月別アーカイブ: 2020年9月

昔話の解釈ー七羽の烏👩‍🦰

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

「七羽のからす」はご存じのかたが多いと思います。
まずは読んでくださいね。
または、おはなしひろばにあるので、聞いてください(こちら⇒)。

不思議な話ですね。
この話を解釈しようというわけですが、昔話を解釈するときは、勝手な思い付きではだめだとリュティさんは、言います。
ひとつひとつのモティーフをよく調べて、全体を類話との関連から見ていかないといけません。

グリム兄弟は、「七羽のからす」の話を、二つの異なった類話をつなぎ合わせて作りました。
はじめの部分はウィーンの話、あとの部分はマイン河畔の話です。
ちょっとびっくりでしょ。
現代は、昔話も伝説も、聞いたままをそっくりそのままを活字にします。
が、グリム兄弟は、異なった類話を組み合わせて理想のテキストを作っていることがあります。
なぜか。
これは、昔話の起源とかかわるのですが、グリム兄弟は、昔話を、古い神話の名残だと考えました。昔話のストーリーのなかに、神話のかけらが散らばって残っていると考えたのです。
だから、中途半端で終わっていたり、語り手の記憶の弱い部分があれば、別の話で補強しました。失われた神話を重んじて再生しようとしたんですね。

余談ですが、柳田国男も昔話の起源を神話ではないかと考えました。でも、最終的にはそうではないなと言っています。

さて、グリム童話集には「七羽のからす」に似た話がほかに2話載っています。
何かわかりますか~?

KHM9「十ニ人兄弟」とKHM49「六羽の白鳥」です。

「十二人兄弟」はおはなしひろばにあります(こちら⇒)。
「六羽の白鳥」は読んでみてくださいね。

これらは、話型でいえばATU451「兄弟を探す妹」。
そして、ATU451に属する昔話は、グリム童話以外にずいぶんたくさんあって、日本語で読めるものだけでも10話あります。

次回は、たくさんの類話を見ることで、からすに変身する意味を考えます。

 

 

今でもやっぱり生きている🧜‍♀️

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

『昔話の本質』が終わったので、その続編『昔話の解釈』を読みますね。
前巻と同じく、野村泫訳/福音館書店刊です。
この本の副題は、「今でもやっぱり生きている」です。
昔話の結末句ですね。ヨーロッパの昔話にはよく出てきます。
結末句については《昔話雑学》参照のこと(こちら⇒)

なぜこの副題を付けたのか。
この結末句について、本書の「まえがき」に説明があります。とっても興味深い説明です。

まず、「死んでいなければ、今でもやっぱり生きている」という句で語りを結ぶとき、語り手は、実際の出来事や現実の人間について語ったのではないぞ、ということを聞き手に合図で知らせているのです。
架空の話、ウソ話だよという宣言です。これは、発端句「むかしむかしあるところに」と同じ役割ですね。

架空の話だということに、どういう意味があるのでしょうか。

ひとつは、昔話の登場人物は、いつかどこかに生きていた実際の人間ではないけれど、だからこそ、今でも生きているということです。
彼らは、流れる時の外に立っていて、人間の本質を表しています人間の本質、それは、昔も今も、私たちすべてにかかわる問題です。昔話は、人間と、人間と世界の関係を形にあらわしたものです。

架空だということで、普遍性を持つ。これはあなたのことだといっているのです。

ふたつめは、現代、とくにヨーロッパでは口承がほとんど滅びてしまったそうです。けれども、グリムが『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(いわゆるグリム童話)を編んで後、つぎつぎと昔話が集められて本の形に書き留められた。だから、今でもやっぱり生きているのです。

この書き留められた昔話集(資料)をみると、同じ話型に属する話が、さまざまなバリエーションを持って出てきます。
リュティさんは、これらの類話を比較することで、ひとつひとつの話の意義や、その話型が全体として持つ意味が分かると言います。それによって、新たな考察と理解にたどり着くことができると言います。

