「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

昔話の解釈ー七羽の烏5👩👩👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

KHM「七羽のからす」では、妹は、兄さんたちを救うために世界の果てまで旅をし、最後はガラスの山に行きます。
他の類話では、妹にはどんな課題が課されるでしょうか。

KHM9「十二人兄弟」
七年間、口をきいてもいけないし、笑ってもいけない。

KHM49「六羽の白鳥」
六年間、口をきいてもいけないし、笑ってもいけない。そして、その間にエゾギクで兄さんたちのシャツを六枚縫わなければならない。

アンデルセン「野の白鳥」
11人の兄さんたちのために、教会の墓地に生えているイラクサでシャツを編まなくてはならない。その間、口をきいてもいけないし、笑ってもいけない。
うう。墓地は怖いし、イラクサはトゲトゲで痛いよ。手は傷だらけ(⓿_⓿)

「野の白鳥」は、アンデルセンの創作だけど、昔話に基づいて書かれたものです。

昔話は、極端に語るという性質があるけれど、これらの類話をみると、競い合って極端化しているみたいね。条件がどんどんきつくなっている(笑)

「口をきかない」という課題については、ふたつのことが言えると、リュティさんはいいます。
1、がまんしたりあきらめたりする力と意志を象徴している。
なるほど~
2、葛藤の芽をはらんだモティーフである。
がんとして口をきかないから、疑いをかけられても中傷されても、すべて受け入れないといけないんですね。口をきかないから妹は火あぶりにされる。葛藤の芽をはらんでいる。
昔話は、モティーフのつながりによってストーリーが作られます。口をきかないことが、ストーリーを前に進めています。

ところで、王の妻になった妹は、義母(魔女)の中傷で、火あぶりにされることになります。刑場に引き出される馬車の中でも、妹はシャツを編み続けます。火あぶりになる瞬間、シャツが編みあがり(もしくは最後の六or七年が過ぎ去り)白鳥たちが飛んでくる。
このクライマックスの描き方について、リュティさんは、グリムもアンデルセンもとっても感傷的(センチメンタル)だと批判しています。
本来の口伝えの昔話では、もっと簡潔で力強いといいます。

ここでリュティさんは、ドイツのフェーマルン島に住むエンマ・ベントさんの語りを引用して、グリムやアンデルセンと比較しています。
めっちゃ面白いんだけど、長くなるので、次回にまわします。

はい、ここまで。

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一昨日は、HP更新。
絵本のこみちと外国の昔話、見てね~

昨日は、今年度最初の初級クラス勉強会。
メンバーによる報告があるので、ちょっと待ってくださいね(。・∀・)ノ゙

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏4👩👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏 つづき

呪いはとっても軽くかかってしまう。
じゃあ、解くときはどうか?

一旦害が生じると、そう簡単には解けません。
しかも、解くのは、呪いを掛けた父親本人ではなく、妹です。
妹の愛が、呪われた兄さんたちを救う。

兄さんたちのところへ行くには、遠く骨の折れる道です。世界のはてまで行かなくてはなりません。
わずかなパンと水と椅子だけ持って。
恐ろしい太陽と月との出会いがあるけれど、星は贈り物をくれます。
太陽、月、星、どれも彼岸者ですね。
ようやくガラスの山に着き、妹は自分の指を切り落とすという最後の難関を突破します。

このような大変な過程を経て、呪いが解かれるのです。
しかも、解けるときは、あっさりと簡単に一瞬で解けます。
「ここに妹が来ているのならいいのだが」というからすの願いを聞いて、妹はさっとその場に出ていく。すると、七羽のからすはみんな人間に戻る。
あっけないくらいです。
冒頭で父親の呪いの言葉がいともやすやすと実現したのと、ちゃんと対応しています。対になっている。これこそが昔話の表現方法なのです。

ところで、ガラスの山の中で、妹がカラスたちのお皿や盃から食べたり飲んだりするモティーフがあります。
現実的に考えると、妹は長旅の後でおなかがすいていたということになるんだろうけれど、象徴的に考えると、救うものと救われるもの、生きているものと彼岸にいるものとの間に連帯を打ち立てる愛の食事ともとれると、リュティさんは、言います。

前回、実際の生活でも、親の軽率な言葉や態度が子どもに害を及ぼすことがあるというリュティさんの言葉を引用しました。
身につまされる方も多いと思います。
わたしもその一人です。
ここで気が付くのは、子どもに掛けた呪いを解くのは、あなた(親)ではないということです。親には解けないのです。
だれが解いていますか?・・・妹ですね。
親より聡明で勇気のある妹です。
呪われた子どもを親以上に愛する誰かが主人公となって人生をかけてくれてはじめて、呪いは解けるのです。

