マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
『昔話の本質』が終わったので、その続編『昔話の解釈』を読みますね。
前巻と同じく、野村泫訳/福音館書店刊です。
この本の副題は、「今でもやっぱり生きている」です。
昔話の結末句ですね。ヨーロッパの昔話にはよく出てきます。
結末句については《昔話雑学》参照のこと(こちら⇒)。
なぜこの副題を付けたのか。
この結末句について、本書の「まえがき」に説明があります。とっても興味深い説明です。
まず、「死んでいなければ、今でもやっぱり生きている」という句で語りを結ぶとき、語り手は、実際の出来事や現実の人間について語ったのではないぞ、ということを聞き手に合図で知らせているのです。
架空の話、ウソ話だよという宣言です。これは、発端句「むかしむかしあるところに」と同じ役割ですね。
架空の話だということに、どういう意味があるのでしょうか。
ひとつは、昔話の登場人物は、いつかどこかに生きていた実際の人間ではないけれど、だからこそ、今でも生きているということです。
彼らは、流れる時の外に立っていて、人間の本質を表しています。人間の本質、それは、昔も今も、私たちすべてにかかわる問題です。昔話は、人間と、人間と世界の関係を形にあらわしたものです。
架空だということで、普遍性を持つ。これはあなたのことだといっているのです。
ふたつめは、現代、とくにヨーロッパでは口承がほとんど滅びてしまったそうです。けれども、グリムが『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(いわゆるグリム童話)を編んで後、つぎつぎと昔話が集められて本の形に書き留められた。だから、今でもやっぱり生きているのです。
この書き留められた昔話集(資料)をみると、同じ話型に属する話が、さまざまなバリエーションを持って出てきます。
リュティさんは、これらの類話を比較することで、ひとつひとつの話の意義や、その話型が全体として持つ意味が分かると言います。それによって、新たな考察と理解にたどり着くことができると言います。
そこで、本書では、グリム童話でもとくに有名な話を取り上げ、その話の独自性と普遍性をよりよく理解するために、様々な類話を参照するかたちをとっています。
というわけで、次回は「七羽のからす」です。
たのしみでしょ。
KHM25。
前もって読んでおいてくださいね。あ、絵本ではだめですよ。