これまで一次元性、平面性、抽象的様式と昔話の語法を講読してまいりまして、先日、3回目の昔話の語法講読会がありました。
今回は『孤立性と普遍的結合の可能性』です。
これまでのことをざっくりまとめるならば……話のすじに不必要、もしくは横道に反れそうな情報、設定はそぎ落とし、主人公にとってのハッピーエンドに向かってストーリーは一直線に進むというのが昔話、という感じでした。ざっくり過ぎたでしょうか。
昔話は口で語られ、耳で聞く文芸ですから、言葉が発せられた瞬間しか存在しない。だから、抽象的に、極端に、同じ場面を同じ言葉で繰り返しことで聴き手がイメージしやすいように工夫がされているのかな、と思います。でも、だからといって、すべての昔話が語法にきっちりと則っているかというと、そうではないのだそうです。むしろ、語法にすべてがきちんと則っている昔話はひと握りだとか。
なるほど、だから、どの先生も「この語法は白雪姫のこの部分」「この語法はこのお話のあの部分」とたくさんある昔話の中から探して例を挙げてくださっているわけですね。完璧なテキストばかりならば、あちこちから厳選して挙げる必要がありませんものね。
と、話は変わりまして、今回の孤立性と普遍的結合の可能性ですが。つまり、登場するすべてのものが孤立した存在であるがゆえに、なんにでもくっつけられるという性質をもっているといった話です。すんごい金持ちか貧乏人か、美しいものか醜いものか、昔話は登場人物も物も極端なものが出てきます。そのものを見たことがなくても、想像しやすいですよね。それほど金持ちではないけれども貧乏でもない主人公とか、特別美人でもないけど醜くもない中年の魔女とか、そこそこ悪いこともしてるけど根は善人とか、黒と白の中間色とかってわかりにくいです。そんな昔話はっきりいって面白くない…。
で、極端な存在って、端っこですから、白か黒なわけですから孤立した存在なわけです。
この孤立性の説明を聴いているときに、私は昔の生薬を入れる引き出しのたくさんある薬箪笥をイメージしました。社会的背景も肉体的にも厚みのない、ストーリーに必要なときだけお呼びがかかる登場人物やアイテムが整理されてはいってます。それを使って女の子が人形遊びをするようなイメージ。今の子ども事情は分かりませんが、かなりご都合主義的に即興でストーリーを組み立てながら遊んだ記憶がよみがえりました。山は山で、お城はお城でしかなくて、老婆は老婆の役割しかありませんでした。
そして、物や人だけでなく、エピソードも孤立しています。というか、カプセルに閉じ込められているようで、他のエピソードに影響を与えない。
つまり経験が生かされない。だから白雪姫は何度も殺されるし、かしこいモリーの大男やジャックと豆の木の大男は宝物を奪われちゃうんです。なんでって、その繰り返しが聴き手には楽しいからでしょうね。
それぞれのエピソードは殻に入れられていて、他のエピソードに影響は与えないけれども、ど真ん中には聴き手を楽しませたい、主人公をハッピーエンドに導きたい、こんなお話にしたいといった『話のすじ』と伝承の語り手の『昔話の形式意志』がズドンと突き刺さっているんです。まるで串団子のようにくっつけているイメージです。団子(エピソード)自体は孤立しているけども、全体(ストーリー)からみればくっついている。外的孤立性と、内的には孤立していない、というワードを私はこのようにイメージしてみました。そこに前述した色々なものがトッピングされてひとつのお話を形成している。
だから、こうこうこういうことがあって、同じことを三回繰り返したように聞こえるけども、主人公の旅は少しずつハッピーエンドに近付いていっている。だからこそ、子どもたちは「あほやな~」と笑いながら、ハラハラしながら、「ほんで、次どうなるの?」となるのでしょうね。
さて、みなさんはどのようにイメージして理解されたでしょうか。
同じようにイメージする必要はありません。間違っているかもしれないし、余計難解になっているだけかもしれません。
自分だけの言葉で理解したほうが、飲み込みやすいのではないかなと思うので、自分の言葉でまとめてみてくださいね。
それにしてもテキストの著者、小澤俊夫先生は音楽的アンサンブルに例えていたのに、私は団子・・・どんだけ食いしん坊なのか(;´Д`)
次回は昔話の「贈物」です。