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第3回昔話の残酷性について

今日は七夕ですね。
ですが、天気予報は夕方から曇ってきて雨になるそうです。
今朝まで七夕であることを忘れていたのに雨と聞いてなんだかちょっと寂しい中高年のワタシって何なんだろうと思いながら、昔話の残酷性についての勉強会を報告します(^^)

野村泫先生の『昔話は残酷か』(東京子ども図書館)をテキストにして勉強してきましたが今回が最終回でした。
今回は、昔話の残酷性を心理学的にみるとどうなるかについて勉強しました。
今回も、テキスト以外の資料を用意してくださり、野村先生以外の研究者や心理学者の意見も知ることができました。
”昔話は残酷か”という問いに対して、答えは”いいえ”だとは初めからわかっていましたが、3回にわたって丁寧に解説してもらって、改めて残酷というとらえ方をする大人の倫理や、実態を抜いて語る昔話の語法や、昔話を愛のある場所で語り継いでいく必要性などを考えることができました。
わたしは、昔話を含めて物語が好きだから語りをやり続けていると思っているんですが、昔話が語り継がれてきたメッセージを理解したうえで、安心安全な場と人間関係がある状態で子どもたちに届けることが大事なんだなと確認したというか、「お前、今頃確認してるのかい!」と一人突っ込みをしなければならないくらい衝撃でした。
自分がすでにそうであったように子どもたちは昔話を聞く機会が少なくなってきていると思います。
うちの子どもたちは幸運なことにヤンさんのお話会を聞いて育ちました。
ですから、ディ〇ニーも知っているけれども、元になるグリム童話も知っていますし、いまでも印象に残っている語りがたくさんあるようです。
その一方で、生まれた時からパソコンやゲームがある世代で、小学生の時には時間制限をしていたんですが、隠れてやっていたと大人になってからカミングアウト(笑)するくらい、今でもゲーム好きです。
ゲームもいろいろ種類がありますが、子どもの話を聞いていると”それって昔話のストーリーや冒険のワクワク感とかが同じじゃない?!”と思うことがあります。
格闘ゲームとかファンタジー系とかの話を聞くと思うんです。
人は、いくつになっても昔話の中に入っているワクワク感を必要とするんだろうか、それで癒されるんだろうかなどと勉強会の終わりに感じました。
それとかっこよさ。
我が子は時々ゲームに課金しているようなんですが、強くなるためだと思っていたら「かっこよくなるための装備に課金している」そうです。
そういうのを聞くと、残酷な場面をどう語るかというのも大事ですが、もともと昔話の語法どおりに中身を抜いてあるテキストならばその通りに語るだけでいいので、それよりも話の筋や主人公が幸せに向かって課題をクリアする場面をかっこいいと思ってもらえるように語るということに力を注いだほうがいいんじゃないかなと、そんなことを思いました。

この日は、いつもの図書館ではなくて貸会場を借りたんですが、部屋のカギをもらいに行ったときに会場の担当者さんに「タイトルを見て思ったんですが、昔話は残酷だということを勉強する会なんですか?」と言われましたΣ(・□・;)
参加者は全員語り手ですから、このタイトルを見てそう思う人はいないはずです。
でも、世間一般の人というか、ふつうはそう理解するんだと気づかされました。
真逆なんですね。
そう思うと、昔話は決して残酷なのではなくて大切なメッセージがあるんだということを知る語り手という存在が、今はまれな存在になるのかなと思うとともに、語り継ぐことの重大さというか、責任というか、大変さを感じました。
わたしたちって、天然記念物並みに珍しくて貴重なんじゃない?(笑)
そんな少数派でも、語って伝えるということが大事だと思うと、なんか頑張ろうと思いました(‘◇’)ゞ

6月のプライベートレッスン

雨が降らない曇りの日、蒸し暑いです~~
湿度が高いと何もかもがうまくいかなそうな気になってしまうワタクシ。
わたしだけですか?
そうですよね、どうもすいません<m(__)m>

