ひさしぶりに、リュティさんです。
今、語りの森がバタバタしててね。
今年度下半期の日程に総会を入れるかどうかとか、コロナでできなかった「白雪姫」の語法勉強会(会場で対面でね)をいつするかとか。
ああ、そうそう、『語りの森昔話集5ももたろう』をいつ発行するかとか。
へへへえ、そう、ももたろうなんですよ~
たぶん、11月の総会(図書館でやりたい)の時に、みなさんにお渡しできると思う╰(*°▽°*)╯
会場が確保できたら日程が決まるので、改めて広報しますね~
それで、はい、リュティさんです。
『昔話の解釈』を読む。
第6章偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿
あとちょっとね。
この第6章をぜんぶ読み返してみてね。
そこで例として出て来た昔話、どれもおもしろいよね。
何話かは再話して《外国の昔話》や《おはなしひろば》で紹介しました。ほんと、子どもに語りたい。
それで、これらの話に共通して、昔話の特性が見いだされると、リュティさんはいいます。
たとえば。
塔の中にとじこめられる。
けもののすがたの中にとじこめられる。
主人公が孤立するんですね。孤立化。
たとえば。
主人公は、末っ子、間抜け、がちょう番(身分がとっても低い)。
主人公は、継子、灰かぶり、父親に迫害される娘。
主人公は、とにかくめっちゃひとりぼっちなんです。孤立している。
そうです。孤立性という昔話の特性が、顕著に現れているのです。
そして、思い出してほしいのは、孤立しているからこそあらゆるものと結びつくことができるという昔話の語法です。
モリーは親に捨てられた下の三人の娘のうちの一番末っ子です。寝る所も食べる物もありません。極端に弱い存在です。孤立的です。
王さまは、国で最も高い身分で権力があります。極端に強い存在です。孤立的です。
そして、ふたりとも、彼らにまとわりつく現実的なしがらみから孤立しているというか、そういう環境は描かれないのが昔話です。
だから、常識では出会えないふたりが出会うことができる。
これは一例にすぎません。思い出しましたかあ?
昔話の主人公というのはとにかくひとりぼっちなものであると、リュティさんは言います。だからこそ、本質的なものと関係を結ぶことができるんだって。
究極的には孤立した存在であるが、だからこそらゆる者と関連を結ぶことができる人間像が、昔話には何度も何度も描かれるのです。
この、よりにもよって見捨てられた者が本質的なものに到達するっていうことは、決して希望像ではないといいます。
希望像ってのは、そうであってほしいなあと希望する姿のことね。
そうじゃないんだって。
じゃあ、何か?
人間存在の真実な観照(=主観を交えずに本質を見極めること)だというのです。
つまり、人間って、そういうものなんだよ、それが人間の真のすがたなんだよということね。
昔話は、たんなる希望を語ってるんじゃなくて、人間の人生の真の姿を語ってるんですね。
人間って究極的にはひとりぼっち。でも、だからこそ、本質的なものと出会えるんだよ。そういうもんだよ。ということですね。
そして、聖書に出てくる金持ちの青年のことを引き合いに出します。
ひとりの青年がイエスに永遠の命を得るにはどんなよいことをすればいいのか尋ねます。彼は、殺すな、姦淫するな、盗むな等のおきてはすべて守っているけれど、他に欠けているものは何なのかと尋ねるのです。
すると、イエスさまは、持っているものをすべて売り払って貧しい人に施せと答えます。青年は金持ちだったので、それができないで、悲しみながら立ち去ります。(マタイによる福音書19)
その青年は、自分の財産をことごとく捨てるときにのみキリストに従うことができるのである。
はい、ここまで。
次回で、第6章は終わります。
(聖書の金持ちの青年のエピソードは、メンバーのおひとりに教えてもらいました。ありがとう~)