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語りの森を作った魔女

昔話絵本雑感📚

絵本は好きなんですよ。
絵画自体も好き。美術展でぼ~っと観るの好き。

ただ、昔話絵本で好きなのはあまりないんですよ。
嫌いじゃないんだけど。
グリムにしても日本の昔話にしても、絵本じゃなくて読みたい、聞きたいって思うの。

昔話大学で、昔話絵本について学んだとき、よい絵本として、ラチョフの『てぶくろ』・マーシャブラウンの『さんびきのやぎのがらがらどん』・佐藤忠良の『おおきなかぶ』の三冊を取り上げていました。
なぜ良いのか、理由は分かりました。
でも、個人的に、感性的に、好きとは言えない。
絵で遊べる『てぶくろ』はまあまあ好きだけど。

ところで、ウラジミール・プロップ『ロシア昔話』にこんなことが書いてありました。
昔話を絵画にすることは原則として不可能であると私は考える。
おお~!
なんでや!
なぜなら、昔話の中のできごとはいわば時間や空間の枠外で生じるが、絵画はそれらのできごとを現実の、目に見える空間に移すからである。

だから、絵にしてしまうと、昔話はたちまち昔話ではなくなるって。
いくらすばらしい挿絵であっても、それは絵画として完結していて、昔話ではないって。

そうなのだ。
やっとすっきりしましたψ(`∇´)ψ

確かに、ロシアには、ビリービンとか、ラチョフとか、素晴らしい画家の挿絵がある。
ババ・ヤガーやどくろを持ったワシリーサの絵なんか見ほれるくらい。
でもだからといって、ストーリーとは別物だって感じていたのね。
絵画として完結してるんだ。

わたしはね、超微力でも、昔話を未来に伝えることをしたいって夢を持っている。
絵本という媒体は、子どもにとって身近だ(と多くの大人が思っている)けれど、わたしはその方法を取らない。
聴くための再話をこつこつと続けていこう~q(≧▽≦q)

+++++++++++

今日のホームページ更新は《日本の昔話》
こわいはなし「こんな顔」
ふふふうふ

 

 

眠る七人の聖者~伝説

マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話 報告つづき

復活という奇跡を扱っている物語に、「三百八年間眠った僧院長」という伝説があります。

内容
僧院長エーヴォは、食後に森に散歩に行って、小鳥の声を聞いているうちに眠ってしまいます。30分ほどたって目を覚まして帰りますが、修道院の様子が一変していて、門番は一度も見たことがない男でした。
エーヴォが「誰にやとわれたんだ」ときくと、門番は、変な顔をして、
「ここの人間でもないのにどうしてそんなことを聞くんだ」といいました。エーヴォは、
「私はここの僧院長だ。昼寝から帰ってきたんだ」と叫びました。門番は、院長を呼んできました。院長は修道僧たちを全員集めましたが、だれも、エーヴォを知りません。皆、ひどく驚き、訳が分かりませんでした。
院長は、僧院の年代記を持ってこさせました。
書物をめくって探すと、1208年のところにエーヴォの名前が見つかった。この神父は308年間森で眠っていたのであった。エーヴォはそれをきくと、音もなく倒れ、砕けて塵となった。

おおお、恐いですね~~~
砕けて塵となるんですよ。

昨日読んだ聖者伝では、
聖者たちはみな頭を垂れて眠りにつき、神のみこころのままに死んだのに。

もう一つ聖者伝が紹介されています。「ジークブルクの修道院長エルフォ」
ストーリーは伝説のエーヴォさんの話とほとんど一緒なんだけど、エルフォが亡くなる部分を写しておきますね。
みんなはこの奇跡のゆえに神をたたえた。それからエルフォは教会へ行き、聖餐を受け、大声で神をほめたたえると、倒れて死んだ。これは、1367年のキリスト昇天祭の次の日に起こったが、この聖なる男が姿を消したのは、1067年の同じ日であった。

