「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

昔話の解釈ー偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿4👸🤴

京都も梅雨に入ってしまいました。
しかも、近年よくある空梅雨じゃなくて、本格的に降り続いている。
まだ紫陽花が咲いていないじゃないか。
クチナシも香ってこないじゃないか。
早すぎ(╬▔皿▔)╯

って心が動くということは、だいぶ、体調がもどってきたな(*^_^*)

リュティさん行きます。
お待たせ、「がちょう番の娘」クライマックス!

第6章ー偽の花嫁と本当の花嫁

まず前回のところ読み直してね。
とっても感動的な言葉があったよね。
召し使いの姿に宿る尊厳
これは、多くの昔話の核心なんだけど、とくに「がちょう番の娘」に当てはまるんだったね。

さて。
私たちの中にある王者のようなところはときに弱くなり活力を失うことがある。

うんうん、わかる。
わたしだって自尊心はあるし、こうありたい自分ってものがあるし、けど、いやなことが続いたり病気になったりしたら活力がなくなる。まさに先週(笑)

たとえば「がちょう番の娘」では、王女は喉の渇きを抑えることができない。
ここが腰元にとってかわられるきっかけになるのね。
「のどがかわいたんなら自分で飲みな!」
ここで王女は自分の本当の力を失うのです。母の血の付いた小切れも流れて行ってしまう。
語る時、ようく気を付けようね。何気なく語ってはいけないよ。

たとえば、KHM11「兄と妹」では、兄がのどの渇きを押さえられなくて水を飲む。そして、本当の姿を失って鹿になってしまいます。

さて。
「がちょう番の娘」の口をきく血のしずくというモティーフ、口をきく馬の首というモティーフについて。
もともと古い魔法の教えによると、血は命の担い手として大きな力があったそうです。けれども、昔話の中では、魔法的な力は持っていなくて(中身を抜いて語るってあれです)、物語のいち要素にすぎません。そして、物語の要素というのは、ストーリーを前に進める役割と、物語の意味を支える役割を持ちます。
ここでは、「王女は、血のしずくとファラダを失うことによって、自分の力の一部を失う」という意味があるのです。

そして、ここから窮乏と成熟の時が始まる。

王女は、こっそりとしか金の髪をとかし風を左右する力を用いることができません。
ふつう、昔話では、苦しみの場面は描かれず、さっさと月日が経ってしまいますが、「がちょう番の娘」は違います。
「吹け吹けかぜよ~」の場面が繰り返されます。
そう、この場面が、窮乏と成熟をあらわしていて、物語のいちばん印象の深い部分になっているのです。
心を込めて語りましょう。
成熟を語るのがとっても難しいと思います。

王女がストーブから出され、王女の着る着物を着せられると、輝くばかりの美しさになる場面がありますね。
ほんとうの王女にもどるところです。さらっと語ってはいけません。
外見が破れ、人間が本質的なものへの道を見出す場面です。

外見が破れ、本質的なものへの道を見出すって、いいなあ。涙が出るよ。
これが、昔話が聞き手に描いて見せる物語の道筋であると、リュティさんは言います。
その底には、現実の世界においてもそういうことが起こってほしい、という希望が潜んでいる。昔話は、導きの星である。

昔話は導きの星🌟

いやいや、あたらしい宗教ではありませんよ。
体力が落ちていると感傷的になってしまって~~>_<~~

はい、きょうはここまで。
次回はKHM198「マレーン姫」を取り上げます。
マレーン姫も偽の花嫁の話。
読んでおいてくださいね。もしくは、おはなしひろばにUPしているので聞いてみてください。

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オンライン昔話の語法の勉強会を募集中です。
(対面の勉強会はすぐに定員に達しましたので、HPでは募集しませんでした。ごめんなさい)
「白雪姫」を取り上げます。
みんな知っているようで、実際にはおはなし会で聞くことは少ないと思います。
でもね、ほんとうの「白雪姫」って、めっちゃ哲学的なのよ。
わたし、初めて語法的に読んだときに、めちゃめちゃ感動しました。
遠くで語りの森を楽しんでくださっている方、思い切って参加されませんか?
お待ちしています。お申込みはこちら⇒

