トールキン『ホビットの冒険』2🧚‍♂️

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』報告のつづき

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第2章ファンタジー
〈夢見るひとびと〉ートールキン『ホビットの冒険』

きのうの続きです。

ファンタジーという文学の形は、もともと古くからあるものでした。吟遊詩人も、セルバンテスの「ドン・キホーテ」も、ダンテの「神曲」も・・・
ところが、19世紀のリアリズムが、それを根絶させてしまいました。
でも、子どもの文学の分野で生き残りました。
先述のジョージ・マクドナルドやC・S・ルイス。宮沢賢治。

トールキンも同様で、現実に縛られていた精神が、ファンタジーの自由な見知らぬ力によってめざめる事を「回復」と言っています。
トールキンの引用。
回復とは、とりもどすこと―曇りのない視野をとりもどすことです。・・・いずれにせよ、わたしたちは窓をきれいにすることが必要です。そうすれば、ものがはっきりとみえ、陳腐さだの、慣れだののせいで視野がうすぎたなくぼやけている状態から解放されるのです。

そして、『ホビットの冒険』について、瀬田先生はこう言います。
引用。
いまどきの混濁をぬけた質の高い澄明さ、翳りのない高朗さ、時空の限りない壮大さといった、素朴なまでの「窓のきれいな」文学的性質が私たちをつかむ。

さらに『ホビットの冒険』は、昔話を基調にしていると説明されます。
うんうん、そうだ~!

『ホビットの冒険』の
冒頭
「地面の穴の中に、ひとりのホビットが住んでいました。」
「ある朝のこと、-ずっと昔、この世の中がたいへんおだやかで、・・・」
結末
「そしてビルボの物語を信ずる者はあまりなかったのですけれども、ビルボは、生涯を終わるまで、この上もなく幸せにすごしました。」

ね、まるで昔話の発端句と結末句(笑)

それだけではありません。
『ホビットの冒険』のテーマは「探索行」です。そして、探索行とは、「経験のない貴重なものを未知の地に探しに行く旅であって、人生そのものを暗示する
ね、グリム童話の「金の鳥」「命の水」、日本の「仙人の教え」も同じテーマです。
ここで瀬田先生は、20世紀最大の詩人W・H・オーデンの説を紹介しています。

昔話の探索テーマの6つの条件
1、貴重な人か物が求められる。
2、行く先不明の長旅に出る。
3、ほかの者には果たせない主人公があらわれる。多くは若く、弱く、賢くないもので、真の資質は隠されている。
4、試練が課されて主人公が現れ出る。
5、目的物には守り手がいて、さいごの障害になる。
6、知識と魔力を持つ援助者が見いだされて、成功する。
どうですか、当てはまりますよね。
『ホビットの冒険』にも当てはまるのです。

さて、『ホビットの冒険』が子どもに語った昔話ふうのストーリーであるのに対し、『指輪物語』は「むかしむかし」ではなく「3001年、ホビット庄暦1401年、ビルボ・バギンズ111歳の誕生会が」と始まります。場所も「ある穴の中」ではなく「中つ国の四ゲ一庄ホビット村袋小路」と限定されます。
もちろん時間も場所も架空ではありますが、ガチっと構築された第2の世界です。
そして、テーマは、「負の探索行」です。指輪を捨てに行く旅です。
『ホビットの冒険』がビルボの成長物語だとすると、『指輪物語』は危機の意識にあるシリアスなモラルが描かれているのです。
この二つの作品の間には、第2次世界大戦がありました。

ところで、『ホビットの冒険』は子どもたちに語るところから始まりましたが、トールキンはこれを子どもの本だと限定はしていなかったそうです。むしろ大人が読むべきだと考えていました。
完全に子どものために書かれた本は、子どもの本としてさえ、貧弱である」というのがトールキンの主張です。

みなさん、ぜひ、読んでみてください。また、再読してみてください。
わたしも今回読み直して、新たな発見がいっぱいありました。

ところで、『指輪物語』は2001年「ロード・オブ・ザ・リング」として映画化されましたね。作品の良しあしは言いませんが、映画は別物です。ぜひ原作を読んでみましょう。長いけど(笑)

はい、トールキンは、おしまい。

トールキン『ホビットの冒険』🧙‍♂️

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告

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第2章ファンタジー
《夢みるひとびと》トールキン『ホビットの冒険』1975年発表

いよいよトールキンですよ~
ヤンは個人的に、トールキンこそがファンタジーの最高傑作と思っておるのですよ。

瀬田先生は、「たとえば、新村出のような人が、中年を過ぎて、子どものために「根の国への使者」のような物語を書き、還暦を過ぎて後に「豊葦原の剣・三部作」のような長編を発表したと思えばよい」と書いています。言い得て妙ですね~
新村出は広辞苑を編んだ言語学者ね。

