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日常語入門講座②

またまたまたもっちです。

今回は、二回目の日常語入門講座にお邪魔してきました。
前回の講座で、日常語で語るとは?、日常語テキストの作り方を学ばれた受講生の方々が、それぞれ日常語のテキストを作って来られました。
すべて『日本の昔話』(おざわとしお再話、福音館書店)の5冊からの出典です。

「和尚おかわり」『日本の昔話1』
「とうふとこんにゃく」『日本の昔話5』
「ぶしょうもの」『日本の昔話3』
「猫の嫁」『日本の昔話5』
「竜宮童子」『日本の昔話2』
「和尚おかわり」『日本の昔話1』
「だんだんのみ」『日本の昔話5』
「どうもとこうも」『日本の昔話2』

まず、それぞれの今の日常語となった来歴を話してくださいました。
その後、作ってきた日常語のテキストを読んでいただきました。

日本語は高低のアクセントです。
あちらこちらの方言が混じった日常語はメロディのように心地よく、耳に楽しいおはなしとなります。
ご自分の心のふるさとの言葉を思い描いて、当時耳にしていた、話していた、古い方言を使いたいと苦労してくださった方もいました。
言葉は日進月歩、生き物のように変化します。今、その故郷の方の言葉も変化しているので、ピタリとはまる言葉を見つけるのは大変ご苦労された様子でした。
「こう語りたい」という気持ちをこめて作るから、同じ「和尚おかわり」のテキストでも、全然違うその人だけのテキストになります。

定期講座の日常語講座でも度々つまづく「取っていい助詞と取ってはいけない助詞」は今回も話題にのぼりました。
一般的に助詞「を」「は」「が」を取ると関西弁の日常語らしくなるのですが、これもひとそれぞれです。
助詞を取るときにも、取っていけない助詞を見極めなくてはいけません。
助詞の前の言葉を強調したいときは助詞を取らない。
助詞を取っても意味が分かる。
先に出てきた場面から変わっていないので何について言っているか分かる。
強調をさせたくない。
そんなときは助詞を取ってもいいそうですよ。

次回はこのテキストを覚えての発表会です。
覚える過程でまたまたテキストは直したいところが出てくると思います。
でも、これで完成!となったら語るたびにテキストが変わる、ということがないように、じっくりテキストとご自分の日常語に向き合ってくださいね。

皆さんの熱心な姿に、もっちも発奮させられた一日でした。

第5回 昔話の語法勉強会

またまたもっちです。
第5回 昔話の語法勉強会に行ってまいりました~。
ひとつのお話を題材に、テーマを設け、どんな語法が使われているのか勉強する勉強会です。

今回俎上に載せられたお話は、ご存じの方も多いと思います。
「心臓がからだの中にない巨人」です。
「なぜ愚かな末っ子が幸せになれるのか」

勉強会の初っ端からこのテーマについて考えます。
なぜなんでしょう。
末っ子は要領がいいから?
色々考えてみましたが、末っ子が幸せになる話もあれば、一人っ子が幸せになる話もあるんですよね。
末っ子でなければという理由が思いつきません。
と、ここでタイムオーバー。

正解は『主人公だから』でした。
言われてみればそうなんですよね。昔話は主人公が幸せになって終わるのです。
聴き手は主人公に感情移入して聞きますから、主人公に幸せになってほしい。

昔話の語法」(小澤俊夫著、福音館書店刊)のなかに小澤氏がマックス・リュティ氏に「なぜ、末っ子が主人公になるのか」とお尋ねしたという一節があります。
そのとき、リュティ氏は「人は誰でも一度は末っ子だった」とお答えになったそうです。
この場合の末っ子というのは、単なる兄弟の出生順という意味ではなく、最も年少で力がなく知識もない末っ子という意味で、人は誰でも家族の中で、社会の中で、末っ子だった頃があるという意味なのだというようなことを小澤氏は説明されています。
そう考えると、一人っ子も家族の中で一番年少で力がなく知識もない年長者から見て『愚かな末っ子』になるんですね。
そして、それぞれの成長のステージでもまた誰もが一年生という『末っ子』になりますね。
その末っ子が幸せになることは、人は誰でも明るい人生が用意されていると暗に励まされている、そんな気がします。
まるで昔話は人生を表しているかのようですね。主人公がすごく弱く辛く貧しい、そんな立場からものすごい幸せを得ると、聴き手の喜びもひとしおですよね。

