マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第4章「死人の恩返し」最後だよ~
リュティさんは、「死人の恩返し」の類話として、旧約聖書外典の「トビト書」を取り上げています。
「トビト書」は、紀元前150年に書かれたものだそうです。
ひえ~、今から2170年以上前だよ~
『昔話の解釈』では、旧約聖書外典「トビト書」と訳されていますが、これはユダヤ教での呼び方。カトリックでは旧約聖書続編「トビト記」です。ちなみにプロテスタントでは聖書としてではなく文学として扱われているようです。
えっと、当然、ユダヤ教がいちばん古いですね~
昔話と比較します。
敬虔なトビトは、アッシリアの暴政のもとで殺された同族のユダヤ人をひそかに葬ります。そのお礼として、神が、トビトの息子トビアに、大天使ラファエルを人間の姿に変えて旅の道連れとして送ります。一世代ずれてますね。
トビアが旅に出るきっかけは、かつてトビトがいとこに預けたお金を取りに行くことです。
スイスの類話では父親が貸した利子の取り立てでしたね。
イタリアの類話では父親の遺産を増やす、つまり投資でした。
似てますね。
アンデルセンと、スイスの類話では借金を踏み倒した死人を助け、ノルウェーの「旅の仲間」では、ワインを薄めた死人を助ける。
やっぱりお金が関わっています。
トビアが結婚することになる娘は、悪霊に取りつかれています。これまで7人の求婚者が悪霊に取り殺されているのです。それをラファエルが救い出す。
ノルウェー「旅の仲間」では娘はトロルに呪われていました。
この話型では、後半のテーマが娘の魂の救済でしたね。
同じです。
旅の終わりに、ラファエルは本当の姿を現します。
ノルウェー「旅の仲間」でも、援助者が、実は私はあなたに葬ってもらった死人だと、正体を明かしますね。
しかも、どちらも、財産の半分をお礼に渡そうとするが援助者は一円ももらわないで去っていく。
わ~、同じだ。
リュティさんは、個々の細部まで何とよく似ていることかといいます。しかも、驚くべきことに、リュティさんは、旧約聖書外典の話は昔話を作り変えたものだといいます。つまり、昔話のほうが古いって!
そう考えるポイントは、登場人物の関係にあります。
トビトが助けるのは見知らぬ死人ではなく同族の者です。援助者は同族の者の姿で現れます。その援助者は特定の信仰体系の中にはっきりと位置付けられた大天使です。
つまり、あらゆることが民族の結合と家族の結合の中に組み込まれているのです。
昔話はもっとシンプルで、登場人物相互のあいだは、固定した永続的関係は存在しないというのが、昔話です。こちら⇒《昔話の語法》
それを宗教の中で関係づけているということです。同族とか天使とか。
ほら、昔話をある土地の出来事として伝説化するのと同じ、っていったらちょっと乱暴かな。でも、そんな感じですね。
つまり、シンプルで普遍的な昔話のストーリーを宗教の中に取り込んだという説です。このやりかたって、仏教説話にもありますね。
トビト書は死んでいる援助者の昔話が西暦紀元より数百年も前にすでにそんざいしていたことを、証している。この昔話は今もなお生きている、というのは、神秘的な登場人物を通して人間の魂が陥る危険と救済の可能性を反映しているからである。
はい、おしまい。
つぎからは、第5章「賢いグレーテル、仕合せハンス、賢いエルゼ」です(ง •_•)ง
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きのうのはなしひろばは、「かしこいグレーテル」
わたしにとっては、因縁の「賢いグレーテル」です(笑)
あ、大好きな話よ~
「死人の恩返し」の解釈をありがとうございました。
お疲れさまでした
紀元前150年に、昔話として既に存在していたことが旧約聖書によって確認されたなんて、どんだけ昔からあるねん!と思います。
しかも、後半は救済の物語になっている。
聖書は神の教えを説いている書だと思っていますが、人びとの救済を求める気持ちが聖書を開かせると考えると、まったく納得できることですね。
紀元前150年に存在した話が、その後いろんな国で少しずつ形を変えて延々と存在し、創作にもなっているということは、姿かたちを変え続けているということですが、それは個人の趣味で変わっているとかいうことではなくて、救済を求める人類の総意みたいなものがメッセージを保ち続けた状態で細部が変わっているだけなんだろうなと、そんなことを考えました。
わたしたちは、再話ということを学んでいるんだけれども、昔話が時代と国によって変わりながらも保ち続けていたメッセージを的確につかめるようにならないといけないんだろうなと。
オ~~イィ!