思うんだけど、親はできるだけ自覚して呪わないようにしなくっちゃ。
でも、愚かだから、呪っちゃうんですね。
そしたら、わたし呪ってしまったって気が付かないといけません。
これ、親の苦しみね。
あとは見守ることしかできない。退場です。
そして、彼、彼女を愛する人が現れて呪いを解いてくれるのを邪魔しないことです。
これ、子離れですね。

さて、妹の呪いを解くための旅は、他の類話ではどうなっているでしょうか。次回は、より苦労の多い他の妹たちの旅を検討します。

 

 

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏3👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

七人の兄さんがカラスに変身すること、ガラスの山に幽閉されること、これらは死をあらわす。というのが前回のお話。
そうすると、「七羽のからす」のテーマは、死と復活ということになります。

死と復活を語る昔話といえば、KHM50「いばら姫」、KHM53「白雪姫」、KHM60「二人兄弟」もそうですね。
でも、白雪姫も二人兄弟も実際に死ぬし、いばら姫はまるで死のような長い眠りに落ちます。七人の兄さんは「死んだ」とはいっていません。だから聞き手は、からすになった、ガラスの山にいると言っても、死者の世界に行っちゃったとは思わない。
つまり、死は、表面化しないし、現実性が抜けている。
では、聞き手にとってこの話の力点はどこにあるかというと、死と復活より、呪いを掛けることと呪いを解くことの方に置かれていると、リュティさんは言います。

では、呪いを掛けることについて。

父親が「坊主ども、みんなからすにでもなるがいい」と、呪いを掛けます。
が、呪いを掛けたという意識は、全然なかっただろうと思われます。
思わず口にした言葉。それが実現してしまって父親はすぐに後悔しますね。
つまり、あまりにも軽く呪いがかかってしまうのです。
これは、昔話の語法でいえば、呪いや予言は必ず実現するということです。

やすやすと呪いが掛かる、昔話は「まだ願い事がかなった時代」という架空の時代の話なのです。
そして、簡単に願い事がかなうのは、実は恐ろしいことなのです。必ずしも人を幸せにはしない。
ここでギリシャ神話のミダス王のことが引き合いに出されます。
ミダス王は、手にふれたものすべてが金になるようにと願い、叶えられます。すると、何もかも、パンやワインまで金になってしまって、飢え死にしそうになります。で、願いを取り消す。
あほやねえ。
でも、人間ってそんなものかもしれない。
この愚かな願いを語る昔話の典型的なものは、ATU750A「三つの願い」としてまとめられていて、グリム童話KHM87「貧乏人と金持ち」や、ペローの「三つの願い」などがあります。

これらの話は、人間はその考えや願いによって、いとも簡単に他人や自分自身を傷つけるということを、教えてくれるのです。
親の軽率な言葉や態度は実際の生活でも子どもに害を及ぼすことがあるとリュティさんは言います。

そしてね、いったん害が生じると、簡単には直せない。
七人の兄さんの呪いを解くためには、親ではなく純真な妹が危険を冒して世界のはてまで出かけます。

はい、ここまで。
次回は、呪いを解くことについて、考えます。

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏2👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

前回から少し日が開いてしまいました。
その間、ふたつの入門講座という心動かされる出来事がありました。プライベートでもかなり厳しい事件が起きたんですが、これも無事落着しました。
おはなし入門講座については、たぬこさんの報告を見てくださいね。
日常語入門講座については、別の日に書きますね。

で、七羽のからすです。

前回から少し日が開いてしまいました。
はいはい、わかってますがな。
いえ、その間にみなさんはグリム童話の「十二人兄弟」と「六羽の白鳥」をちゃんと読みましたか?(*^▽^*)

「七羽の烏」とこの2話とは同じ話型でしたね。つまり類話。
本書の方法としては、類話を比較してその話の本質を見極めようというものでした。
さて、ここで、七人の兄さんがカラスになったような、動物への変身は何を意味しているのかということを考えます。
「十二人兄弟」「六羽の白鳥」はどちらも白鳥への変身ですね。
類話をみると、他にこのようなものがあります。(  )は伝承地です。
のろしか(シュレースヴィヒ・ホルシュタイン)
ぶた(北部ルーマニアの山地ジーベンビュルゲン)
ひつじ(フランス)
白い牡牛(フランス)
おおかみ(ロシア)
わし(ロシア)
こうのとり(ポーランド)
がん(ハンガリー)
つる(ハンガリー)
あひる(ノルウェー)
はと(イタリア)
以上、リュティさんが挙げているだけでも、いろんな動物がいますね。

