マックス・リュティ『昔話の本質』報告
第5章生きている人形ー伝説と昔話 最終回
アーモンドと砂糖と小麦粉で理想の男性を作ったお姫さまのその後です。
鉄のくつを三足はきつぶす探索行にでかけます。
昨日はお月さまを訪ねていって、アーモンドを贈られましたね。
そのあと、太陽と太陽の母からクルミをもらい、星と星の母からハシバミの実をもらいます。
つづきは本文↓
小麦粉と砂糖の男のモチーフ
心理学的に言えば、お姫さまは自分の心の中で作り上げた理想像。自分の心に生じた甘美な心像にすぎないのです。
お姫さまは自分以外の誰かを愛しているのではなくて、自分自身を愛しているのです。
彼が盗まれ、お姫さまは鉄のくつをはきつぶし様々な困難と悲しみを経験し、自分のつくったものが見知らぬものとなったときにはじめて、それを取り戻すことができるのです。
そのときには、男は自立していて、お姫さまは、他者としての男を愛しているのです。自分自身を愛しているのではなくって。
この話は、甘いものを欲しがる幼児のような主人公が、他者を愛することができるまでに成長する話です。
結末で、もう一人のお姫さまの作った男は腐ってしまいます。このもう一人のお姫さまは、前半の主人公(甘ちゃん)のままで終わるとこうなるよというメッセージです。
ところで、もう一人のお姫さまの結末は、あのアルプスの伝説と似ていると思いませんか?
暗鬱な伝説は、人間は自分の作った物のとりこになり、自分の作った物によって破壊されうることを、手痛く感じさせる。
と、リュティさんはいいます。
けれども、昔話では、同じメッセージを、二人の人物に分け与えることで伝えています。重くって複雑な現実なんだけど、中身を抜いて、明確に分けて、非現実として表現する。軽やかです。
昔話というガラス玉には世界が反映している
伝説と比較して分かることは、昔話には、地理的な広がりがあるだけでなく、ちっとも驚かないで太陽や月と話ができる。登場人物は、羊飼いやがちょう番から王や王女まで人間界の様々な人々がいる。愛があれば裏切りがあり、殺人があり、戦争があり、救済がある。
ひとつの話の中にこれらがぎゅう詰めで出てきます。
主人公(だけでなくすべての要素)は、何とでも結びつくことができます。
なぜそれが可能なのか。
中身が抜かれているからです。
昔話をガラス玉に例えれば、その表面には、世界のあらゆる要素が映りこんでいる。そして、完全な球体として秩序をもって存在する。
人間もその秩序のうちに包み込まれる。
そこにあるのは美と希望じゃないかと愚考しております。
はい、おしまい。
暑い~~~
伝説のほうは恐ろしかったけれども、凡人のイマジネーションとしてはどうしてそういう話になったのかは想像できます。
でも、昔話が、中身を抜いたり、登場人物を二つに分けて役割を分けてわかりやすくしたり、行動や贈り物で説明の部分を表したりして、伝説とは全くメッセージの違う、あたたかな物語になったのは、まさにおそろしい何かの力が働いたとしか想像できません。
リュティ先生が昔話の語法に気付いてくれたから、こうして説明してもらえたわけですが、長い年月の人々の口伝えがある日急に昔話に変わったわけじゃないから、長い年月かけてできた昔話は、人類共通の意識下の総意なんでしょうか?!
小澤先生が、「わたしたちは伝承の途中にいる」とおっしゃってましたが、その言葉とつながった気がします。
ジミーさん、コメントありがとうございます。
小澤先生のお言葉、なつかしいなあ。
伝説から昔話へ、昔話から伝説へと、口伝えの物語は変化しているようです。
今日UPした「白いハンカチ」も、伝説に近いです。
心理の奈落に引きずり込む伝説より、希望の昔話のほうが好きやなあ。