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マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第6章動物物語ー自然民族の物語

まず自然民族って何かということが、よくわからなかったです。
「例えば黒人とかアメリカ・インディアンとか」とあるんですが、あまりにも漠然としてません?
しかもその人たちが伝えている物語となると、何を指すのかさらに分からない。
とりあえず、ここに書かれていることをそのまままとめます。
疑問点はいつか解決すると信じて。

自然民族とは、たぶん、近代化する前にもともとそこに住んでいた人たちのことではないか。先住民族かな。
オーストラリアのアボリジニとか、北アメリカのイヌイットとか北海道のアイヌとか。
ぎょうせいの『世界の民話』には、何冊かあるので、それで見ればいいですね。

さて、リュティさんは、自然民族の物語は、ヨーロッパのように、きちんとしたジャンル分けが難しいといいます。
昔話、伝説、神話・・・という区別がつきにくい。
たしかに、火を取りに行ったうさぎの話なんかは、昔話(ファンタジー)なのか、伝説(本当のことだよという話)なのか、神話(最初の火、神の火)なのか、分類がしにくいですね。境界線が引きにくい。

たとえば、自然民族で重要な動物物語。
自然民族では、動物は世界の創造者であり、支配者であり、文化をもたらすものでもある。
人間は、そういう存在である動物を、恐れ、敬い、動物の力を信じている。
人間が動物になったり、動物が人間になったりするとき、ヨーロッパでは象徴に過ぎないが、自然民族では現実のこととしてとらえられる。だから、本来の「昔話」とは言えないのではないか、というのです。

そうはいっても、冗談のような羽目を外した話もあるということで、南アメリカ・インディアンの「だにとダチョウの駆け比べ」が紹介されています。

なんだかよく似た話、知ってますね。
大阪の昔話「たにしとたぬき」(こちら⇒)とそっくり。

大きいかまたは強い動物が、小さいかまたは弱い動物にいっぱい喰わされる話という大きなグループに属するとリュティさんは、いいます。
この種の話は自然民族に人気があるとか。

この話は、いくつも解釈が可能だと言います。
@策略によってしか主人に抵抗できない奴隷のなぐさめとなる。
@弱い人間の知力が自然という巨人に打ち勝つ。
@目に見えない原子が想像もつかないほどの力を持っている。
などなど。

表面上は愉快な動物笑い話ですね。
でも、自分をダニに同一視しているうちは笑ってられるけど、ダチョウと同一視したとたん、悲惨ですね。
この暗い面について、もうひとつ、話を紹介しています。
これは、次回。

きょうはここまで。

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ゆうがた、おはなしひろば更新します。たぶん。

 

 

生きている人形4🏃‍♀️

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第5章生きている人形ー伝説と昔話 最終回

アーモンドと砂糖と小麦粉で理想の男性を作ったお姫さまのその後です。
鉄のくつを三足はきつぶす探索行にでかけます。
昨日はお月さまを訪ねていって、アーモンドを贈られましたね。

そのあと、太陽と太陽の母からクルミをもらい、星と星の母からハシバミの実をもらいます。
つづきは本文↓

小麦粉と砂糖の男のモチーフ

心理学的に言えば、お姫さまは自分の心の中で作り上げた理想像。自分の心に生じた甘美な心像にすぎないのです。
お姫さまは自分以外の誰かを愛しているのではなくて、自分自身を愛しているのです。

彼が盗まれ、お姫さまは鉄のくつをはきつぶし様々な困難と悲しみを経験し、自分のつくったものが見知らぬものとなったときにはじめて、それを取り戻すことができるのです。
そのときには、男は自立していて、お姫さまは、他者としての男を愛しているのです。自分自身を愛しているのではなくって。

この話は、甘いものを欲しがる幼児のような主人公が、他者を愛することができるまでに成長する話です。
結末で、もう一人のお姫さまの作った男は腐ってしまいます。このもう一人のお姫さまは、前半の主人公(甘ちゃん)のままで終わるとこうなるよというメッセージです。