これらの動物への変身は、死の国へ入ることを意味するのではないかといいます。
そう洞察する根拠は四つです。

1、鳥への変身の話が多いが、鳥というのは、自然民族の信仰では死んだ人間の変化した姿であるとされることが多い。
鳥は、死んだ人間の霊魂なんだって。
「七羽の烏」の類話では、からすに変身が一番多くて、白鳥も結構あるんだって。そして、黒と白は死の色だと(ううむ。日本だけじゃないんだ!)。

2、いくつかの類話では、父親が息子たちの死を願い、息子たちを殺す用意をしている。
「十二人兄弟」では、父王が、次に生まれる子どもが女の子ならば、十二人の息子を殺すと宣言して棺おけを12個作らせてますね。

3、七人の兄さんたちはガラスの山に移されるが、ガラスの山は死者の山である。
もともと古い信仰では、山そのものが死者のすみかとされている場合が多いといいます。そして、山には魔物やこびとが隠れていますが、これは死者の霊と考えられているそうです。
そして、ガラスの山についての民間信仰も多く残っているといいます。切った爪を捨てずにポケットにしまう習慣があって、これは、死後、ガラスの山をよじ登るときに使うためにあるそうです。死者は人間や動物の爪といっしょに埋葬され、それは、死者が死者の国でガラスの山を登ることができるようにということなのだそうです。
おもしろいなあ。日本仏教の六文銭みたいなもんかなあ。三途の川の渡し賃。ヨーロッパではガラスの山を登る爪アイゼン。

4、太陽や月が人間を食べる危険なものになっているのは、死の世界をほのめかしている。
なるほど。
以前、小学校で語ったとき、あとから先生が、なぜ太陽や月が恐ろしい存在なんでしょうねとおっしゃったことがありました。それ以来、ずっと考えてたんだけど、死の世界だとは思いつかなかった。

(わたしは、宗教的な理由かなと思っていました。かつての自然宗教では、太陽も月も神さまだった。自然宗教の神さまは恩恵も与えるけど脅威でもあるという二面性を持つ。キリスト教が広がって自然宗教が消えていく中で、例えば魔女のように、かつては両面性を持っていた神がキリスト教の神に敵対する悪になる。だから、太陽も月も恐ろしいものとして描かれた。では、星は?星は、三博士を馬小屋のイエスのもとに導く聖なるものであった・・・以上、ヤンの愚論)

はい、今日はここまで。
「七羽の烏」とは別に、昔話の鳥について、それから、伝説も含めた伝承の中のガラスの山について、ううう、知りたいなあq(≧▽≦q)

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏👩‍🦰

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

「七羽のからす」はご存じのかたが多いと思います。
まずは読んでくださいね。
または、おはなしひろばにあるので、聞いてください(こちら⇒)。

不思議な話ですね。
この話を解釈しようというわけですが、昔話を解釈するときは、勝手な思い付きではだめだとリュティさんは、言います。
ひとつひとつのモティーフをよく調べて、全体を類話との関連から見ていかないといけません。

グリム兄弟は、「七羽のからす」の話を、二つの異なった類話をつなぎ合わせて作りました。
はじめの部分はウィーンの話、あとの部分はマイン河畔の話です。
ちょっとびっくりでしょ。
現代は、昔話も伝説も、聞いたままをそっくりそのままを活字にします。
が、グリム兄弟は、異なった類話を組み合わせて理想のテキストを作っていることがあります。
なぜか。
これは、昔話の起源とかかわるのですが、グリム兄弟は、昔話を、古い神話の名残だと考えました。昔話のストーリーのなかに、神話のかけらが散らばって残っていると考えたのです。
だから、中途半端で終わっていたり、語り手の記憶の弱い部分があれば、別の話で補強しました。失われた神話を重んじて再生しようとしたんですね。

余談ですが、柳田国男も昔話の起源を神話ではないかと考えました。でも、最終的にはそうではないなと言っています。

さて、グリム童話集には「七羽のからす」に似た話がほかに2話載っています。
何かわかりますか~?

KHM9「十ニ人兄弟」とKHM49「六羽の白鳥」です。

「十二人兄弟」はおはなしひろばにあります(こちら⇒)。
「六羽の白鳥」は読んでみてくださいね。

これらは、話型でいえばATU451「兄弟を探す妹」。
そして、ATU451に属する昔話は、グリム童話以外にずいぶんたくさんあって、日本語で読めるものだけでも10話あります。

次回は、たくさんの類話を見ることで、からすに変身する意味を考えます。