「児童文学を読む」カテゴリーアーカイブ

ディズニー「わんわん物語」🐕

『瀬田貞二 子どもの本論文集 児童文学論上』報告 つづけます。

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第3章書評など
≪映画評① ディズニー「わんわん物語」≫1956年

ディズニーの「わんわん物語」って、観たことありますか?
私は、あります。映画館で観ましたよ。
1955年製作なので、リアルタイムじゃないですけど。リバイバル上映でしょうね。幼かったから事情は分からないけど。母と、隣のMちゃん母子と一緒に連れて行ってもらったことを覚えています。
そのころの子どもにとって、それは夢の世界でしたね~

今調べたら、DVDやブルーレイで買えますね。(あ、買わなくていいです。図書館が開いたら探してください)
ディズニー・キッズのサイトではストーリーとキャラクターが見られます。
YouTubeで「わんわん物語」のさわりだけ観てください。

瀬田先生の批評

期待されてたそうですが、「職人芸のこなしのうまさ・・・深々とした感情の調和というものがなくて、べらぼうに腕達者になっている」点では楽しめると言います。
でも、そこまでで、あとは酷評です(笑)

ディズニーにはイデオロギー(思想・観念体系)がない。
ディズニーが「わんわん物語」でねらったテーマは「愛情の偉大さと美しさ」。
けれども、瀬田先生は、アメリカ好みの精神分析学的な心理描写がくどすぎて、モティーフが割れていて、甘いと言います。

イデオロギーがない代わりに、生活感情のソフィスティケーションがある。
ソフィスティケーションっていうのは、都会的な洗練のこと。グラフィックデザインの見事さ、幻想的な踊り、等々。
なるほどね、あの時代の子どもたち(もしかしたら大人も)幻惑されたはずだ。

そして同時にしつこいほどの泥臭いリアリズムもあるんだけれど、そのリアリズムも人間中心である限りにおいて、限界がある。
たとえば、動物の描写はリアルなんだけど、徹底できてなくて、ソフィスティケーションを持ち込んでしまうというのです。

結論
引用
レイディとノラ公とがはじめていっしょにすごすイタリア料理店の、話のすじと技法の上で調和のとれたリアリズムの線で、全体がおされていくほうが、ディズニーふうに、健全だったのではあるまいか。

ぜんぶを見直してみないことには、何とも言いようはありません。
が、ディズニーが、子どもたちに及ぼす影響は、昔も今も変わらないということだけは確かですね。
「わんわん物語」はディズニーのオリジナルですが、原作がある場合の映画をどう考えるか、瀬田先生にお聞きしてみたいです。

アーサー・ランサムの物語の特質

『瀬田貞二子どもの本論文集児童文学論上』報告 つづき

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第3章書評など
「アーサー・ランサムの物語の特質」1967年発表

アーサー・ランサム(1884-1967)
イギリスの作家、ジャーナリスト

もともとは児童文学とは関係のない高踏的な文学者で、グールモンやゴーチェを訳したり、ポーやワイルドに関する分析をしたり、凝った文章の小説を書いていました。
ところが、そのうち、ヨット航海にのめりこみ、中年を過ぎて、ヨット仲間の子どもたちにお話を語り始めた。それが、『ツバメ号とアマゾン号』です。
そして、つぎつぎに12冊、子どものための小説を書き上げたということです。

瀬田先生の言葉を借りれば、
文学と人生のゆたかな人が、あるとき気軽に(自分自身が楽しんで)、ゆうゆうと(力量を落とさず苦渋せずに)、年若い人々のためにお得意のお話をしてきかせた
ということです。

1936年 第1回カーネギー賞を『ツバメ号の伝書バト』で受けています。

この「ツバメ号とアマゾン号」シリーズについて、瀬田先生は、ご自分の文庫などの子どもたちの言葉を拾いながら評しています。

「ぼくたちそっくりだからすきだ」
ランサムという成熟した作家が、子どもの心になりきって、子どもの感じ方で作品全体を統一していることに、瀬田先生は驚いています。
大人でいて、子どもの視点が自由にとれる作家は、児童文学でもっとも有利な資質の持ち主である

「それは四人の島だった」に傍線
この個所は、事件が起こる予兆の部分。読者である子どもが自分のこととして冒険を経験しているのだといます。
普通の子どもたちが、休暇中に出会う冒険を語っているという意味で、日常生活に冒険を持ち込んだ作家といわれています。「休暇物語の創始者」です。

「地図のない本は、読む気がしない」
実際に地図があるかないかではなく、物語の背景となる土地が、完全にリアリティをもって書かれていることが重要だと言います。
逆に言えば、水も漏らさぬ構成になっていなければ、地図は描けないのです。
ランサムは、自分の掌のように知り尽くした湖水地方や北海を背景に選び、そこに得意とする船を浮かべ、熟知した帆走の知識で物語を展開しています。

