地の雌牛🐄2

マックスリュティ『昔話の本質』報告

第4章 地の雌牛ー昔話の象徴的表現つづき

わあ、急に雨が降ってきた。
まだ梅雨は明けてなかった

失礼しました
きのうの続きです。

マルガレーテちゃんは、名付け親のアドヴァイスで無事森から帰って来られましたね。
同じことが、3回くりかえされます。
しかも同じ言葉で。
同じ言葉だから、聞いていて、話にはっきり区切りがつくのです。
2回目は、マルガレーテちゃんはもみがらをまきながら森に入って行きます。
3回目は、麻の実を持って行きます。
すると・・・

地の雌牛って、いったい何でしょう。
リュティさんも知りません。
16世紀、この話が記録されたときには、いちいち説明しなくてもみんなが知っていたんですね。
ゲーテも知っていたそうです。えっと、18世紀から19世紀の人ね。
でも、20世紀にはもうわからなくなってる。
リュティさんは、それでもいいんじゃないと言います。
意味は分からなくても響きになじみのある単語は、珍しいことがらを分かりきった調子で語る昔話の雰囲気によく合うからって。
なるほどね。

で、マルガレーテちゃんは地の雌牛を大喜びで受け入れますが、聞き手の私たちも大歓迎します。
雌牛が人間のことばをしゃべることに、全然びっくりしません。
これが伝説や聖者伝と違うところね。
もし雌牛がしゃべったら、伝説や聖者伝では「奇跡」として描くけれども、昔話では、奇跡は当たり前。
あらゆるものがあらゆるものと関係を結びうること、これが昔話における本来の奇跡であり、同時にまた自明の事柄でもある。

動物や彼岸の存在と言葉が通じることについては、《昔話の語法》一次元性のところで説明してるので検索してみて。

地の雌牛は、彼岸の存在。
それは了解ですね?

地の雌牛はマルガレーテちゃんにミルクと布をくれます。
ミルクは、雌牛だから当たり前として、絹とビロードという高価な布をくれます。
この絹とビロードについて、リュティさんは、人の手の加わった貴重な品物といいます。
昔話には、人工的なものがよく出てくるのです。

たとえば、伝説では、巨人や小人は山の洞穴に住んでいるけれど、昔話では宮殿や小屋にすんでいます。
ほら穴というのは自然の中にあって、想像すると、不確定な線で描かれます。型がない。
宮殿や、地の雌牛の小屋は、直線。しかも、垂直な線と水平な線でできています。
幾何学的、抽象的な鋭さや、さらにいえば明白さ、純粋な型式で描かれる。
ね、昔話の好む文体ですね。

はい、きょうはここまで。

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きょうは午後からおはなしひろばを更新しますね~

 

 

地の雌牛1🐄

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第4章地の雌牛ー昔話の象徴的表現 その1

この章、最初からちょっとびっくりです。
当然のことかも知れないんだけど、昔話にはいろんな語り方があって、それぞれ魅力があるって、リュティさんはおっしゃるのです。
例えば。
話に尾ひれをつける人。
簡潔に力強く語る人。
語るたびに話を変える人。
語るたびに全く同じ言葉で語る人。
母親のような優しい口調の人。
聞き手の心を奪う神秘的な口調の人。

本と子どもをつなぐ図書館の活動としてのおはなしにどっぷり漬かっていると、これって、信じられない。というか、わたしたちって、画一的すぎるんじゃないかと思ってしまいます。
特に、尾ひれをつけたり、たんびに話を変えたりするのは、許されない。
でも、口伝えの語りの現場では、いろんな語り手がいるのが当たり前なんでしょう。
わたし自身は、そのような語り手としての資質はないので、尾ひれつけたり変えたりはできませんが。

さて、そんな多種多様な口伝えの世界でも、表面下には共通の文体があると言います。
昨日までの報告で触れた、ストーリー尊重、明白さ、確実性、という特徴です。
今日からの章では、それに加えて、昔話の象徴的表現を考えようというものです。

具体例として取り上げている話は、「地の雌牛」
この話における動物の意味を考えるところから、象徴表現を考えます。

「地の雌牛」は、16世紀にドイツとフランスの境界アルザス地方で記録された昔話だそうです。
ATU511「1つ眼、2つ眼、3つ眼」の類話。
ところがねえ、この話も、竜殺しと同じで原典が見つからない。
だから、リュティさんの引用は写真でゆるしてね。
グリム童話「一つ目二つ目三つ目」とか、ロシアの「ハヴローシェチカ」(こちら⇒)が類話なので全体をみてください。

この冒頭だけで、この世の全てありとあらゆる事物が登場します。
「いばらひめ」の時と同じですね(こちら⇒
生と死、善意と悪意、誘惑と陰謀、無力と不意打ち、絶望、助言と助力、家、自然(森・動物)