さて、このテーマに隠されている今回の勉強会の本題は「孤立性」についてでした。

昔話にでてくるあらゆる人物やモノは孤立して語られていますが、主人公は特別孤立しているように語られます。
孤立的にというのは孤独という意味ではなく、あらゆる背景(環境や設定や生い立ち?)や内面的なものを語らず、その人、その物だけの輪郭を濃く浮き立たせる……そんなイメージを受けました。それは、昔話が極端なものを好んだり、かたい物を好んだり、内面を語らないことだったりといった他の語法とも結びついているようです。確かにその他大勢のものより、イメージが際立つような気がします。
つまり昔話は孤立的なものでできている。
そして、孤立しているからこそ一本のストーリーによって結びついている。
そりゃそうですよね。複雑な人間関係やお国事情、心理描写を細かく語ると、何が本題のストーリーなのか聴き手には伝わりませんものね。
主人公は特別孤立してますから、より強く結びつく能力を持っている。
主人公は援助を受けるための正しい助言者、援助者に出会い、必ず正しいキーを押します。選択を誤りません。
だってそれを聞き手は望んでますからね。

そして孤立しているのは人物やモノだけではなく、エピソードもでした。
子どもの頃は至極当然に受け止めていた白雪姫の三回の繰り返し。
大人になってからは、なぜ白雪姫は前回の失敗を学習しないのか不思議でしたが、これら一つ一つのエピソードは孤立してカプセルのようなものに入っていて、主人公は全体を見通すことはできないのだそうです。
だから同じ出来事を繰り返す。この三回の繰り返しが楽しいんですよね。昔話らしさですよね。固定性ですね♬

今回の勉強会はすごく難しい内容でした。解説を聞いている時には分かった気になっているのですけどね。
レポートを書きながら、これで合ってるのかなと不安ですが、間違っていたらヤンさんがコメントで訂正してくれるはず。(笑)
みなさん、コメント欄も合わせてチェックしてくださいね。

ストーリーは主人公以外には優しくないけれども、正しいキーが押せずに失敗した兄弟を主人公が助けてくれて、みんなが幸せになるおはなしっていいなぁ、優しいなぁと思うのです。

ところで余談ですが、昔話では「言葉の出来事による繰り返し」があります。最初に宣言したことが実現されるのです。
このお話でも、主人公のエスペンが「必ず戻ってきます。六人の兄さんたちも一緒につれて帰ります」と宣言してから旅立ち、本当にそのようになるのですが、神社で願い事を言うときも「〇〇になりますように」ではなく「〇〇できました。ありがとうございます」と先にお礼を言うのが良いと最近耳にしました。神様が先にお礼を言われたので叶えてあげなくちゃと思うのだとか。
そのときはいい言葉で願い事を言った方がいいそうです。病気とか怪我とかマイナスのワードは入れない方がいいそうです。
もしかすると彼岸の存在である神様が言葉による宣言を出来事で繰り返す援助をしてくれるかもしれませんよ。

 

 

2月 おはなし初級講座

春ですね。
まだまだ寒い日が近づきますが、梅が咲いたという声をちらほらきいて、お出かけしたくなっているもっちです。
初級講座は2月始まりの講座でして、新しいメンバーを2人お迎えしましてスタートしました。

今回の語りは…

「三びきのくま」『語りの森HP』【リンクはここから】
「貧乏神」『語りつぎたい日本の昔話5笠地蔵』(小峰書店)
「まめたろう」『おはなしのろうそく19』(東京子ども図書館)
「馬方やまんば」『日本の昔話5ねずみのもちつき』(福音館書店)
「地獄に行った吉兵衛さん」『語りの森HP』【リンクはここから】
「おおかみと七ひきの子やぎ」『語るためのグリム童話集1ヘンゼルとグレーテル』(小峰書店)
「屋根がチーズでできた家」『子どもに語る北欧の昔話』(こぐま社)

9月の初級講座の時も思いましたが、ひと月講座が空いた次の講座は、おはなしがたっぷり聴けてとても楽しいです。みなさん勉強熱心ですよね。

さてさて、今回の初級講座では【助詞】について話題にでました。
初級講座ではテキストをそのまま覚えて語り、そこから色んなことを学んでいくのも課題の一つです。
テキストによっては言葉が舌に乗らなくて、ちょっとした接続詞や助詞が覚えられなくて、
「ここは【へ】!、こっちは【が】!!あ~、覚えられへん!!もうどっちでもいいやん!!」
とテキストに印を付けたりしたことありませんか?他にも【そして】とか【ところが】とか覚えにくい接続詞も〇したり、マーカー引いたり・・・。

本当はどっちでもよくはなくて、再話された方がちゃんと一文字一文字言葉を選んで書いてくださったテキストなんですけどね。分かってはいるんですが、ついね。

今回はそんな物語のストーリーに直接関係ない助詞と接続詞に振り回された方続出でした。もっちも例外ではありません。
あまりに助詞や接続詞を気にするあまり、そこを語るときに間違えまいと肩に力が入ってしまうんですよね。で、次は間違えまいとテキストに印を入れて・・・!
でも本来、ストーリーに大事なのは誰が何をしたという主語と動詞。
でもテキスト通りに覚えてと言われたら、一文字の間違いも気になるのよぉ~。