他人事みたいにして逃げるな!
と、セルフ突っ込みを入れときます(笑)
ジミーさん、コメントありがとうございます。
昔話のメッセージを的確につかむことは大事だと思います。でも、むずかしいですね。だから、リュティのような先人の研究から学ばないとあかんのですね。
それと、現状の生活にぬくぬくと甘んじていては昔話の奥深いところにある核というか、テーマを本当には理解できないんだろうなと思います。普段気づかないものを見る眼というか。このコロナ禍でそれに気づきました。命がけやね。
救済のテーマも、そういう深い物やから残ってこざるを得なかったんではないかと思う。
昔話から、いろんなことを考える機会をもらって、ほんとに面白かったです~(o^―^o)
旧約聖書外典は、ユダヤ教では聖典ではありません。でも特別な信仰書として残されてきたのは、トビト一家がアッシリアの支配下でどのように信仰を守り、神の祝福を受けたかということを後世に伝えたかったからじゃないかなと思いました。
「旅の仲間」のラストシーンは、若者が子どもを真っ二つにしようとするのを男が止めるというエピソードですが、これは信仰の父と呼ばれるアブラハムを想起させます。(創世記22章←こちらはユダヤ教で最も権威ある書の一つです。)
同じく外典のマカバイ記(ヘンデルのオラトリオ『ユダス・マカベウス』…表彰状授与の時に流れる曲♬の人)もギリシャ支配下で、ユダヤの信仰を守り通した人の話です。
ヤンさんが「命がけやね」と書いておられますが、まさにトビト記やマカバイ記の中に、しばしば歴史上の最強国の支配下に置かれ、迫害されてきた流浪の民ユダヤ人が現在まで独自の宗教・言語・文化を保ってきた奇跡の秘訣というか、エネルギーを感じます。このテーマについては熱く語ってしまいそうです(笑)
Lalaさん、詳しい説明をありがとうございます(@^0^)
なるほど、子どもを犠牲にするエピソードは、アブラハムとつながってるんですね。
グリム童話「忠実なヨハネス」のラストも子どもを犠牲にします。
昔話が先か創世記が先か、リュティさんに尋ねたいです。
マカバイ記も読んでみよう。
「忠実なヨハネス」…先生が語ってくださるのを聞いたことがあったと思います♬
アブラハムの場合、子どもを犠牲にするほどの「忠誠心」ということよりも、たとえ子どもが死ぬことになったとしても、その子は元々神様が与えてくださった約束の子どもなのだから、生きて返してくださるという「信頼」が強調点かなと私は思います。アブラハムは紀元前1900年ごろの人物と言われており、旧新約聖書を通してのキーパーソンなので、とても有名なエピソードです。(o^―^o)
ついつい面白くて、ずいぶんと話が横道に逸れてすみませんでした~(;^_^
アブラハムがイサクを祭壇に捧げるところ、映画で見た気がする。でも、実写だと、リアルなので、ヨハネスとか昔話と結びつかなかった。
創世記のアブラハムとイサクのところ、読むと、昔話と同じように描写が少ないのね。だからかえって印象的で、自分で色々考えることができる。難しいけど。
Lala さん、ありがと~。みなさん、勉強になるね~!