こうして伝説と聖者伝を比較して分かることは、伝説は、奇跡の不気味さや不思議さを伝えようとしているのに対し、聖者伝は奇跡を通じて神を讃えようとしているということですね。
伝説を聞く人は、驚き恐れ混乱します。聖者伝を聞く人は心が高揚して信仰心にみたされます。
つまり両者は語られる目的が異なるのです。
共通するのは、奇跡を事実であると信じさせようという意図があることです。だから、表現が写実的で、時間の流れに敏感です。年数で、事実を裏付けようとしていますね。

では、昔話はどうでしょうか。
次回は、グリム童話のなかの、子どものための聖者伝説から「十二使徒」を読みます。

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眠る七人の聖者~聖者伝⛪

ちょっと仕事が入ったり、息子が帰ってきたりして、バタバタしてました。

はい、報告ね。
マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話

きょうは、「聖者伝」について。

まだラジオもなかった時代、人びとは、夜の団らんで、いろいろな話を語ってきたけども、それは「話」であって、昔話とか伝説とかに分類分けされてはいなかった。分類したのは研究者なのですね。
でも、人びとは意識していなかったけれども、自然に、はっきりとした区別はあった。
この章では、聖者伝・伝説・昔話の区別と役割について考えようというものです。

わたしたちもあまり意識していないよね。
なかでも、聖者伝は、わたしなんか、無宗教なので、ほとんど関心もありませんでした。

ここでは具体的に、ヤコブス・ア・ヴォラジネ(1230?-1298)の『黄金伝説』から「眠る七人の聖者」をとりあげています。

内容(緑字は引用、野村訳)
ローマ皇帝デシウスが異教を広めるためにエペソスの町の人たちを殺させます。そのとき、キリスト教徒の若者七人が迫害を逃れて洞穴に隠れます。すると、神様が、七人を眠らせて追っ手の目をくらませます。
それから372年たって、・・・異教がはやり、死者の復活はない、と言いふらした。そのために信仰がいたくおびやかされたので、信仰の厚い皇帝テオドシウスはおおいに悲しみ、毛の衣を身につけ、宮殿の奥にこもってひざまずき、夜も昼も泣いた。これを見た慈悲深い神さまは、悲しみに沈んでいるテオドシウスを慰め、死者復活の希望を強めようと思った。そこで、豊かな愛を広げて、七人の殉教者を生き返らせた。みんなは挨拶をかわしたが、ひと晩寝たとしか思っていなかった。
みんなは、マルコに町へパンを買いに行かせます。ところが町のようすががらりと変わっています。
門の上に十字のしるしがあるので、不思議に思った。別の門へ回ると、そこにも同じしるしがあった。マルコはおおいに怪しんだ。門という門に十字のしるしがあり、町のようすがすっかり変わっているので、マルコは夢を見ているのだと思って、十字を切った。
だれもマルコのことを知りません。
マルコがお金を出すと、パン屋の主人は、土の中から掘り出した古銭だろうと言います。
マルコは僧正と総督の前に連れていかれ、僧正は、神が奇跡を示そうとしていることに気付きます。
僧正たちはテオドシウス皇帝をよび、みんなで洞窟に行き、復活した七人に会いに行きます。
聖者たちが皇帝を見たとき、聖者の顔は太陽のように輝いた。皇帝は中へ入り、聖者の前にひれ伏して、神をたたえた。
聖者の一人が言います。
主はあなたのためにーあなたが、死者の復活ということはあるのだ、と固く信ずるようにー大いなる復活の日に先立って私たちをよみがえらせたのです。このことはよく知ってほしい。なぜなら、ご覧の通り、私たちはほんとうによみがえって生きているのだから。母の胎内にいるこどもが何の害も受けずに生きているように、私たちも横になって、生きたまま眠り、何も害をこうむらなかった」
こう言ったかと思うと、聖者たちはみな頭を地にたれて眠りにつき、神のみこころのままに死んだ。皇帝は起き上がると聖者たちの上に身を投げかけて泣き、口づけした。
最後にこのように付け加えてあります。
ところで、聖者たちが377年(372年)寝ていたというのは不確かかもしれない。というのは、聖者たちは主の年の448年によみがえったのであるが、デシウスは、1年3か月しか国を治めなかった。そしてそれは主の年の252年のことであった。だから聖者たちは196年しか眠っていなかったように思われる。

