関西では、小中学校で2学期が始まりました。
夏休みが終わるの、早いねえ(⊙o⊙)
ヤンが子どものころは、夏休みって7月24日から8月31日って決まってたけど。
9月1日から2学期、秋!って、季節感がなくなっちゃったねえ。
ところでね、学校のお勉強っていったら、問題が出てそれに答えるってパターンがほとんどやね。先生が質問して、はい!はい!って手を挙げて。ドリルとかテストとかも。
で、どこまでできたかで点数がついて、成績が出て、評価される。
体育とか音楽とか美術とかでも、課題があってそれを解決っていうかやり遂げるっていうか。ほら、逆上がりなんかね。あれは、できるかできないかの課題やね。努力したかどうかではなくて。心の葛藤も問題じゃなくてね。
いかに効率よく早く正答にたどり着くか。
それで成績が出て、その成績が、進学を決めて、その学歴が就職を決めて、人生が決まる。って、ちょっと極端ないいかただけどね。それがレールに乗るってことですよね。
国の成長ってことを考えたら、このパターンはとっても効率的かもしれない。
ところで、わたしたちが節目節目に受けてきたテストの問題には、必ず正解があった。だって、テスト作成する先生が、問題と答えを作るんだから。答えのない問題は作らないよ。まるとぺけ、つけられないもん。
でもね、今まで生きてきて思うのは、実人生で出会った課題に正解はあったかなってこと。
いろんなことに出会って、苦しいときとか難しい局面とかもあった。その目の前のことに、その時できる精いっぱいの対処をしてきたけど、それが正解だったのかな?
いや、正解ってあったのかな?
正解のない課題を解きながら歩いていくのが、人生じゃないのかな?
若い人たちが、感受性の強いその時期に、正解を求める方法ばかりを身につけて、それでいいのかなあと思う。それって、将来自分の人生をひらいていくのに、ほんとうに役に立つ努力なんだろうか。
正解のない問いを、宙ぶらりんの状態で、ずっと心に持ち続けることの大切さ、面白さを、子どもたちに経験させたいなと思う。それはひとつの能力だから。
学校で無理なら、学校の外や家庭で。
音楽や絵画、文学には正答がない。それが芸術のいいところ。
そして、カリキュラムが詰まってても、学校で、子どもたちがお話を聞く機会をねじこみたい。
お話のおばちゃんは、物語の媒体となって、つまり答えを自分の中に持たないで、子どもたちに宙ぶらりんの楽しさを伝えよう。
って思った学期初めでした~(^///^)
ほんとにそうですね、ずっと競争させるのが学校の勉強ですよね。
自分が学校に行っているときはそれが当たり前だと思っていたし、苦しくても疑問に思いませんでした。
でも、今はねえ~。
特に、子どもが生まれてからや、おはなしおばさんをするようになってからはヤンさんが書かれたようなことばっかり考えてるようになったと思います。
人生って答えがないことばっかりだから、自分がどこにいるのかを忘れないようにするために、昔話がとっても力になってくれると思います。
うん、長いこと生きてるとそれが分かるんやけどね。若い人、子どもたちは見えなくって苦しむ。ゆっくり考えよう、ゆっくり歩くのがいいんよって伝えたいな。