わずかな範囲で人間存在の要素をこれだけたくさん取り上げようとするなら、ひとつひとつをおおいに単純化するほかありません。
単純化するには、極端化するのがよい。
例えば、貧しい男、年とった女、悪い継母。
嫌悪は、殺意として表現する。などなど。

引用
昔話に残酷な行いがよく出てくるのは、すべてをできる限りはっきりとあざやかに描き出そうとする傾向から来ている。

残酷な描写は昔話の極端性で説明がつくということですね。

昔話の人物は自己の決定によって動くのではない
例えば
母親はマルガレーテの殺害を自分で決めるのではなく、アンネと相談しているうちに決まった。
マルガレーテは、切り抜ける手段を、名付け親の助言にゆだねた。
こうして、人物は、外部からの助言や贈り物、課題などによって動かされて行きます。そうすれば見えやすいのね。心の動きだけでは、見えないもの。
アンネと相談している様子、名付け親と話している様子が見えると、はっきりくっきりする。

そうそう、またしらみとりがありますね(笑)
母親と姉娘の結合、信頼が、行動であらわされている。
あ、しらみとりといえば。
今再話している古事記、オオクニヌシがスサノオの頭のしらみを取る場面がある(*^▽^*)
またじきに公開しますね~

は~い、きょうはここまで。

ううむ、暑い≧ ﹏ ≦
そろそろヤンは夏籠りかなあ(┬┬﹏┬┬)

 

 

 

 

 

竜殺し4🐉 おしまい

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第3章竜殺し-昔話の文体 最終回

物語はこのあと、こんなふうに進みます。
木の上に逃げた従者が、自分がトロルをやっつけたのだ、だから自分はお姫さまと結婚する資格があるといいたてる。
お姫さまは無理やり沈黙させられる。が、結婚は1年間待ってくれという。
ちょうどぴったり1年後に銀の白がもどってくる。

もどってきた主人公が、どうやってお城のお姫様のもとに出頭するかという場面を、オーストリアで記録された類話で、説明します。
あ、昨日まで読んでいた話とは、別の話ですヨ。

なんか楽しいでしょ。
この話では、主人公の名前はゼップになってますね。
自分が来たことをお姫さまに知らせるために、犬、クマ、ライオンを順番に行かせます。
気づいたお姫さまの様子が描写されていますね。
喜びのあまり大きな笑い声を立てた。⇒前よりもっと嬉しそうに笑った⇒心の底から笑った。
描写だけど、ほら、昨日考えたように、ちゃんとクレッシェンドしている。最後部優先の法則にのっとっている。型通りというわけです。
ストーリーは確実に前に進んでいて、停滞していない印象を与えます。

それから、けっこういろんなものが出てきます。
犬、クマ、ライオン、焼肉、ぶどう酒、お菓子、紙切れ、かご。
これは、細部の描写と言えないでしょうか。
動物、とか、食べ物、とかでいいのではないのか。
いえ、だめなのです。
昔話は、目に見えることを強く求めるからです。具体的でないとだめなのね。
そう、わたしたちがおはなしを語るとき、イメージが大事って、いつも言われますね。見えるように語ること。そのためには、見えるように書かれたテキストでなければならないのです。
だから、昔話は、ストーリーだけで進むくせに、こういう具体的な物はきちんとはめ込んでいくのです。
性質は筋で、関係は贈り物であらわされる。
というわけです。

もうひとつ、昔話の文体の特徴がここで見えてきます。
主人公は、ぴったり1年後に帰ってきますね。
これは?
そう、時間の一致!

グリム童話9「十二人兄弟」(こちら⇒)の最後の場面もそうですね。呪いの解けるきっかり7年後、娘は火刑の処刑台に上がり、そこへ12羽の白鳥が飛んでくる。なんて都合よく(笑)

リュティさんの言葉を引用します。
きっかり期限に間に合わせること、最後の瞬間にぴたりとあうことは、~昔話にしみとおっている。的確な線の鋭い描写にしっくり会う。
つまり、
昔話は真の芸術作品
だというのです。

それでね、こういうふうに、現実の世界とは違った、はるかに広い視野(壮大なストーリー)で、物事がぴたりと合う世界を描くこと、それが人間の心にとって大事なんだって。
絶対に確実であること。それが昔話の世界なのね。
現実の生活はめっちゃ不確実ですよね。コロナだって、これからどうなるかわからない。水害に遭った人たち、これからどう片付けていけば生活が元通りになるかわからない。
でも現実はどうあれ、昔話だけは、確実なの。