 

昔話の解釈ー偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿3👸🤴

バーゲンセールで戦って、欲しいものを手に入れたためしがない。
行列のできるお店では、必ず横入りされる。
人気アトラクションでは、いつも人の頭ばかり見ている。
神社の餅まきでは、ひとつも拾えない。
一日から始まっているワクチン予約の電話が、まだつながらない。わたしはきっと、ワクチンが打てないのだろう。

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マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。

第6章偽の花嫁と本当の花嫁

「がちょう番の娘」

偽の花嫁が自分の悪事に自分で判決を下す。そんな実際にはありえないことを描くのは、悪は自壊するということを、わたしたちに象徴的に伝えるためでしたね。
そう考えると、この偽の花嫁のモティーフ自体が象徴的だということを念頭において読まないといけないわけです。

そこで、ユング派の心理的、人類学的な見方から、偽の花嫁を解釈しています。

偽の花嫁と結婚すること
=偽の価値が私たちを支配すること。人格の中心が曇らされること。
ほんとうの花嫁が姿を現すこと
=人格が復権すること。

これを昔話に当てはめれば、正当でない花嫁をうけいれるのは心が正当でない価値へ傾いていることを反映している。心の中の王者のようなところがないがしろにされていると、リュティさんは言います。

心の中の王者のようなところだってφ(゜▽゜*)♪

でね、ヴィルヘルム・グリム(弟のほう)が、「がちょう番の娘」のことをこう言っています。
この美しい昔話は、召し使いの姿に身をやつしてもなお失われることのない王者の尊厳を示しているが、その顔つきに飾り気がないだけいっそう深みを増している。
語り手にとって、めっちゃ貴重なコメントですね!

リュティさんは、「召し使いの姿に宿る尊厳」という言葉に傍点を付けて、シェークスピアのこんな言葉を引用しています。

私たちの中には誰にでも王者のようなところがある。

わたしたちは、自分の中の王者のようなところをおとしめて召し使いの仕事に用いていることが多いとリュティさんは言います。あ、もちろん象徴的にですよ。現実的に読むと職業差別になりますよ。

この召し使いの姿に宿る尊厳は、多くの昔話の核心をなしているけれども、とりわけ、「がちょう番の娘」にそれが当てはまるというのです。

さてさて、次回はいよいよがちょう番のクライマックスです。

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昨日は、初めて「おはなしひろば」の更新をわすれました。
ワクチン予約電話のせいです。
今日の午後、更新します。
予約電話はあきらめますo(≧口≦)o

 

 

昔話の解釈ー偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿2👸🤴

夫が、畑で、珍しく動画を撮った。
夫「これなんや?」
私「てんとう虫」
夫「オオテントウムシや」
ふつうより大きいやろと、夫は得々としておる。知ってるということがそんなに偉いか!?
珍しく家族のラインに動画を送った。
夫「これなんや?」
息子「ハラグロオオテントウ」
夫「ハラグロって、なんでそこまでわかる!?」
娘は無視(笑)
同じ環境で育った姉弟でも、興味をそのまま伸ばしてやったら、全然異なった分野に進んでいくんやな。
3歳児から虫博士といわれた息子は、30歳過ぎた今はそれを生業にしている。英数は超低空飛行だったが、頑固に塾を避け続けた。それでも何とかこの道を歩いている。おそらく一生好きなことだけをして生きていくつもりなんだろう。
自分で食べていけたらそれでいいと、わたしは思っている。
今日は、子供の日。

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第6章偽の花嫁と本当の花嫁

きょうは、「がちょう番の娘」ですよ~
リュティさんは、まず、「がちょう番の娘」のあらすじを書いています。(ここでは省略しますね。みなさん、自分で全文を読んでくださいね。)
そして、あらすじを書きながら、3か所、コメントを入れています。

1,娘の母親、つまり年とった女王様ですが、彼女のことを、リュティさんは魔法に通じた母親といっています。
娘に与えた、3滴の血のしずくや口をきくことのできる馬ファラダ。
長年語っていたのに、魔法の力だとは気づかなかったです。魔法というより母親の愛の力だと思って語っていました。

