京阪電車伏見稲荷駅。
トレイルの出発地点。
昔からかわらぬ朱色に満ちた道に漂う香ばしい匂い。
夫「お、うずらや」
私「たべる?」
夫「やめとこ」
ひと昔まえに比べると外国語が多い。いや、ほとんど外国語。
そういえば先年行った富良野でもそうだった。
異国情緒が漂う……
私「お賽銭は?」
夫「やめとこ」
年金生活では、御利益を願うことすら難しい。
ちなみに正月三が日の賽銭額は、伏見稲荷が全国一だ。なんで……
千本鳥居を上る。
夫「ひとつ、寄進しよか」
私「なんぼやろ」
夫「やめとこ」
山道に入る。
急に人がいなくなる。
夫の後姿を見ながら歩く。
もう何十年もこうして歩いてきた。
足の長さが違うからだ。
6年前に病を得て、ようやく寛解した夫は、ほねかわすじえもんだ。
これはうらじろ、これはなんちゃらつつじ、これはすだじい。
なんぼ言われても覚えない私は、よい妻だ。
山道が心細くなった頃、住宅地に出た。
路地の向こうから、ほら貝の音が聞こえてきた。
剣神社から今熊野神社へ神輿が渡る。
おとな神輿の前を、楚々とした乙女たちがゆく。
神に仕える巫女たちだ。
ひとりが遠慮がちに近づいてきた。
「おはらいしましょうか」
うつむいておはらいを受ける。
私もかつては乙女だった。
いまはおばあさんになって、美しい乙女からおはらいを受ける。
時は過ぎる。
それはけっして不幸ではない。
わっしょい、わっしょい、わっしょい。
子どもみこしがやってきた。
若い衆に守られ、つついっぱいにさけぶ。
わっしょい、わっしょい、わっしょい。
私もかつては子どもだった。
時は過ぎる。
それはけっして不幸ではない。
渋谷街道から清水山への道をとる。
あれ、目じるしの階段がないぞ。
探すうちに夫が先へ歩いていく。
そっちとちゃうで…
呼んでも聞こえず。
山へ向かうなら、登るはずではないか。
夫はどんどん下っていく。
追いかけたけど追いつかない。
足の長さが違うからだ。
取り返しのつかない地点まで来て、やっと立ちどまった。
追いついた私に、ひとこと。
「おかしいなあ」
おかしいのはあんたや。
京都一周トレイル東山コースはこうして終わった。
きょうは、美しい乙女からおはらいを受けた。
人生はそう捨てたものではない。
前向きに歩こうと思った。
帰りの京阪電車で、席を譲ってもらった。
頭を下げてふと見たら、同年配の男性だった。
思わず帽子を目深にかぶった。
うううん、ちゃう。英国紳士やと思うとこ。
ヤン