6月のプライベートレッスンは2話でした。
1話目
「りくでも海でもはしる船」『かぎのない箱』J.C.ボウマン文、M.ビアンコ文、瀬田貞二訳/岩波書店
これは、原話ではなくてすでに再話してある話で、なおかつ翻訳の時点でも瀬田貞二さんの文章となって完成しているものです。
ですから、これを今回どうするかといいますと、読み物としての文章を、語るために耳で聞いて分かりにくいところに少~し手を入れるという作業を勉強されました。
ですが、初級クラスでは絶対この作業はしません。
ヤンさんは、経験をある程度積まないとテキストに手を入れるということを禁じているので、中級クラスになるとその勉強ができます。
それくらい、テキストに手を入れるということを慎重に考えているということなんですね。
テキストに手を入れるときにその根拠となる語法の知識も必要ですし、安易にできないです。
だから、テキスト選びが重要なんだとつくづく感じます。

2話目
テキストを日常語になおす
「おならじいさん」『語りの森昔話集4おもちホイコラショ』
回数を重ねてこられて、ほぼ完成形でテキストを持ってこられたので、すごく早く、すんなりオッケーが出ました~✌(‘ω’✌ )三✌(‘ω’)✌三( ✌’ω’)✌
すご~い!
へこきじいの話って、聞くのはすごく面白いんですけど、自分で語るのはハードルが高くて…。
「かきねの戸」を語った時、自分もこれが語れるようになったかとうれしかったんですが、へこきじいのことは考えていなくて今回「おならじいさん」を出してこられるのを知って、まだ超えられていない山がここにもあったかと気づきました(笑)
面白い話は日常語になおすともっと面白くなりますから、この話も語り手さんの日常語になおしてみるとテキストが生き生きしてくるというか、頭の中に語り手さんがすでに語っておられる声が浮かんできました。
そして、早く聞かせてもらいたいな~と思いました。
やっぱり聞くのはいいですよね~
自分のチャレンジはやっぱりもうちょっと後に伸ばしておきます(笑)

今年は梅雨入りが早かったから、早く開けるのかな?
少しでも日が差してくるとすぐに30度を超える暑さΣ(・□・;)
体調管理に気を付けて、みんな元気に頑張りましょう(^O^)/

最後の研究クラス

こんにちは。
梅雨なのに、昨日今日は中休みのようで洗濯を外に干せてうれしいのですが、とたんに30度越えの気温!
暑いです~~(;’∀’)

研究クラスの報告です。
「ヨリンデとヨリンゲル」KHM69
この話は初版から載せられています。
元は、ハインリヒ・ユング・シュティリングの自伝的小説『ヨーハン・ハインリヒ・シュティリングの生涯』(1777年)の中にある話で、昔話であるのか創作であるのかは解明されていないけれども、創作ではないかという考えが優勢なのだそうです。
グリム童話の中にはそういう出自の話もあるんですね。
話型はATU405「ヨリンデとヨリンゲル」で、類話がないそうです。
レポートでは、テキストの比較をしてくださいました。
『初版グリム童話集3』吉原高志・素子訳/白水社、『完訳グリム童話集2』高橋健二訳/小学館、『子どもに語るグリムの昔話6』こぐま社、『語るためのグリム童話4』小峰書店の4種類のテキストを比較し、実際に覚えられたのは『語るためのグリム童話』でした。
同じ話であるのに、4つを並べてみますと違う箇所があります。
文字にしたらほんの少しですが、「意味が違ってこない?」というのや、順番を変えてイメージしやすくしているところがあり、並べてみることの大切さを改めて感じました。
丁寧に比べていくとそれぞれの再話のいいところや苦心がわかります。
いい勉強になり、楽しかったです。