「この本には、あらゆることがちゃんと書いてあるわ」
ランサムは、省略しないで、全てを、楽しみながら、抑制のきいた筆で描いていきます。
ランサムの言葉の引用
子どものためではなく、自分の楽しみのために私は書きます。もし幸せにも子どもたちが、その楽しみを楽しみとしてくれれば、それがとりもなおさず、子どもの本の作家となるのです。

最後に、瀬田先生は、ランサム自身の描いた挿絵を、稀有なストーリーテラーの語り口とみごとに調和していると絶賛します。

 

プーさん頌📚

『瀬田貞二 子どもの本論文集 児童文学論上』報告つづき~

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第3章書評など
プーさん頌(しょう) 1958年発表

A・A・ミルン(1882-1956)作家

瀬田先生がこの文章を書いた時点での、プーさん(石井桃子訳)の日本における出版
1940年『熊のプーさん』岩波書店
1942年『プー横町にたった家』岩波書店
1950年『熊のプーさん』英宝社
1950年『プー横町』英宝社
1957年『クマのプーさん』岩波少年文庫
1958年『プー横町にたった家』岩波少年文庫
つまり、『プー横町にたった家』が岩波少年文庫で出たときに書かれたのがこの文章なんですね。
ちなみに、添付写真は、岩波書店から1962年にでたハードカバー。

ヤンにとって、プーさんは、『たのしい川べ』と同じく、人生を通じて影響を与えてくれた作品です。読むたびに、みずみずしい子ども時代の感性を呼び戻してくれました。
小学生の頃、「将来どんなつらいことがあっても本さえあったら生きていける」と思わせてくれた2冊です。そして、それは、本当でした。
ハードカバーなのに、ヨレヨレ(笑)

さてさて、瀬田先生の論考ね。

プーさんの魅力は、学校へ行く前の子どもの生きている世界の楽しさにあるといいます。
大人がひとりも出てこない、大人の息吹すらかからない楽しさ。

英語のファンタジー(空想)という語のギリシア語の語源は「眼に見えるようにすること」だそうです。
ハーバード・リードによれば「空想とは、時間空間の秩序から自由である恣意性とともに、眼に見えるような鮮やかさと合理をそなえた客観性を持つ」そうです。
「恣意性」っていうのは、辞書によると、「音声面とそれが指示する意味面との結びつきは必然的なものではなくて、社会慣習的な約束事としてのものであるということ。ソシュールの理論の基本的概念の一つ」だって。
瀬田先生は、恣意性と合理性は相反するようだが深いところで結びついていると言います。そして、「大人の世界と別に生きている子どもの世界」の存在が、それだと言います。
大人は、子どもの空想壁なんていうけれど、そうじゃなくて、あれは子どもの特別な世界なんだと。
だから、瀬田先生は、
プーの本は、中途半端な大人にはわからない
というのです。

プーさんはイギリスのファンタジーの伝統から生まれたものだけれど、伝統といっても、いろんな形がある。で、デ・ラ・メアと比較しています。

『ムルガーのはるかな旅』
子ども心は神秘的で広大無辺で、昇華された音楽でもあり詩でもあって、ふしぎがそのまま個々の現象に照りかえってくる
『クマのプーさん』
一人息子のクリストファー・ロビンと遊びながら、作者は自分の子どもの頃を生きた。自分が子どもにたちもどった瞬間を見、聞き、全才能を傾けて紙の上に移しとめた。だから、空想の世界でありながら大変リアリティがある。

引用。
A・A・ミルンはケネス・グレアムの『たのしい川べ』について、「これは、家庭備え付けの本だ。・・・ただし、家のだれもが好むといっても、実のところこの本の真価を心から味わうのは、諸君がじぶんひとりだけだと思いこみ、ほかの者にはわかるまいと感じる、そういう本である」と述べているが、この言葉はそっくりそのままプーの本にもあてはまる。ぼくはぼく一人がわかると思い、あなたはあなた一人の本だと思う

ははは、見透かされたか~~~

「『くもの糸』は名作か」再論📗

『瀬田貞二子どもの本論文集児童文学論』報告つづき

え?
そう、まだ続くのですよ~

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《本について、映画について》
「『くもの糸』は名作か」再論 1957年発表

『くもの糸』は、芥川龍之介の作品。おはなしひろばでもUPしてますね~

古田足日さんの「『くもの糸』は名作か」という文章に対して瀬田先生が反論している論考です。
ずいぶん古い論考なのと、もとも古田足日さんの文章を見ていない(図書館休館中~)ので、簡単な報告にとどまりますが、お許しくださいね。

瀬田先生は、古田さんの「くもの糸」批判を3つの点から再批判しています。

1つめ
古田:説話的作品だから、文学でなくて二流の読み物だ。
瀬田:説話、ここでは昔話は、庶民が長い間口伝えで守ってきたものだから、個性的な表現もモラルもなく、公約数的に集約された本質だけが残る。近代小説とは異なって当然。だからといって文学ではないと言えない。というか、説話を下等だとみてはいけない。
引用
説話性を抽出するなら、発端、展開、クライマックス、結果という型どおりの段取りを持つ昔話の形式が、肝心かなめであるといわなければならない。・・・その形式の中で普遍的な面白さを醸し出している

