連休後半に、恩師が亡くなられました。
今日が告別式でした。(わたしはその時間、子どもたちにお話を語っていました)
享年97歳。
大学に入って、友人から文楽に誘われ、魅了されて、大阪公演のときは、ほぼ毎日道頓堀の朝日座に通い詰めていました。
1年生の春、「来年度、愛媛大から転勤して来はる先生、近世の近松の研究者やって!」という衝撃の情報を得たときは、きゃああ~!天にも昇る思いでした。
こんな奇跡があるんやろうか!!!
最初の授業の日の前夜には、まだ見ぬ先生を夢に見たくらいでした(笑)
先生は太宰似のすてきなかたで、演劇で鍛えたよく通る声で授業をされました。
べたべたの大阪弁で(笑)
「間(ま)の天才は藤山寛美とさだまさし」とおっしゃっていましたが、先生のお話も、めっちゃうまくて、授業は90分があっというまに過ぎました。次の週の授業が待ちきれないくらいでした。
先生は、近松歌舞伎の研究をされていました。
「一生かけても終わらへん」とおっしゃって、亡くなられる直前まで研究を続けておられました。
「大学は、調べ方を学ぶところ」だと、資料のさがし方や、原典に当たる重要性をたたきこまれました。この方法は、将来役に立つとおっしゃっていましたが、そのとおりでした。いまでも、自分の眼で見たもの、原典に当たって確かめたものこそ信用できると思っています。
わたしたちは、先生に顧問をお願いして、人形浄瑠璃愛好会を立ち上げました。愛好会は、わたしたちが卒業後も、先生が退官されるまで13年続きました。
そのあと、後輩たちがOGによる此花会(このはなかい)を立ち上げ、たびたび先生を囲んでの同窓会が行われました。
「人生は、はったりと物見高いことが大事」なんて笑いをとっておられましたが、たしかにスケールの大きさが魅力でした。でも、とてもやさしくて誠実で、厳しいかたでもあったと思います。
先生が語られた”くどき”「兄妹心中」をまた聴きたいです。
友人が、弔電を打ってくれました。
「・・・来世でもまた教えていただけると信じています。・・・」
先生の学生であったことを、心から幸せに思います。
みんな、順番にそちらへ行きますから、どうか待っていてください。