研究クラスは、2013年にヤンさんを講師にしてババ・ヤガーを作った時に、最初は中級クラスとして始まりました。
昔ばなし大学で知り合った仲間同士で、ヤンさんに語りについて教えてもらいたいと思ってお願いしたのが始まりです。
その時わたしは、語りの初心者とはいえず、そして若手とも言えない立ち位置で、もう少し深く突っ込んだところでダメ出ししてくれるような勉強会を望んでいました。
初級ではないという意味で、中級クラスという名前になり、レポート付きで語りをする勉強会が始まりました。
1回に語る人がはじめは5人くらいでしたが、だんだん時間が足りなくなり、レポート付きが2話とレポート無しが1話となり、最近はレポート付きが1話だけですがその代わり呪的逃走の話をみんなで読み進める企画を長いこと続けています。
『世界の民話 ひとと動物との婚姻譚』(小沢俊夫著/中央公論社)をテキストにして語法の勉強をしたのもこのクラスだったと思います。
ババ・ヤガーの勉強会の種類が増えていき、初級クラスを卒業する語り手さんが出てきたタイミングで、中級クラスという名前を譲って、研究クラスに改名しました。
この日、「10年やってきたんやな~」としみじみみんなで言ってたんですが、このクラスのおかげで〝調べる〟ということができるようになりました。
これがとっても大きい成果だと思います。
わたしは、AT番号とか、ATU番号とか、モチーフ番号とか、もう数字がたくさんあるとそれだけで拒否反応が出ていたんですが徐々に慣れ、今はもう怖くありません!
「どこからでもかかって来なさい~」(笑)
今後ですが、研究クラスのメンバーはレポートを出したいときは中級クラスで手を挙げることになりました。
中級クラスで時間を長めにもらって語りとレポート発表をすることになりました。
そして呪的逃走については、まだ読み合わせていない話はわずかだそうなので、どこかのタイミングで一度集まれば終了できる予定だそうです。
ついにあと一回でまとめができるところまで来たというので、みんなで手分けした呪的逃走話の研究も「すごいことやり遂げようとしてるん違う?!」と思います。
ほんと、楽しかったです。
研究クラスはこれで終わりますが、メンバーは、ほぼみんなが他の勉強会でこれからも一緒なので、淋しいとか悲しいとかいうことがないのがこれまたうれしいです。
ヤンさん、今までありがとうございました。
そして、これからもどうぞよろしくお願いします~~

第2回昔話の残酷性について

昔話の中に出てくる残酷な場面。
たくさん出てくる残酷と思われる場面を、子どもたちに昔話を与える側の大人や語り手がどうとらえたらいいのかを探す勉強会の2回目です。

テキストとしている野村泫先生の『昔話は残酷か』(東京子ども図書館)は、前回の続きから「第3章文芸学の立場から」をおしまいまでと「第4章民俗学の立場から」を読んでいきました。
民俗学では、16世紀の魔女裁判や18世紀の「公定処刑料金表」の記録から、その時代に実際にあった処刑方法の一部が昔話の中に反映されているだけで、特に残酷な場面を描きたいがために新たに考え出したのではないことが明らかだということでした。
わたしは、韓国と中国のドラマに日ごろ大変お世話になっておりますが、時代物や宮廷物を数をこなしていきますと処刑場面が多々あり、まさに西欧の処刑と同じ場面を見ているのでとても納得しました(笑)
次に、今回はヤンさんが用意してくれた資料を基に、小澤俊夫先生が刊行されている雑誌『子どもと昔話』とヤンさんが昔ばなし大学で実際に残酷性の講義を受けられた内容を講義していただきました。
この、昔ばなし大学の講義がとても面白くてよかったですし、感動する内容でした。
小澤先生がおっしゃっているように、「昔話は、人生と生命をまるごと、あるがままに語る」ものなので、実母であれ継母であれ、ひどいことをする一面は必ずあります。
また、子どもたちの幼い理解力からすると、善と悪をはっきりさせたうえで最後には悪を完全に倒して亡き者にしないと主人公の身の安全は得られません。
昔話が中身を抜いて語ることによって残酷な場面をリアルさを消しながら必要だから登場させている。
そのことを語り手は心に落としておいて、人間の残酷さに目を背けないで語る勇気を持たないといけないということでした。
昔話を聞いた子どもたちがいつか大きくなって生きる力を奮い起こさなければいけない状況になった時に、残酷だと思われる場面を含む昔話をきいたからこそ「最後に悪は完全に滅びて幸せがやってくるんだ」と思ってくれることを祈ります。
大人が残酷な場面を抜いたり改ざんしたりしていると、子どもたちの生きる勇気になる材料を消してしまっているのかもしれません。

