに投票したかお互いに内緒にしてたね。子どものとき、親に、「だれにいれたん?」って尋ねたら、「それは聞くもんやない」っていわれたな~

公務員ついでに、第九十九条。
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。
私たちのために国や世の中を動かしている人たちは、みんな、この憲法を大事にして守って行かないとだめって、決まってるんやね。

ね、ちょっと違ったページを開くと、おもしろいでしょ~
公務員って身近な人たちだから、読んでみました。

 

 

ひさしぶりに📖

ほら、中学校の社会科で習ったあれ。
憲法。
わたしは、前文と九条と二十五条を暗唱させられたよ~

もうすぐ憲法記念日だし、ちょっと読んでみようか。

全部で百三条までって、知ってた?
きょうは、第九十七条。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

基本的人権ってのは、人間が人間として当然持っている基本的な権利のことって、辞書に書いてある。
具体的には、平等権、自由権、社会権。

平等権は、たとえば、第十四条にこう書いてある。
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

すごいね。でも、本当にその通りに守られてるのかな?

自由権は、たとえば、思想とか、学問とか、宗教とかの自由が保障されているってことね。

社会権は、たとえば、第二十五条に、こうある。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

これ、社会権の中でも生存権ってやつね。
コロナウイルス感染症の対策は、公衆衛生の範ちゅうになるよね。が責任を持たないといけないって、ことよね。国が国民に自助を求めるのは間違ってるよ。憲法違反だよ。
感染症を終息させるために、経済活動が停滞するのは仕方がない。けど、そのせいで仕事ができなくなる人にも、せっぱ詰まっている医療従事者にも、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるのよ。それを保障する責任が、国にはあるのよ。

ありゃりゃ、腹が立ってきたぞ。血圧上げたらあかん。

でもね、憲法って、すごいね。
わたしらにとって、正義の味方や。

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昨日のおはなしひろばは、日本の昔話「うろこ玉」。
動物報恩のおはなしです。
ゴールデンウイークに、家族でほっこりしてくださいね~