2,娘がキュルトヒェンといっしょに野原でがちょうの番をする場面を、リュティさんは、名高い野原の場面といいます。
ここでハインリッヒ・ハイネの詩を引用しています。

おばあさんがあの王女の話をするたびに
わたしの胸はひどくどきどきした
王女はただひとり荒野に座り
金色の髪をとかしていた・・・

ああ、「吹け吹け風よ~」の場面。ここ大好きなんだけどなかなかうまく語れないのよo(≧口≦)o

3,キュルトヒェンが年とった王さまに、野原でがちょう番の娘との間に起こったことを話す場面について、ここには、「悪いことが善いことになる」というなじみの深いモティーフがあらわれていると言います。
キュルトヒェンは、娘をやっつけてやろうと思って告訴するだけど、それがまさに事態をよいほうへ転換します。
おもしろいねえ。キュルトヒェンが王さまにいいつけなかったら、お姫さまは、いつまでたってもがちょう番だよ。ストーリーとしてはとっても大事なところ。ここをどう語るかやね( ̄︶ ̄)↗

物語の最後の場面で、王さまが偽の花嫁に謎をかけます。
偽の花嫁自身がした悪事を事細かに聞かせて、「そんな女にはどんな裁きを下すのがよいか」と謎をかける。
偽の花嫁は、自分のしたことなのに、気づかないで、「そんな女はすっぱだかにして、内側にとがったくぎを打ち付けたたるに入れ、二頭の白馬にひかせて、死ぬまで町中を引きずり回すとよいでしょう」と答える。
で、その通りの罰を受けるんですね。

自分のしたことだと気付かないなんて、非現実的で、実際には考えられないことですね。
つまりこれは、話が現実的写実的な物語ではなくて、象徴的な物語であることの証というわけです。だから、昔話を読むときは、それが象徴であると認識して読まないといけない。でないと、「そんなことないやろ」って、なるのですね。

そして、なぜ昔話は、犯罪を犯した偽の花嫁が自分自身に判決を下すことにこだわるのかというと、それは、昔話が、悪は自滅する、と信じ、望んでいるからなのです。
昔話が、」というのは、「昔話を語りついできた人々が」と同じ意味ですよね。

「ヘンゼルとグレーテル」の魔女は、パン焼き窯の中で、自分がグレーテルに対してやろうとしたやり方で滅ぼされます。
ペローの「眠れる森の美女」では、悪い王女は、自分が娘を投げ込もうと用意した、蛇のうようよいるたるの中に飛び込みます。
人食い鬼を殺すには、人食い鬼の所有する刀で殺すしかないというモティーフもあります。
このような、悪の自壊作用は、リアルに現実を映しているのではなくて、本質を象徴的に表現しているのです。
リュティさんは言います。
現実観察でなく、本質観照が昔話の固有の贈り物なのである。

はい、今日はここまで。
次回も「がちょう番の娘」です。

 

 

昔話の解釈ー偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿👸🤴

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。

第6章 偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿

さあ、新しい章に入りましたよ~
この章、わたし大好きなんですよ(❤´艸`❤)

グリム兄弟が学術的に昔話を集めて以降に書き留められた数々の昔話をながめていると、ひとつひとつ異なる音色や変形があるけれども、その下に、ひとつのテーマが繰り返しきこえてくると、リュティさんは言います。
ひとつのテーマとは、外見と実際の分裂です。

たとえば。
灰まみれのきたない着物を着てみんなから軽蔑されている娘が、いちばん美しい優れた娘です。(灰かぶり)
下働きの庭師の助手が、実は王子であり、かさぶた頭の下に金髪が隠されています。(鉄のハンス)
愚か者と思われている末の王子が、兄たちよりもはるかに勝っていて、父王のために命の水を取ってきます。(命の水)
怠け者が、だれよりも恵みを受けた者です。(寝太郎)
ね、みなさんの知ってる話、レパートリーを探せば、いくらでも出てきますね。

