「昔話あれこれ」カテゴリーアーカイブ

どこへ行きたいんだろう🚶‍♀️

古い雑誌を取り寄せました。
『季刊民話』民話と文学の会
その創刊号で、1974年12月1日発行。
全96ページの薄っぺらな冊子です。
編集後記に、創刊号を作るために、奥丹後、会津、出羽とよく旅をしたと書かれています。民話の雑誌は足でかせいで作らねばならないとも。
その旅で見つけた語り手は、その土地でおそらく一生を終える人たち。その語りは、その土地の言葉で、その土地独自の物語。

生成AIで動画まで作れる時代に、このような雑誌が保存され市民の目に提供されるとは、ほんに、図書館は宝箱だと思う。

この雑誌に掲載されている話のいくつかは、これから再話して語ってみようと思いますが、今回は、松戸市にある幼稚園の先生のエッセイについて書きます。
「おむすびとパンツ」という題の文章です。

先生はいつも園の子どもたちに昔話を語っているようです。
あるとき、「おむすびころりん」を語りました。
「むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが・・・」と語り始めると、子どもが、「知ってる!桃太郎だ」といいました。
これって、今でもよく経験しますね。ヤンなんかしょっちゅうです(笑)
そのとき、先生は、なにくわぬ顔で先を続けました。すると、子どもが首をかしげます。先生は、「始まりは桃太郎と似ているけれど、違う話だよ」と説明を入れます。

ね、説明を入れるんですよ!

おじいさんは、おむすびをひとつずつねずみの穴に入れていきます。ぜんぶ入れ終わったとき、先生は子どもたちに相談するんですって!
「もう何もいれるものがなくなった」って。すると子どもが、
「まだあるよ、パンツが残っている」
先生は、
「パンツもころりんすっとんとん」と語る。そして、「あーあ、もうなんにもない」というと、子どもが、
「あるよ、おじいさん入っちゃいな」
先生は、
「それじゃあ、目をつむって、えい!おじいさんは、穴の中に飛びこみました」

そうやってストーリーは、あるべき道を進んで行くのです。

この先生は、子どもの反応を見ながら、手ぬぐいや着物などを穴の中に投げこんでいくそうです。子どもと語り手とが一体となって話をつくりあげていく。
この場面が、子どもたちがいちばん熱中して聞き入って来るそうです。

うーん、まいった!

子どもと一体になる語りは、ヤンも目指しているけれど、その方法はとっても難しくて、いつも試行錯誤。
まずはテキストに書かれた言葉にとらわれずに、話の魂を理解して自分の心に取り込むこと。そこではじめて言葉は自在に働くし、聞き手の気持ちと一体になれる、と思う。

先生は、子どもにとって民話だけがすべてではないとしながらも、こういいます。

「わたしが話している昔話を子どもたちが大きくなったその日に、自分の子どもたちに語って聞かせてやれる日があればと思いつつ、ひとつでも多くの昔話を自分のものとして知り、子どもに面白く語れる人になりたいと願っています」

がんばります。
すてきな先達に会えました!


子どもの柴刈りの写真(季刊民話)

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昨日はおはなしひろばを更新。
「おおかみサラマル」聞いてくださいね~

さてさて、毎日バタバタしていて既読スルーしていた井戸端会議のみなさんの記事をじっくり読み返さなくては~

 

こんな本📖

 

ジミーさんに紹介していただいて読んでみた。
『ひどい民話を語る会』
京極夏彦・多田克己・村上健司・黒史郎
角川書店 2022年

妖怪好きの上記の四人がひどい民話について語ってる対談(?)です。

ヤンは、日本昔話集成や日本昔話通観を毎日読んでいる身としては、知っている話がバンバン出て来ておもしろかったです。

「ひどい」民話といっているのは、いわゆる話型を持った昔話とはズレた話で、昔話が、きちんとした構造を持っているのに対して、ゆる~い、ある意味不完全な構造の話(これを民話と、この本では呼んでいます)。そのなかでも、下ネタの話が次々出て来ます。

