マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。
第3章「金の毛が三本ある悪魔」おわり
年をまたいだ金の毛三本。今日でおしまいにするね。
この話のラスト、主人公を何度も死に追いやろうとした王さまが、渡し守になって永遠に船をこぐことになる場面についてです。
この場面、子どもに語ると、「やったー!」感がはじけます。
王さまは、自分の欲によって自滅します。
婿に押し付けようとしていた死の運命を、自ら受けることになる。
人間は自分のせいでしか滅びないというのが、昔話の中にさまざまな音色で鳴り響いているテーマだと、リュティさんは、言います。
白雪姫のお妃もそうでしたね。
そして、渡し守の質問の答えである「次に川を渡してくれといった人に櫂を渡せば、その人が替わって渡し守になる」の「その人」が、他の誰でもない、ドンピシャ主人公を苦しめた王さまだったということ。
これは、内容的にも意味深いけれども、芸術的にもよく考えられています。
「文学的節約」「美的節約」ということを思い出してね。
この第3章をはじめから読み返してみてください。
そこで気づく、繰り返される昔話のもう一つのテーマ「人間は、此岸の世界からも彼岸の世界からも流れ寄ってくる援助に導かれている」
コロナで距離について、孤独について、考えさせられてるけれど、昔話のこのテーマ、ヒントにならないかな。
もうひとつ。
オイディプス神話は、不幸の予言が、あらゆる防止策にもかかわらず実現されて、悲劇に終わる。
金の毛が三本ある悪魔では、幸福の予言が、あらゆる対抗措置にもかかわらず実現されて、幸せな結末を迎える。
この対称について述べたあと、リュティさんは、この章をこう締めくくっています。
昔話は人間が危険にさらされることも知っているし、それを露骨に描いている。けれども、昔話は試練をすべて意義あるものとして認め、人間をその試練により強められ高められるものとして描いている。
はい、おしまい。
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次回は第4章。
そのまえに今週更新したノルウェーの昔話「旅の仲間」を読むか聞くかしておいてね。つぎはこの話についての考察です。
ヨーロッパでは有名なんだけど、日本語の翻訳が少なくて、知らない人が多いと思います。
こちら⇒旅の仲間
”昔話は試練をすべて意義あるものとして認め、人間をその試練により強められ高められるものとして描いている”
なんか、昔話っていうのは、人類の願望がひとつに凝縮しているような気がしました。
生きていたら、悲劇っていうのは避けられないし、自分のせいじゃないのに自分が苦しむこともあるけれども、そんなときに何かほかのものに目を向けたいと思うんです、バランスを取るために。
昔話の中に、そんなときの救いや望みが詰まっているように思います。
「そんなわけないやん!」と、言い切ってしまえない強い吸引力が昔話にあるような気がしました。
辛いときに何に救いを求めるかは人それぞれだけれども、昔話はきっと最大公約数なんでしょうね。
ジミーさん、深いコメント、ありがとうございます。
なんでもない平穏な時には、表面的な面白さしか気が付かないけれど、何かがあったときに、これは主人公に課された試練だって、思えると、救われるよね。勇気が出る。
最大公約数だから、昔話は大切なんやね。