外見と実際の分裂を描いたもののうち、とりわけ印象深いのが、偽の花嫁と本当の花嫁、けもの息子とけもの婿だとリュティさんはいいます。
そこで、この章では、この話型について考えます。

わたしは本当の花嫁ではありません:KHM198「マレーン姫」
この言葉は、無数の昔話の標語とすることができる。でも最後には、本当の花嫁や本当の花婿がみつかり、あるいは再認され、詐欺師は追われる。

KHM89「がちょう番の娘」は、グリム昔話集の中で、偽の花嫁を扱った、一番印象の深い話だとリュティさんは言います。

「がちょう番の娘」、好きな人、語る人多いですね。
私もそうです。でも、子どもたちに聞かせるとなるとうまくいかないんですよ。
それを解決するために、しんばらくリュティさんから学びたいと思います。
お付き合いくださいませo(*°▽°*)o

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昨日の井戸端会議で、言葉足らずだったみたいで、ご心配おかけしました。
あのね、おばあさんのサポートっていうのは、おばあさんの経験をみなさまに伝えることO(∩_∩)O
そやから、勉強会を充実させる、それもおばあさんの役割やと思うてます。
若いかたたちの向学心には頭が下がるし、みなさんのきらきらした瞳を見てると、とっても楽しいのよ~
テキトーにこき使ってください(笑)

ただ、勉強会やおはなし会のセッティングに費やす時間を再話に充てたいってことです。語りの場も若い人に譲っていきたい。

 

 

 

昔話の解釈ー賢いグレーテル8👩‍🍳

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。

第5章賢いグレーテル
今日でおしまい(笑)

「かしこいグレーテル」は、度を越した食欲にもごまかし方にも笑えます。
「しあわせハンス」も笑えるし、アンデルセンなら最後は幸せな気分になれます。
それに対して、「賢いエルゼ」の、特に後半はどうでしょう?

畑に着くと、エルゼはまずお弁当を食べて、昼寝をします。
おいしい食べ物、快い眠り。これは聞き手の共感を呼び、微笑みを引き出します。
けれども、それが度を越すと裏返しになります。

たとえば、トランシルヴァニアの類話では、鉛のかたまりのように怠け者の主人公カトリンは、夫に髪を切られます。するとカトリンは髪の短い自分を見て「あたしかな?あたしじゃないのかな?」と自問します。そして、「あたしを探しに行こう」といって、自分を探しに広い世界へ出かけて行きます。それから今までずっと歩いているけれど、まだ自分を見つけることができないんだとさ。

エルゼも、同じです。
自己への確信を失い、人格が崩壊する。
本人であるという感じの喪失です。

なんだかこわいですねw(゚Д゚)w

リュティさんは言います。
笑い話は、その主人公が気ままにやり、うまいものを飲んだり食ったりし、大いに怠けるとき、しばらくの間はいっしょになって楽しむが、そういう動物的な領域にはまり込むことは人間にふさわしいことではない、ということも知っている。

人間だれしもそういうことってあるよなあ。
けど、行き過ぎたら身の破滅やなあ。
ハハハハハ(≧∇≦)ノ
ってことでしょうかね。

「賢いエルゼ」の後半を読むと、笑い話というのは、どんなに陽気にはしゃいでも、それなりに人間の本質を問うているのが分かります。リュティさんは、笑い話は聞き手を物思う気分にさせることがまれではないと言います。

笑い話は、語るのが難しいです。
リュティさんの言葉を、語る時の参考にしたいと思います。
総合的に、今の私は「かしこいグレーテル」は語れても、「かしこいエルゼ」は語れないなあと思います。

昨日中級クラスの勉強会でイスラエルの昔話「ハエうちの勇者」を初めて語ってみました。
極端に憶病であることと、食欲につられる主人公が出てきます。笑い話の条件は整っています。
時間の一致、場所の一致、状況の一致が重なることで、何もかもうまくいって、幸せになります。
わたしにはまだまだハッピーエンドから抜け出す勇気はありません。

次回から第6章偽の花嫁と本当の花嫁・けもの息子とけもの婿に突入~
グリム童話「がちょう番の娘」を読んでおいてくださいね~