ここで紹介されている話は、ヤンはほぼ再話に使っていませんね(笑)
「くさかった」くらいかな?
わざわざ次に伝えたいと思わなかったので。

京極夏彦さんは、「おわりに」で、これらのひどい民話は、ただのウケ狙いで、いろり端の一夜限りのその場しのぎの、アドリブだらけの、口がすべっちゃっただけの、適当な与太話だったのかもしれないといいます。
そして、そんなどうでもいいものが後世に伝えられるなんて素晴らしいと。

ヤンは、それらを再話はしていないけれど、資料として読むことで、かつてのいろり端の濃厚な空気を感じることができて楽しいと思っています。
おはなしってそうやよな~って思うのです。

昔話資料を読まなくても、この本を読めば、どんな「ひどい民話」があるか分かりますので、ぜひ読んでみてください。そして、興味があれば、1冊でも2冊でも原資料を手に取ってみてください。
語りの現場の臨場感に浸ることができます。

ヤンは、そんな語りの場をゆる~く追求したいなと思っています。

ツクツクホーシの声が、涙が出るほどうれしい今日この頃。
早く秋になれ~~~~

 

 

おとぎ話が神話になるとき🦁

本の紹介です。
ジャック・ザイプス著 吉田純子・阿部美晴訳 紀伊国屋書店 1999年

おとぎ話っていうのは、昔話とか民話とか、妖精物語とかのことです。

わたしたちは、グリム兄弟が、彼らの意図・目的があって、口承や書承の物語を再話したって知ってますよね。それは、近代国家の成立っていう、時代の要請でもあった。
ところで、ディズニ―は、グローバルな資本主義の意図のもとに、グリム童話等をアニメ化した。
そうやって、おとぎ話は、時代によって変化させられてきた。
その流れの中で、本来の物語の力はどこへいってしまったのか?
というようなことを考えさせる本、だと、思う。

本の帯に、こう書いてあります。

おとぎ話を殺したのは誰?
ーグリム兄弟やディズニーがかけた呪文を解き、物語の力を取り戻すためにー

ストーリーテリングというのは、物語の言葉でその場の人びとをひとつにまとめて、経験から生まれた知恵を伝えるもの。
ううむ、むずかしいな。少なくとも、それは語られてこそ生きる物語ってことかな?
ちょっと手に負えない部分もあるので、現段階で紹介するのは無責任かと思うけど、みなさま、読んでみてください。そして、考えたことを教えてください。

目次を紹介します。
1おとぎ話の起源
2ルンペルシュティルツヒェンと女の生みの力の衰退
3ディズニーの呪文を解く
4アイアン・ジョンについての神話を広める
5アメリカの神話としてのオズ
6現代アメリカのおとぎ話

4~6で紹介されている作品で読んだことのないものがあるので、ちゃんと読んでから、もう一度勉強したいと思っています。

画像は、「オズの魔法使い」の表紙絵です。

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猛烈に暑いって思ってたら、こんどは猛烈に雨が降っています。
各地のみなさま、どうぞお気を付けください!

今日のおはなしひろば更新は「阿波のせいざえもんと京の古金屋でんべえ」です。いい話です。聞いてくださいね。

 

6月のおはなし会🐌

6月23日(月)

こども園 4歳さん 1クラスずつ2回

ろうそくぱっ
おはなし「三匹のくま」『語りの森昔話集4おもちホイコラショ』
ろうそくぱっ

てっぱんの三匹のくま。
長さを感じずに楽しんでくれました。
今年の4歳さんは、よく聞ける学年やなあと思います。
おばあさんが、くまの家に侵入すると、「どろぼうやん」「悪(わっる)~」
「ぶつぶつもんくをいいました」の繰り返しにお腹をかかえて笑いながら、「さて、くまたちは、もうおかゆが冷めたころだと思って」というと、シンとします。
どろぼうのおばあさんがどうなるか、恐くなるようです。
めっちゃ集中してたひとりの男の子が、そうっと何気なく部屋から出て行きました。「え?」って思いながら見てたら、廊下から聞いてるのですよ。