2つめ
古田:テーマは観念的な勧善懲悪。内面を独自な思想で描いていない。
瀬田:勧善懲悪をテーマとすることが、なぜいけないのか。また、「くもの糸」が単純な勧善懲悪ものとは考えない。
片岡良一『近代日本の作家と作品』からの引用
どれほど悪に染まった人間でも、彼が人間である以上、かならず一掬の慈悲心は持っている、それが人間本来の相なのだという、そういう明るい人間肯定がそこに見いだされる。・・・(けれども)人間は本来人間のものである慈悲心に徹することのできない中途半端さを持っているのだ。-そう考えて、作者はお釈迦様と一緒に嘆息するのである。

3つめ
古田:描写は、内容から生まれず、子ども離れしている
瀬田:児童文学での決定的な評価の担い手は、あくまでも子ども自身。ただし、子どもたちは論理的に評価を述べることはできない、時間をかけて保持するか忘れ去るかで評価する。こどもに読んでやると、印象的な描写は少なからずある。が、煩わしい描写がある。

結論として、瀬田先生は、「くもの糸」には弱さがあると言います。それは、描写が弱いことで、内容も弱くなっていることです。だから子供の文学として一流たり得ないと。
引用
子どもたちが文学で得るさいごのものは感動であり、深い経験となって沈潜していく性質の力である。芥川の「くもの糸」には、それが希薄だった。

さてさて、みなさんは、子どもの頃「くもの糸」をどう読みましたか?
ヤンは、糸につかまって下を見ているカンダタが、絵としてめっちゃはっきり見えたことを覚えています。絵本とか挿絵とかじゃなくて、自分が見たイメージね。それと、糸が切れる直前のハッとした緊張!
児童文学としてどうなんだろう。わたしにとっては、印象深い作品だったけど。

ノートン『床下の小人たち』🚪🛏

『瀬田貞二子 どもの本論文集 児童文学論上』の報告つづき~

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第2章ファンタジー
《夢みるひとびと》ノートン『床下の小人たち』1975年発表

メアリー・ノートン(1903-1992)
【瀬田先生がこの論考を書いたときは、ノートン72歳だったんですね。】
1943年『空とぶベッドと魔法のほうき』最初の子ども向けの物語
1952年『床下の小人たち』カーネギー賞
借りぐらしのシリーズは、『野に出た小人たち』1955年、『川をくだる小人たち』1959年、『空をとぶ小人たち』1961年の4作品。

ノートンは、子どもの頃から、近くの土手や、木の根、もつれ合った草むらなどを舞台に、小さな人形を動かして、物語を作っていたと言います。はるかな森などの大きな世界を見なかったのは、近眼だったからだと、本人が言っています。

近眼だったことと孤独と人形とが、幼いノートンの想像力を育み、そののちの演劇の経験と2度の世界大戦をくぐって得たテーマが、語る者(ケイト)と語られる者(アリエッティ)に仮託されて、4人の子どもたちに与えられたと、瀬田先生は創作の動機をまとめています。

『床下の小人たち』を他の作家と比較します。
ネズビットの影響:『空とぶベッドとまほうのほうき』のときは影響が大きかった。『床下の小人たち』は、主題・構成・描写どれも個性的。
トールキン:トールキンは遠視型、ノートンは、草の根を分けるような近視型
ゴッデン:ゴッデンの『人形の家』はアンデルセンふうの寓意、ノートンの小人は、寓意ではなく人間から独立した存在としてのリアリティをもつ
B・B(ワトキンズ=ピッチフォード):小人族の衰退という視点は同じだが、彼のは博物誌的。

特徴

1、テーマ:借りぐらし族という小人の遍歴
借りぐらしの小人は魔力を持ちません。ひたすら人間からものを借りて、人間を恐れ、人間に見つからないように暮らしています。見つからないため、種族を守るために、彼らは巡り歩くのです。
引用
自己と種族を守る無力な小人が、人間から借りていく性質だけを与えられたとき、あらゆる強権に対して自ら守るほかない私たちの個的存在が、あるいは「内なる我」が象徴的にうきあがってくる。

2、細密画のような描写
テーマを生かすも殺すも描写次第。
細部の刻銘緻密な描写によって、まるで触れるほどのリアリティが生まれています。
その魅力は、読んでみないとわからない(笑)
ほんと、シルバニア以上の愉しさがある(あ、これはヤンの印象。瀬田先生はこんなこと書いてません~)
ところで瀬田先生は、スタンレーの挿絵をべたほめしています。

 

3、構成にみるドラマツルギー
ドラマ、つまり演劇の手法で全体を構成しています。
貼り付けますので、実際に作品を読みながら検証してください。リズムが分かります。

はい、今日はここまで~