J・R・R・トールキン
1892-1973

少年時代:天体・植物・歴史・言語に興味を持つ。
学生時代:詩にめざめる。

オックスフォード大学卒業後第一次世界大戦(1914-1918)に従軍。
西部戦線で負傷。療養中に言語学にうちこむ。
言語学から妖精物語に魅了され、そののち、平和を願い、戦争の根を断つ望みを一生持ちつづけます。

戦後:オックスフォード大学言語学の教授になる。
授業では、ガウンをひらめかしながら教室を行きつ戻りつ、吟遊詩人がどのように歌ったかを実演し、堂々と朗誦したそうです。かっこい~!

1937年:『ホビットの冒険ー行きて帰りし物語』刊行
わが子4人に聞かせたものを発表しました。
トールキンも、ルイス・キャロルやA・A・ミルンたちを同じように、わが子が出発点なんですね。

1938年:講演「妖精物語について」
このころすでに『指輪物語』を書き始めていたそうです。

第二次世界大戦(1939年ー1945年)
また戦争です。執筆が途切れました。

1955年『指輪物語』刊行

戦争は、トールキンにとって、ファンタジーを作り上げる動機となりました。
反戦平和の理念と、戦場の悲惨さのリアルな描写。トールキンは、戦争体験から、ファンタジーの世界の「おどろくべき澄明さ、素朴さを」つかんだというのです。

その具体的な説明は、次回へ~

おはなしひろば お引越し🚛

おはなしひろば、お引越ししました。
話数が増えたので、広いお家にお引越し。

前よりは見やすく、さがしやすくなったかな?

子どもたちに聞いてほしいなと思って始めたんですが、ぽちぽちですね。
この井戸端会議や語りの森ホームページほどの閲覧はありません。

やっぱり絵が動かないからね。
BGMもないしね。
大人の人の協力がないと自分からは手を出さないだろうなと思います。

それでもいつかは届くと信じてやっています。

トップページのメッセージ
ここにのせるおはなしから、あなたの心に響くものを受けとって、あなたの声で語ってください。
「 こんなすてきなおはなしを見つけたよ 」 って、愛する人に語ってください。

わたしたち、図書館や学校やらで語らせてもらってるけど、それは一つの手段に過ぎない。
おはなしひろばも手段に過ぎない。
ヤンがほんとうに夢見ているのは、家族や近所が語りの場になること。

コロナ騒動でおはなし会がなくなった今、原点に立ちかえって、考えています。
自分にできる事は何だろうって。
人類が営々と築いてきた語りの営みをさらに次につなげるために、私にできる事は何だろう。
え?偉そうにって?
どうして?
昔話を語りついできた人は、みな普通の人だったんだよ。私たちと同じ普通の人だよ。

さてさて、なにはともあれ、お引越ししました。
どうぞ、新居にいらっしゃってくださいませ。
たくさんのおはなしで、おもてなし致します(笑)

こちらからどうぞ、おはいり~!→

そして、はいったら、新しいURLをブックマークしておいてね。
古い家もまだあるけど、そっちは更新しないからね。

 

 

 

 

 

 

ハドソン『夢を追う子』🏃‍♀️

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告
はい、きのうはお休みしてしまった。
今日は続きやりますよ~

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第2章ファンタジー
《夢みるひとびと》
ハドソン『夢を追う子』1973年発表

実は、読んだことなかったんです。
で、きのう夢中で読んで、おおお~ってなりました。子どもの時に読んでおけばよかった(笑)
読まれた方ありますか?

ストーリーは単純。ひたすら一直線にさすらいの旅をする男の子のはなし。
出版当時あまり評判にならなかったらしい。
が、アン・キャロル・ムアが児童図書館運動を始めたとき、この作品を信念をもって取り上げたそうです。

作者
W・H・ハドソン1841-1922
エッセイスト、作家。
『夢を追う子』は、彼のただひとつの児童文学。書いたのは64歳のとき。

動機
ハドソンは序文でこう語ります。
私の幼いころの気持ちに合うような物語で、私の幼い心に浮かんだ想像や冒険をもとにした、現実にはありそうもない物語です。

つまり、「幼児における自然体験の、作品化」と瀬田先生は言います。

目的
自然のぞくぞくさせる驚きとふしぎを再現すること。

ハドソンの自然観は、人の善悪を超えて力と美を備えたもので、人間をも包み込むというものです。人間は自然の対立物ではない。
これは、ヨーロッパの産業革命以後の自然を克服すべきものという価値観に対抗するものです。
東洋的かもしれない。
瀬田先生は、宮沢賢治との類似性を指摘しています。

引用
一面からいえば迷子の遍歴、ひるがえせば自然の追求。時流に反して自然をあがめ、いうべきことを子どもの物語の形式に借りる。科学者の目と子どもの心を持ち、昔話になじんだ口でモディファイした体験を曇りなく語る

ね、そうでしょ。
たしかに『夢を追う子』を読んでいると、自然描写とそれを畏敬する主人公マーチンの様子が、賢治の作品と重なって見えるのです!