 

6月25日(水)

こども園 5歳さん 1クラスずつ2回

ろうそくぱっ
おはなし「アナンシと五」『子どもに聞かせる世界の民話』矢崎源九郎編/実業之日本社
おはなし「くらいくらい」『語りの森昔話集』
ろうそくぱっ

ハトの奥さんの「それから・・・」の間(ま)で、「五!!!」って叫んでしまう子が、何人もいます。
どう語ったらええのか、勉強さしてもらってます。
ただ、アナンシが「五!」といったとたん、「あ!」って気づいてくれるから、まあいいか(笑)
ラストはアナンシが死んじゃって、みんな満足。うれしそうでした。
「もっかい!」のリクエストにお応えして、「くらいくらい」をやりました。
「前もしたやん」っていったんだけど、それでも聞きたいようです。
「ぎゃあ~~~~」といって終わりました。

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いま読んでる本に、ストーリーテリングと読み聞かせや読書との違いについて書いてあってね、ストーリーテリングは、聞き手と語り手とがギブアンドテイクで作って行くものってあったんです。
だから、本で読んだり、朗読で聞いたりするのとは根本的に違うのね。
「ぎゃあ~~~~」で終われるのが、ストーリーテリングなんですよ。

 

生きぬいて、モリー💃

今日は沖縄慰霊の日です。
毎年体験談に接しては、恐怖と悲しみと憤りに胸がいっぱいになります。

今年は、敗戦80年ということで、東京や大阪や日本国じゅうでの空襲や、さまざまな戦争体験がニュースや新聞に、写真とともに載っています。
がりがりにやせて真っ黒な顔の子どもたちの表情。

ひるがえって、現在進行で行われている戦争。
やはり、がりがりにやせて真っ黒な顔の子どもたちの表情。

この責任は、わたしにもある、と自分に言い聞かせても、それなら何ができるのかと、絶望的になります。

今月の語りクラスで話題に出たんだけど、「かしこいモリー」の王さまが「盗む」という言葉を使うのはよくないから、「とる」にしたらいいのではないかという考えについて。わたしの考えを聞いてくださいね。

「大男の刀(財布・指輪)を盗んで来たら」を「大男の刀(財布・指輪)をとってきたら」にする人がるけれど、どうなんだろうっていう意見です。
でもね、たとえ言葉を「とる」に変えても、盗んでくることに違いはありませんよね。
言葉の表面だけ言い換えても実質は変わらない。それって、ごまかしなんじゃないかなと思うんです。それか、わたしは盗まないという自己満足。

モリーは、親に捨てられた子どもです。親は、食べさせることができないから、どうしようもなくて捨てちゃった。捨てたくなかったでしょうね。
捨てられたから、モリーは、ふたりの姉さんといっしょに、まっくらの森の中をひたすら歩いた。
生きるために。
がりがりにやせて、真っ黒な顔をして。

そんな弱い存在が生き抜くためには、どうすればよかったんでしょう。
知恵を使って、大男の娘たちの金の鎖と自分たちのわらなわを取りかえたところで、モリーに何の罪があるでしょう。
そして、絶大な富と力を持つ王さまが、盗んでおいでといったとき、「やってみます」以外の答えはなかったと思います。
自分が幸せになるために。

そして、わたしは、モリーに幸せになってほしいです。

わたしは、モリーに何もしてやれない。
けれども、もし不幸にも、目の前の子どもたちががりがりにやせて真っ黒な顔になったとき、モリーを思い出してくれたらと思います。

目の前にいる子どもだけでなく、その先を生きる子どもたちみんなに、モリーのように生きてほしいと思います。
だから、わたしはモリーを語ります。

豆の木に登っていったジャックも同じです。
人食いの巨人、しかも宝物をいっぱい持っている巨人から、盗んでくることを悪ということはできません。
それでもなんでも生き抜いてほしいと、わたしは思います。

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今日の更新は《日本の昔話》「海行こう、川行こう」です。
悲しいテーマのお話ですが、カラっと語れば心に響きます。
語ってくださいね~