そこで、本書では、グリム童話でもとくに有名な話を取り上げ、その話の独自性と普遍性をよりよく理解するために、様々な類話を参照するかたちをとっています。

というわけで、次回は「七羽のからす」です。
たのしみでしょ。
KHM25。
前もって読んでおいてくださいね。あ、絵本ではだめですよ。

 

秋のおすそ分け🍄

暑さ寒さも彼岸までといいますが、まだすっきりと秋やな~とはいいがたい今日この頃。
お写真をくださる読者さまから秋の花をいただきましたよ~
ほら、カラスウリの花をくださったかたです。

 

白い萩の花って、珍しいですね。
それと、秋海棠。

品のある美しさです。
ありがとうございました。
またお待ちしていますO(∩_∩)O

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よい季節になったら、窓を開け、空気の通りもよくなって、すこしできる事もふえました。
幼稚園のほかはまだお話会はありませんが、来月は高校生に絵本の講座があります。先生たちとともに、再開を喜んでいます。
ババ・ヤガーの勉強会も、初級と中級のクラスは再開です。冬場は吹きすさぶ寒風の中インフルとコロナの攻撃に耐えて集まれるかどうか、答えは出たようなものなので、この秋のチャンスにみんな、がんばって楽しもうね。

来週からはおはなし入門講座も始まります。
今年度はあたらしく、図書館サークルききみみずきんさんのお世話で開催にこぎつけました。
老体に鞭打たなくてもよいように、メンバーの皆さんが細やかに支えてくださいます。
語りは世代を越えて手渡すものですが、今の時代は、バトンを受け取ってくださる人がいなければつなぐことができません。
つぎに手渡せるのは、幸せ以外の何物でもありません。
ありがとうございます。
しかも!
今年度の受講者は赤ちゃん連れが多数を占めました。

幼稚園や小学校、図書館での語りは、ふだんおはなしに接することのない子どもたちへの贈り物です。
でも、本来、昔話は家庭や地域の中で生きていました。
親が子に語ることは、昔話を家庭に返すこと。
語りの森ホームページにテキストを載せるのも、それが目的のひとつです。
今年度の受講者のかたがた、小さい子を連れての受講も宿題もたいへんですが、私はとっても嬉しいです。
がんばってね!
ばあちゃんもがんばります。

 

 

文学における奇跡2👼👼

なんだかとってもおひさしぶりで~す。
あ、でも月曜日には日本と外国の昔話を更新しましたよ~
きょうは、おはなしひろば、「みそ買い橋」をUPしたので、聞いてくださいね~

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マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第10章文学における奇跡つづき

いよいよ『昔話の本質』も今日が最後です。
で、いちばん分かりにくい部分です(笑)

近代になって、科学の発達によって、人びとが物事を合理的に考えるようになると、彼岸の世界との出会い(つまり奇跡)がなくなってきているのではないか、というところから、続きを読みます。

リュティさんは、シェークスピアの研究者でもあります。
それで、シェークスピアが、奇跡をどのように描いているか、「マクベス」で説明しています。
スコットランド王のマクベスは破壊の王です。それに対して、イングランド王は、奇跡の手を持っていて、どんな病人も治すことができる。
イエス・キリストの行った奇跡もほとんどが病人を治すことです。だから、イングランド王の病を治す力は、まことの王であることの証です。
ただ、シェークスピアは、イングランド王を表舞台に出しません。他の役柄(スコットランド人2人と医者)の会話の中に出てくるだけです。観客は、イングランド王の王たるすばらしさを、実際に見るのではなく、細やかな会話から想像するだけなのです。
こうすることで、奇跡をおこなうイングランド王は、観客の心の中だけに現れ、それは、この荒々しい戯曲の中で、闇に輝く光のような働きをしていると言います。
なるほど~。そういう手があるか!
さすがに大作家シェークスピア。と、リュティさんも言います。

闇に輝く光としての奇跡は、今も民衆や作家の心の中に生き続けているとリュティさんは言います。
非日常的なもの=超現実的なもの=奇跡、が文学の世界から消えてしまうとすると、それは文学の貧困に他なりません。たとえ、わたしたちがそれを現実の出来事とはとらえられなくても、それは、象徴としてあらわれてくるのです。