昔話から流れ出る信頼は、昔話を語ったり、聴いたりする人々に移る。
昔話は人を喜ばせるだけではない。人を形成し、はげます。

そうだよ、うつるんだよ~
ウイルスなんかなくたって、語るだけでうつるんだよ~

ね、語ろう。
語りの森昔話集、読んでほしいなあ。
おはなしひろば、聴いてほしいなあ。
って、そうくるか?(笑)

引用
北ドイツのある語り手が、病院で昔話をすると静める力、治す力が病人に働くようだ、と報告しているが、私たちはこれを信じたい。

はい、おしまい。
リュティさんの引用している竜殺しの話は私には見つけられませんでした。
類話のグリム「二人兄弟」をぜひ読んで見てください。おもしろいです。

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蒸し暑いですねえ(;´д`)ゞ
遠くで雷がゴロゴロ言ってる。
京都もそろそろ梅雨明けかしら。

きょうのおはなしひろばは「へこきばあさん」(こちら⇒
笑ってくださいq(≧▽≦q)

 

 

 

竜殺し3🐉

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第3章竜殺しつづき

さてさて、スウェーデンの竜殺しの昔話、つづきはどうなるでしょう~
銀の白は、二人目のお姫さまも救います。
以下は三番目のお姫様救出の場面。
いってみよ~

読みにくくってゴメン。
頑張って読むと、びっくりしない?
だって、一人目のお姫様の時と、ほとんど文章が同じだもの。
いえ、誤植ではないのです。
リュティさんは、これが昔話の文体の特徴だと言います。

繰り返しを好む

助けないといけないお姫さまは三人だから、三回同じことが繰り返される。
すると、主人公は銀の白と兄弟の小さい見張りのふたりだから、お姫さま、ひとり余っちゃうのね。せっかく指輪を髪に結んだのに、ひとつ無駄になる(笑)
そういう不都合があっても、ちゃんと繰り返すのが、昔話なのです。
しかも、ほとんど言葉を変えないで繰り返す。
語り手がへたくそだからじゃないのです。語り手のせいにしてはいけないとリュティさんは、いいます。
昔話に内在する文体意志が型通りの繰り返しをしきりに求めるからだそうです。

昔話は、3、7、12といった数を好みますが、このきっちりした数への愛着も、昔話が型通りの繰り返しを求める性質と同じ所から来ています。

伝説や聖者伝では時間の流れに敏感でしたね。こちら⇒
それに対して、昔話は時間を無視することで、朽ちない世界を描く。
この、時の力に支配されない普遍性も、同じ言葉で繰り返す頑固さと同じ所から来ています。

それと、お姫様の従者なんだけど、お姫さまは三人が別人だから銀の白にあって驚くのはわかりますよ。でも、従者は三回とも同じ人でしょ。でもやっぱり三回ともびっくりして木の上に逃げるのね。
はい、クイズです。これはどう説明すればいい?

そう、昔話の孤立性。
各エピソードがカプセルに入っていて、前のカプセルとはつながっていないの。
白雪姫がお妃に三回も殺されるのと同じね。経験知がない(笑)

そこまでして頑固に、繰り返すのね。
ほとんど宗教的な儀式のようですね。
でね、リュティさんはこう言います。
編集者や翻訳者が、現代の読者に合わせてそこのところを緩和したり、ニュアンスをつけたりするのは最大の害悪である。

はい、肝に銘じます。

昔話の繰り返しは、建築の装飾のようなものであり、様式全体を規定する重要な部分である。

でもね、少しはバリエーションが許されるのね。
三人目のお姫さまが一番美しい。
三回目の戦いが一番激しい。
繰り返されるときに、クレッシェンドしたりディミニエンドする。
最後部優先の法則とか、最前部優先の法則とかいわれる、あれです。
《昔話の語法》で検索かけてみて。
でも、これもやっぱり型にはまっているのね。
中ー小―大にはならない(笑)

はい、きょうは、ここまで。

あ、蛇足だけど、エピソードの孤立性について。
お姫様の従者のところでは、従者が木の上に逃げないと、お姫さまと銀の白は一対一になれないのね。語り手はどうしても二人を結び付けたいのよ。
白雪姫では、お妃にだまされて殺されないと、王子さまに発見してもらえないのね。語り手は、どうしても二人を会わせたいのよ。
この語り手の思いは、聞き手の子どもへの思い。
だいじょうぶ、しあわせになるよって、メッセージやね。
そして、エピソードの孤立の技法は、ストーリーの区切りをはっきりさせるのと、文体の厳格さを高めるという効用があると、リュティさんはいいます。

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今日は月曜日、HP更新の日です。
《外国の昔話》イエメンの恐い話「ジャルジューフ」を紹介してます。
これ、すきやねんヾ(≧▽≦*)o

 

 

 

 