ところで、もう一人のお姫さまの結末は、あのアルプスの伝説と似ていると思いませんか?
暗鬱な伝説は、人間は自分の作った物のとりこになり、自分の作った物によって破壊されうることを、手痛く感じさせる。
と、リュティさんはいいます。

けれども、昔話では、同じメッセージを、二人の人物に分け与えることで伝えています。重くって複雑な現実なんだけど、中身を抜いて、明確に分けて、非現実として表現する。軽やかです。

昔話というガラス玉には世界が反映している

伝説と比較して分かることは、昔話には、地理的な広がりがあるだけでなく、ちっとも驚かないで太陽や月と話ができる。登場人物は、羊飼いやがちょう番から王や王女まで人間界の様々な人々がいる。愛があれば裏切りがあり、殺人があり、戦争があり、救済がある。
ひとつの話の中にこれらがぎゅう詰めで出てきます。
主人公(だけでなくすべての要素)は、何とでも結びつくことができます。
なぜそれが可能なのか。
中身が抜かれているからです。

昔話をガラス玉に例えれば、その表面には、世界のあらゆる要素が映りこんでいる。そして、完全な球体として秩序をもって存在する。
人間もその秩序のうちに包み込まれる。
そこにあるのは美と希望じゃないかと愚考しております。

はい、おしまい。

暑い~~~

 

 

 

生きている人形3🏃‍♀️

いよいよ8月。
このあたりもすっかり梅雨が明けたみたいです。
がんがんの暑さに耐えなければ。

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マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第5章生きている人形ー伝説と昔話

きのうのアルプスの伝説「ゲッシュネンの牧場の洗礼を施された阿呆」、恐かったですね~
夜は読みたくないですね~
でも、今日は大丈夫。
お姫さまが、お菓子の男性を作る昔話。
ギリシャの昔話「シミグダリ氏または麦粉の殿」
ちょっと珍しい話なんだけど、抜粋を写真で載せますね。

 

「人形を作って命を与える」っていうのが、昨日の伝説と同じですね。
でも、ずいぶん雰囲気が違います。
伝説は暗くおどろおどろしく、昔話は明るい。
この違いはなぜなのか、ということをリュティさんは論じています。

まず、伝説では「人形を作って命を与える」ことは中心的テーマですが、昔話では、モティーフに過ぎない、ここから広い世界に向かってストーリーが始まるのですね。
伝説の出来事は現場から離れず、まるでうずくまっているかのように地域に結びついています。

作られた人形は、昔話では完璧な美しさをそなえていて、神様の恩寵によって命を吹き込まれています。
けれど、伝説では、人形は一種の不格好な固まりで、人を脅かすようにふくれあがっていきます。きゃあ~~~

人形を作る目的は、お姫さまの場合、明確です。理想の夫を作ることです。
昔話では、人が行動するときは、動機がはっきりしています。そして、その動機・目的に向かってまっすぐストーリーが進みます。
人里離れた牧夫たちには目的はなく、たまたま命が宿ります。自分たちの行為がどんな結果を生むのか少しも考えていません。どんな不気味な力が命を与えたのかもわかりません。きゃあ~~~

昔話の軽やかさ、自由さ、明るさは、内部をすべて外部に見せるところにあるのです。
伝説は、なんだかもやもやとしてるでしょ、だからいろいろ、気持ち悪く想像するでしょ。
昔話では、感情や努力は行為や身振りであらわされる。お姫さまの理想の夫を求める感情は神に祈るという行為であらわされていますね。そのための努力はアーモンドと砂糖と小麦粉で人形を作るという行為であらわされる。
神さまとの関係は、人形に命を与えるという贈り物で表されるし、月との関係はアーモンドという贈り物で表される。
行く道が遠くてお姫さまが苦労するということは、三足の鉄のくつをはきつぶすという行為で表されるのね。

きょうはここまで。

シミグダリさんとお姫さまがどうなったかは、次回、お楽しみに~

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午後から、おはなしひろばを更新します。

 

 

 