長い文章、読んでくださってお疲れ様でございますヾ(≧▽≦*)o
どうですか、私たちがなじんている昔話とはずいぶん違っていませんか。

その違いをリュティ氏はこのように説明しています。
@描写が写実的。
@あらゆる事柄が念入りに関係づけられている。
@年数に端数があるのは、信憑性を高めるため。
@末尾の批評は、学問的注釈でありつつ、終止符の役割も果たしている。
@末尾の批評は、語られたことの真実性をもう一度強調している。
これらからわかるのは、この話は真実ですよという姿勢で物語られているということです。つまり、信じなさい、ということです。

この物語のテーマは奇跡(最大の奇跡は復活)です。
奇跡を物語るのが目的の話です。
奇跡を物語ることによって、異教徒を改宗させ、虐げられたキリスト教徒を励ます。それが聖者伝の目的なのです。

当然、「むかし、あるところに」と語りだして「ふたりは、死んでいなければ今でも生きていることでしょう」で終結させる架空の昔話とは、同じ「奇跡」を語っても、扱い方が異なるということです。
「いばら姫」の100年の眠りとは違うのです。

聖者伝というのは、聖職者の手によって書き留められたもので、民衆の口伝えではありません。
ラテン語の聖者伝Legendaというのは「読まれうるもの」という意味でです。
聖者伝には、奇跡が書かれていて、信心を起こさせ、信仰を強める力があると考えられています。
人が読むことができる物語というだけでなく、人が読まなければならない物語なのです。

さあ、ここで、「この世の光」を思い出してください。
幽霊が読むことを怠った聖なる書物。文字が縦に書いてあって分厚い本。
ほら~、ウイグル文字による聖者伝????
ゴメン、単なる素人の仮説o(*^@^*)o

いばら姫~比較🎀

『昔話の本質ーむかしむかしあるところに』マックス・リュティ著報告

第1章いばら姫ー昔話の意味と外形つづき

昔話を解釈するときに気をつけないといけないのは、無理やり屁理屈をこねないことだと、リュティ氏は言います。

例えば、12人の占い女が、大地と自然に様々な贈り物をしてくれる12か月を表す、なんて解釈したとします。
そしたら、13人目の女は何を表すのか?
それは、王座を追われて忘れられた13番目の月だと解釈される。
陰暦では一年が13か月の年がありますよね。
で、太陽暦になったもんだから、13番目の月がなくなった。
「いばら姫」は、陰暦から太陽暦への移行を語る物語だ。
そんな解釈もかつてはあったそうです。
もしそうなら、ペローの仙女は7人しかいない~

この数は、昔話が好む7であり12だと考えればよい。
13人目の女は、量のコントラスト。1:12が拮抗している。

いばらとかハエとかも、いちいち意味を解釈するのはナンセンス。細かいことは、たいていお飾りで、たまたま一番後の語り手によって付けくわえられたものであることが多いんだって。

こうして、グリムとバジーレとペローのいばら姫を比較したとき、
どの時代民族にも共通するテーマがある。
脅しと救い、萎えと新たな盛り、死と復活
違いはどこから来るのかというと、
個々の語り手たちは昔話にそれぞれ時代の衣装をかぶせるのだというのです。そして、それが昔話の魅力。

結論
ペローの優雅と機智、グリムの細やかな心情、バジーレの力と熱、さらに三つの話にあふれているユーモア、そのどれも欠きたくない。

はい、おしまい。
次回は第2章眠る七人の聖者

***********

昨日から、ロシアの昔話研究者ウラジミール・プロップの『ロシア民話』(斎藤君子訳/せりか書房)を読み始めたんだけど。
ちょっと感動的なこと書いてあったので、紹介しておくね。