この作品の自然描写には、三つのスタイルがあります。
1、ありのままの観察
一枚の草の葉、一匹のカブトムシ、その動きから何から写実的で、目の前で起こっているようです。
2、比喩的な観察
マーチンの心の状態によって、たとえばカラスが黒いフロックコートを着たしわくちゃな老人たちに見えます。フクロウは、小人の老人・・・
3、擬人化
2のさらに発展されたかたちです。昔話や伝説の人物が登場します。山の精は美しい神秘的な女性で、ヒョウをかしずかせています。永遠の海の老人は海坊主のように登場します。

この物語は、自然の魅力に取りつかれて、前へ前へと進むうちに迷子になり、平原から森、山、海へと遍歴して、唐突に終わります。
瀬田先生は、「おわりがぶっきらぼう」といいます(笑)
故郷へ帰る旅も読みたいけれど、ハドソンは、書きませんでした。

福音館古典童話シリーズ6

グレアム『たのしい川べ』🐭

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論上』の報告つづき

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第2章ファンタジー
〈夢見るひとびと〉グレアム『たのしい川べ』1974年発表

〈夢見るひとびと〉の章段は、8人の作家の代表作についての評論です。
今日は、『たのしい川べ』

作者ケネス・グレアム(1859-1932)
ヴィクトリア朝時代の作家

グレアムは、当時4歳の息子アリステアのご機嫌を直すために、アリステアの好きなモグラとネズミの登場する物語を語りました。それは、7歳でアリステアが合宿で家を離れてからも手紙の形で続きます。

瀬田先生は、この作品を二部に分けて考えています。

第一部1,3,4,5,7,9章
主人公はモグラとその友人のネズミです。
ケネスの幼児回想がもとになっているようです。
四歳のときケネスは父の作った新宅に移りますが、五歳のとき母が亡くなり、自分も大病して一家離散。母方の祖母に引き取られるも、祖母は子どもに無関心。ケネスはバークシャーの自然と生物に心慰められて二年間を過ごします。
いまアリステアがその自分の年になって、あふれるようにその頃の川や小動物への愛が流れ出したのではないかという仮説です。

第二部2,6,8,10,11,12章
副主人公のヒキガエルが活躍します。
ヒキガエルは息子アリステアの分身のような性格です。親子で笑い合って物語をつなげたそうです。

この二部に分かれるという瀬田先生の説、びっくりしました。
というのは、ヤンがこの本を読んだのは小学3年のとき。やっぱり二つに分かれてると感じたから。すごい???
ヒキガエルが活躍する後半より前半のほうが好きでした。

ここで瀬田先生は、問題の多い前半(え?わたしは好きやったけど?)に限って論を進めます(やったー!)。

まずテーマと展開。
第1章「川の岸」は生きる喜びと春のうれしさ、本能の目覚め。初めて見る川。がテーマなんだけど、これは全編を通じて流れているテーマです。
どの章も、小動物が登場して季節が描かれその営みが描かれ、川、道、森といった大きな自然を舞台に事件が展開し、命のことや友情が確認されて家に帰る。

次に描写。
第5章「なつかしのわが家」モグラが長く離れていた家に帰るところ。初雪に包まれた村里、家々の灯り。
第7章「あかつきのパン笛」モグラとネズミが川をボートでさかのぼるところ。月が昇り、川が銀色の世界に代わり、月は沈み、暁が訪れ、鳥が鳴きやんで風が起こり・・・ああ。読んでおくれ~~~
その描写に対して瀬田先生は「的確な散文の描写がテーマを完璧に運んで、散文のままで詩の領域に渉っている

最後に悲しみ。
第9章「旅びとたち」ネズミが熱につかれたように旅に出ようとするのをモグラが必死で止める。このネズミの悲しみは、明るい未来へ旅立つことをゆるされなかったグレアムの悲しみと重なる。
グレアムは、成績優秀でオックスフォードに進学したかったのに、祖母によってその夢を断たれています。

さて今回このブログを書くにあたって『たのしい川べ』を読み返しました。
『クマのプーさん』同様これまで何度も読み返してきた、私にとってはバイブルのような本です。ほんま、読み返してよかった!!!
写真は亡き父に買ってもらったもの。調べたら初版だった!
おとうさん、ありがとう。