生きている人形2🏃‍♂️

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第5章生きている人形ー伝説と昔話

ここでは、生きている人形が主人公の伝説と昔話を比較して、その表現の特徴を考えます。

以下の写真はスイスのウーリ州のアルプスの伝説、全文です。

引用
伝説とは、恐ろしい出来事、不快な出来事に関する報告ー時としてまったく様式化されていない報告である。その点で物語の原型といえる。

たしかに、恐ろしいですよねえ。
どうしてこんな恐ろしいストーリーが伝わるのか。

白い霧とか、光の輝きとか、風のざわめきに、人が驚いたとする。

あれは、白い女だ、真っ赤な男だ、狩りの一行の物音だ、と解釈する。
これは、恐れを克服する第一歩。

白い女は救いを求める哀れな魂である、赤い男は傲慢を戒めている、狩りの一行は死者の群れである、とさらに解釈する。
その結果、説明されればある程度落ち着くことができるけれど、いっぽう、死者の世界と接触するんだから、さらに恐怖はつのることになる。

なるほどね。
じゃあ、この恐さは、文体の表現の面から見るとどう説明できるんだろう。

昔話は現実を抽象するが、伝説は現実的な想像を強いる。
この伝説の類話にこんなのがあるんだって。その最後の場面ね。
「(妖怪は)残った男の血まみれの皮を小屋の屋根に広げていた。それを見てみんなは恐れおののいた。それ以来、そこは屠殺(とさつ)の山と呼ばれている」
ね、現実的な想像を強いてますよね。
昔話ではどうでしょう。

ルンペルシュティルツヒェンはわれとわが身を引き裂きますが、紙の人形がまっぷたつになるイメージですよね。悪いお妃が四頭の馬に引き裂かれても血は流れない。狐の手と首を切り落としても血は出ない。リアルさがない。抽象的なのね。
昔話の平面性(こちら⇒)です。見てね。

あ、断っときますが、伝説って怖い話ばかりじゃないけど、ここでは恐い話を例に挙げてるのね。分かりやすいから。

次回は、生きている人形の出てくる昔話をみます。
リュティさんは、伝説から昔話へ戻ると、まったくほっとする、といいます(笑)

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きのうは、おはなしひろば、「三枚の鳥の羽」をアップしましたよ~
おはなしひろばも開設してそろそろ1年になる。コロナ騒動からほぼ毎日更新してたから、ずいぶん増えて189話になった。
今後、《おはなしひろば》の話を増やすのと、《日本・外国の昔話》の話を増やすのと、どっちがいいかなあと迷ってる。
今ね、《日本~》は83話、《外国》は76話。
暑いしちょっとペース落ちそうやし。

 

 

 

 

来年のカレンダー🌙🌞

世界も日本も、息がつまるようなストレスにさらされているような気がします。
わが市も、7月19日から、ほぼ毎日感染が報告されています。
秋からはおはなし会も再開できるのではという予測もひっくりかえりそうです。
若い感染者が多いからといって、楽観できない。年寄りは絶対かからないってわけじゃないんだから。
軽症や無症状が多いからって、油断はできない。重症者はいるんですから。

終息させたいです。

先日、アフガニスタン山の学校支援の会からお便りが届きました。
アフガニスタン山の学校支援の会っていうのは、写真家の長倉洋海さんがアフガニスタンのパンシール渓谷にあるポーランデ地区の子どもたち の教育支援のために作られたNGOです。こちら⇒

そのお便りに2021年のカレンダーができましたよってチラシが入ってたのです。
世界じゅうの子どもたちの笑顔、笑顔、笑顔。
いつもその笑顔に励まされます。

まだ7月なのに、来年のカレンダーなんて、早いなあって思ったんだけど、次の瞬間、あ、そのころコロナはおさまってるかもしれない、ワクチンができてるかもしれない、光が見えてるかもしれない、と思った。
賢くがまんしてれば、時がたてば終息するんだ。
希望のカレンダー!

お便りに書いてあった長倉さんの言葉、ちょっとだけ紹介させてください。休校中のポーランデの子どもたちのことです。
オンライン授業ができる環境はありませんが、学校が再開するのを心待ちに教科書に見入っているにちがいありません。健康であれば、勉学の遅れは取り返すことができます。

そう、健康であれば!
頑張ろうね( •̀ ω •́ )✧