他にも、古代信仰の現れとか生き物はすべてが他の命をもらって生きているとか、いろいろな説明をしていただき、昔話のすべてを包括する奥の深さと面白さに改めて感動しました。
聞き手が「ああ、怖いぃ~~、もうやめて~」と感じたらそれは失敗で、「やっつけてほしい!」「(悪者が)死んでよかったぁ~」と感じてくれたら成功なんでしょうね。
どんな昔話にしろ、終った時に満足してくれているのかどうか聞き手の様子をよく見て次につなげる、ということをやり続けていかないといけないなあと思いました。
次回は最後の回となります。
「心理学の立場から」をお勉強します。
次回も楽しみです(^O^)/

5月のプライベートレッスン

まだ5月なのに今年はもう梅雨入りしたそうで、そういえば今週はまだ一度も洗濯物を外に干していない…。
そしてちょっと前より気温が低くなってて、ちょっと肌寒いので半袖か長袖か迷うという、うっとうしさ。
愚痴っていても仕方ない(笑)
今月のプライベートレッスンは3話でした。

語り(日常語)
「ぶんぶくちゃがま」語りの森HP → こちら
語り
「三枚の鳥の羽」『語るためのグリム童話4』小峰書店
語り(日常語)
「きつねの恩返し」『日本の昔話3』福音館書店

今月は語りが3話。
1話目の「ぶんぶくちゃがま」は、残念ながら参加できずに聞けなかったのですが、語りの森HPの「ぶんぶくちゃがま」のページをみると、こちらの話は2つある型の2番目ですね。
そして、3話目の「きつねの恩返し」が1番目の型で、期せずして両方のぶんぶくちゃがまが上がったということで、1話目が聞けなかったことがなんとも残念でありました。
2話目と3話目の語りを聞いていて、わたしの頭に残っているほかの方の同じ話の語りも思いだされてきました。
それは、「ほかの人は、こんな感じだったなあ~」というぼんやりした記憶だったり、目の前の語りの中でわたしのツボに入った好きな箇所との比較だったりするのですが、どの人の語りもいいなあと思いました。
同じテキストなのに語り手さんが変わると違ったふうに感じるというのはどなたも経験があると思います。
今回もそうなのですが、特に「みんな違ってみんないい!」と思いました。
細かいところは違う語り方なのに、それぞれにいいなと思うのはなんでかなと考えますと、今のところ思いついたのは語り手の伝えたいという気持ちかなと思いました。
日頃漠然と、語り手さんの語りたい気持ち伝えたい気持ちは、別物ではないかなと思っています。
まったく一個人の私的な考えなのですが、違うような気がしています。
わたしも話を選ぶときはもちろん好きな話を語りたいと思って決めるわけです。
だからこの時点では語りたいなんですけど、覚える時点からは伝えたいに変わるんです。
どうやったら伝わるかなと思って、テキストを修正したり、語りの練習をしたりしていると思います。
話の背景を調べるときも、話のメッセージを知ったらそれを伝えたくなります。
その間に、話を読み込んでメッセージをある程度つかんでいるから聞き手に伝わるのかなと今回語りを聞いていて思いました。
語りたいというのはテキストを覚えればできるけれども、伝えたいというのは話を理解しないとできない、という違いなのかな、とかそんなことを感じました。
だから、それぞれの語り手さんの語りに、テキストが同じでもそれぞれの良さがにじみ出てくるのかなと思いました(^^)
で、ひとつ前のヤンさんのブログで、「耳をきたえる」っていうのが出て、そのなかに「伝わるように話す」ということばがあったので、やっぱり伝えるっていうことが大事なんやと再確認したのでした~