最後に、シャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』を紹介しています。
シュレミールは、ふしぎな男に自分の影を売り、かわりにいくら使っても金貨がなくならない財布をもらいます。これは悪魔の奇跡です。
あなたなら、影とお金とどちらを取りますか?
シュレミールは、紆余曲折のはてに、財布を捨て、残ったわずかなお金で、古い靴を一足買います。図らずもその靴が七里靴だったのです。ほら、一歩で七里進む魔法のくつ。
シュレミールは、七里靴をはいて、世界じゅうをめぐり、大自然の奇跡を研究することができるようになります。
この作品は、昔話を使って昔話を克服し、奇跡を使って奇跡を克服しようとしています。
リュティさんは、これを、作家にとって昔話と奇跡がいつになっても欠かせないものであることの証拠だというのです。

なるほど、そうか、現代の文学にも昔話と奇跡は生きているということなんだな。
うん、なんとなくわかった。
たしかに、現代小説を読んでいても、昔話のモティーフをうまく使ってるなと思ったり、お、三回繰り返すのか!と思ったりすることがよくあるけれど、奇跡という面から深めるのも興味深いかもと思った次第。

はい、おしまい。

最後までお付き合いありがとうございました。
でもこれで終了ではない(笑)
続編『昔話の解釈』もよみますよ~

 

おすすめ📖五月三十五日

『ふたりのロッテ』につづいて今日は『五月三十五日』の紹介です。
1931年に書かれたケストナーの3作目の子どもの本。

なんで五月三十五日?
その説明は無し。
でも題名だけでファンタジーってわかるよね。

主人公のコンラート少年は、先生に、想像力が足りないと言われて、南洋について作文を書くという宿題が出る。算数の成績はいいんだけどね。
90年近く前の作品だけど、古くない。先生っていうのは、いつの時代もマイナスを伸ばしたがるものやね。

で、叔父さんに相談してたら、ネグロ・カバロっていう黒馬がやってきて、古いタンスの中に入ったら2時間で南洋に行けるって教えてくれる。
それで、三人(いや、二人と一匹)で、出かけるの。

タンスの中に入っていくってところで、ナルニアを思い出して、オリジナルじゃないやんってちょっとがっかりしたんだけど、向こうの世界はアスランの世界とはぜんっぜん別世界。
南洋につくまでにいろんな世界を通り抜けるんだけど、奇想天外!

「なまけ者の国」では、めんどりがフライパンを引きずって歩いているの。で、人が近づいてくると、すばやくハム付き目玉焼きかアスパラガス付きオムレツをうみおとすんだって。これは一例。

「偉大な過去の城」では英雄たちがスポーツを楽しんでいます。
ハンニバルとワレンシュタインはスズの兵隊で戦争ごっこ。
「あんな英雄はもう鼻についてきた」と馬のネグロ・カバロ。
戦争ごっこの無意味さを漏らします。

「さかさの世界」は子どもが大人を教育しているの。
子どもを虐待したり、育児放棄する親に罰を与えて、心を入れ替えさせる。
90年近く前の作品よ!

「電気の都市」には無人自動車、動く歩道、携帯電話。
90年近く前・・・!
家畜加工場は、入り口から牛や豚が入っていったら、出口から、バターや靴や、トランクや冷凍肉なんかが出てくるの。
必要なものは何から何まで機械が作ってくれて、人間が働くのは、娯楽のためだったり、太らないため、誰かにおくりものをするため、何か覚えるためなんだって。

全部一例だから、読んでみてね。大笑いするよ。
南洋に着いてからがまたおもしろいの。

これ以上書かないけどね、ひとつだけ、コンラートがペータージーリエって少女と仲良しになる。彼女の父は南洋の黒人の酋長で、母はオランダ人のタイピスト。それで、彼女の肌は白黒の碁盤もよう。
人種差別の無意味さへのケストナーの態度がようわかる。

ケストナーが批判していることは、ほとんど現代の問題です。
古くない。ぜんっぜん古くない。
びっくりだけど、哀しくもある。

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きのうはおはなしひろば更新。
聞いてくださいね。そして、お子様にすすめてくださるとうれしいです。