竜殺し2🐉

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第3章竜殺しー昔話の文体

前回(一昨日)の井戸端会議の最後に写真で載せておいた竜退治のおはなし、読みましたか?
もしまだなら、先に読んでから、今日のところを読んでね。
きょうは、そのおはなしの文体の特徴について、リュティさんが解説している所をまとめます。

なんか、ぎゅう詰めに説明してはる(笑)
分けて書きますね

話の筋は目標に向かってまっすぐに進む
総括すると文体の特徴はそれに尽きるということです。
おはなしを読んで、多分皆さん感じたと思うんだけど、「これって、あらすじ?」って、疑問に思わなかった?
私は思った。
でも、あらすじじゃなくて、これが原話そのままなんだって。

じゃあ、まっすぐに進むという特徴を詳しく見ていきます。

風景や外観を細かく描くことはしない
例えば、トロル。
どんな外見か、いっさい説明がない。ひとこと、「怪物」っていうだけ。
昔話にはこれで十分なんだって。
例えば、海辺。
事件現場なのに、どんなところなのかいっさい描写がない。
トロルが出てくるときに、「泡と大波があたり一面に渦巻いた」というだけ。

それに対して多くの創作童話では、例えば主人公の入っていく街の様子をいかに詳しく丁寧に描いていることか。狭い横町、美しい街角、切妻屋根の家・・・
ほんとうの昔話には、そういうものは何一つ出てこない。

ただ、銀の白の入っていく町では、「家という家が黒い幕をかけて」いますね。
これは、描写ですね。
でも、これを描写するのは、ストーリーに関係があるからなんです。
だって、銀の白は、変だなと思って町の人に聞くでしょ。そしたら、トロルがお姫さまをさらいに来るってことがわかる。だから銀の白は、トロルをやっつけに行く。そのための「黒い幕」なんです。

たまにグリムが、魔女の長い曲がった鼻とか赤い目について書いているけど、それは、グリムさんが後から付け足したもの。
ほんとうの昔話は、年とった魔女とか、醜い老婆としか言わない。

これを、リュティさんは、「描写力の欠如」といって、それが、昔話が面白い理由なんだといっています。

昔話の主人公は、旅をし、行動する
立ち止まったり、驚いたり、観察したり、思い悩んだりしないって。
たしかに、銀の白はそうですね。うだうだ考えていないですね。
登場人物の心の中についても描写しないのです。

感情や関係は外部へ投影される
例えば、しらみとり。
銀の白は、いきなりおひめさまに頭のしらみを取ってもらいますね。
おかしくない?
わたし、いつも、この類話を読むとき、この場面で笑ってしまう。
しらみかい!って。
リュティさんの説明、おもしろいから長めに引用しますね。

しらみをとることは原始民族にはたいへん好まれた欠かせない仕事であったとか、しらみとりは、婚約の儀式になることもあったとか、しらみをとる女は取ったしらみを食べるのが常で、そうすることによってしらみを取られた男の血を体へ受け入れた、
などと知っている必要は全くない。
(≧∀≦)ゞ(≧∀≦)ゞ(≧∀≦)ゞ

だからね、しらみ取ってるってとこで、ああふたりは深い関係になったんやなって思ったらよろしい、ということなのよ。
ほら、あとで、トロルに「この人は、~おれの姫だと思うな」って言ってるでしょ。

例えば、指輪。
お姫さまが銀の白の髪の毛に指輪を結びつける。これは?
そう、信頼と愛情を感じ取ればいいのね。

人物の孤立化
二人兄弟は別れて、ひとりで行動します。
お姫さまはお供を連れてひとりで海辺へやってくる。
お供が逃げるから、お姫さまは完全にひとりになる。
主人公とお姫さまは、二人きりで向き合うことになる。
孤立した者同士が一対一。
しかも、このふたり、それぞれに独特な存在です。
銀の白は、母親がリンゴを食べて妊娠した、その子どもなんだって。
お姫さまは、王の娘ということで際立った存在ですね。
昔話は、社会の末端にあるものを主人公にするっていうのは、常識ですね。

くっきりした極端なものを好む
昔話が、金・銀・鉄・水晶を好むのは、それらが、キラキラ輝くからだけではないし、貴重なもの(極端なもの)だからというだけでもない。昔話は、硬い物、形のはっきりしたものを好むからなのです。

それでね、昔話を聞く人は、くっきりした確かな明るい語り口から、昔話にそなわっている明るい輝きを自分の中に取り込むことになるんだって。
なるほど、それで昔話は楽しいんだヾ(≧▽≦*)o

はい、きょうはここまで。

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オンライン講座日常語の語り入門はしめきりました。
あちゃ、しまった~って思ったかた、一人ぐらい何とかなりますので、どうぞ~