世界じゅうに類話があることについて、プロップは、こう言います。
ことばや、領土や、国境を越えて昔話は一つの民族から別の民族へと移り歩く。諸民族があたかも共同で詩的財産を創造し、つちかっているようなものである。
こう考えたら、昔話って究極の平和の使者だと思わない?
それからこうも言います。
昔話の普遍性、つまりいたるところに存在するという性質は、不死身であることと並んで、驚嘆すべき特徴である。・・・
なぜ普遍性があるのかというと、昔話には何か永遠不滅の価値があるからで、それについて、この本でゆるゆると説明していくそうです
とりあえず今は、
昔話が持っている情緒、あたたかさ、美しさ、深い誠実さ、楽しさ、みずみずしさ、きらめく機知
、幼児の素朴さと深い英知、人生に対する分別とを併せ持っている点を指摘しておくにとどめる。
めっちゃたのしみ( •̀ ω •́ )✧

あ、プロップさんの本、ごっつい分厚いし、あと2冊、おんなじ分厚さのがあるので、報告はしませんよ。
でも、ときどき、ねえねえ聴いてって感じで書くので、読んでね(●ˇ∀ˇ●)

 

 

 

いばら姫~ペロー🎨

京都府南部は、先ほどやっと雨が上がりました。
あまりにもざあざあ降り続いて恐いほどでした。
九州をはじめ全国あちこちで被害にあわれたかたがた、お見舞いいたします。

出来るときにできる事を。
出来る限り日常を。平常心を。

++++++

『昔話の本質ーむかしむかしあるところに』マックス・リュティ著 の報告を続けます。

きのうは、ナポリの詩人バジーレの「いばら姫」をみました。
バジーレの昔話集『ペンタメローネ』の日本語訳は、いま古本屋にしかなくて、しかも何万円もする!
でも、今日読むペローの昔話集は、岩波文庫にあるので、読んで見てくださいね。
『完訳ペロー童話集』新倉朗子訳
解説付きでおもしろいです。

バジーレの生没年が 1575?ー1632年。
ペローは1628-1703年。バジーレの次の世代の人です。詩人。
フランス古典主義華やかなりし頃アカデミー・フランセーズの会員であったとあります。アカデミー・フランセーズは、その頃、フランス語やフランスの学問芸術振興のために作られた国立の機関。だから、インテリですね。ルイ14世につかえています。

その社会環境が影響したことを考えてペローの「いばら姫」の再話を読んでみましょう。
「眠れる森の美女」という題です。
おお~、子どものとき観たディズニーの映画の題と同じ!

目覚めの部分を引用します。
「あなたでしたの、王子さま、ずいぶんお待たせになりましたわね」
王子はその言葉に、というよりはその口調にうっとりとなった。王子は自分の喜びと愛情をどう言い表したらよいのかわからなくて、
「自分自身より、もっとあなたを愛しています」といった。王子の言葉は少しごたごたしていたけれども、それが一層姫には気に入った。口数の少ない方が愛は深い、というではないか。
王子は姫よりずっとどぎまぎしていたが、別に不思議はない。なにしろ、姫には言うべきことを考える時間がたっぷりあったのだから。

なんか、めっちゃ笑えません???
リュティ氏、いわく。
ここには、グリムの場合とはちがって、慇懃(いんぎん)なサロンの反語法がある。

さらに、姫の服装が「おばあさんの着物」みたいだったり、音楽は美しかったけれど100年ほど前から演奏されなくなった古い曲だったりまします。
つまり100年の年月の経過を描いているのです。
このようなペローの再話法は、昔話の文体に違反しています。
昔話は時間の経過がない「無時間性」という性質があるからです。(こちら⇒昔話の語法)
でも、ここでは、それがかえって、姫に変化がないことを際立たせていると、リュティ氏はいうのです。

さて、「眠りの森の美女」には、「太陽と月とターリア」と同じく、グリムにはない後半がくっついています。
子どもが生まれて、姫と子どもたちが、義理の母親に苦しめられ、殺されそうになる。けれども、刺客によって助けられる、という話です。
この部分は、余計なつけたしとは言い切れないとリュティ氏は言います。
死の脅威と救済というテーマがここでもう一度かき鳴らされるのだから、たとえこの部分がよそから来たものであるとしても、他の部分と実によく合っている。これは、ライトモチーフの変奏である。

おい、おしまい。
次回は、類話比較の注意点。

これ以上雨が降りませんように。
崖や山間部を行くときは、土砂崩れに警戒してください。