もうね、みんな一度は通る関所なんじゃないかと思います(笑)

この助詞、接続詞覚えにくい~と思ったら、心に留めるだけにして、テキストに印をつけるのはやめましょうというアドバイスをいただきました。
子どもたちの前で語るときにはテキストは持てませんからね。
視覚に頼らず、自分を信じよう。
自分を信じられるまで練習しよう。つまりはそういうことかなと。
テキストに印をつけるとそこばっかり目に入りますからね。
そりゃ力入っちゃいますよね。
そして本番、子どもたちの前で間違ったら、間違えた顔をしない、言い直さない、ほうがいいそうです。
諦めて先に進んでください。もうちょっと上級者の方はしらっと即興で辻褄合わせをなさるそうです。

すごい(;´・ω・)

あと、「馬方やまんば」には聞く子どもの年齢にもよりますが、子どもたちの分からない言葉がたくさん出てきます。
このおはなしのミソは、馬方が自分の財産の馬を山姥に食べられて、山姥をやっつけるところなので、どうして恐ろしい山姥に仕返しをするのか、そのまま逃げなかったのかを分かってもらうためには、馬方という職業、馬に対する考え方と愛情をね、理解してもらう必要があります。
どこまで言葉を説明するのか、どのタイミングで説明を入れるのか。
子どもたちの前で語る機会が増えてきた方には、また一つ関所ですよね。
タイトルから派生して説明できることは、語りの前に。
途中のワードは子どもたちの顔を見て、分かってないなと思ったら一言で説明できるように用意していって臨むのがいいようです。
子どもの顔色を読む余裕ができればできるようになるんでしょうね。
そのときも視覚的に伝えるとイメージが固定してしまうので、手振りや絵本、図鑑や現物は見せない方がいいようです。
あとで何かの拍子に「それ」に出会って、「ああ、これのことか!」という気づきが語彙の獲得や成長に繋がるのだそうですよ。
そう考えると、おはなしのボランティアって責任重大だなぁと思いませんか。
もっちは以前、「説明(の言葉)が硬すぎる」と言われたことがあります。
ほんま、おはなしの勉強は一朝一夕にはうまくいかなくて楽しいわぁ~。

2月の日常語講座🐤

こんにちは、もっちです。
2月3日は節分👹でしたね。みなさま恵方巻は召し上がられましたか?
恵方を向いて、恵方巻をまるかぶりする風習は、大阪船場の商人が始めたそうで、関西特有かと思われていましたが、コンビニの普及に伴い、このごろは全国で恵方巻を食べるようになってきているそうな。少なくとも関東の知り合いは「普通に売ってるよ?」と言っておりました。
季節の行事食っていいですよね。季節を感じられるし、夕飯のメニュー決めも楽なところが嬉しいところです。
ところで節分は、季節を分けると書きます。実は年に4回あるのはご存知でしたでしょうか。
それぞれ立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分になるのですが、一般的に節分というと立春の前日の節分が有名なようですね。

さて、立春も過ぎ、めっきり春めいたとは言いにくい小雪の舞う日に2月の日常語講座がありました。

語りは、
「洪水」『語りの森HP』【リンクはここから】
「海のはて」『日本の昔話4』(福音館書店)
「かたつむり」『語りの森HP』【リンクはここから】
の3話。
テキストは、
「犬と笛」『子どもと家庭のための奈良の民話一』(奈良の民話を語りつぐ会)
「岩くだきと堂せおいと知恵もん」『日本の昔話5』(福音館書店)
「浦島太郎」『日本の昔話4』(福音館書店)
の3話でした。

毎度話題にのぼる擬態語(オノマトペ)
ついつい擬態語も自分の馴染んでいる日常語にしてしまいがちですが、鬼が、大蛇が人をげろりと飲み込む様子など、普段あまり使わないその擬態語も昔話の面白さの一端のように思います。
そこだけは標準語のテキストもそのまま残している部分なので、原話の擬態語を大事にしているということなのでしょう。
ところで、ヨーロッパ・英語圏には擬声語や擬態語が驚くほど少ないのだそうです。その代わり動詞と形容詞が多いのだとか。
反して日本の擬態語は多く、多様化しているそうです。これも文化なのでしょうか。
そう考えると何が何でも日常語というよりは、その作品から受けた自分のもつイメージを大事にしつつ、お話の持つ雰囲気に合った日常語テキスト作りができたらいいなぁと思いました。

また、語りで補える言葉は、テキスト上の書き言葉を省略できる、というのも話題に上がっていました。
これは、鬼が大きい声で怒って言ったとか、お姫様が囁くように小さな声で言ったとかいう部分のことについて討論していたときに出た話題でした。
その様子を語りで表現できるなら、わざわざ大きな声でとか、囁いてとか言わなくていいよってことだったのですが、これも語り手それぞれ。その表現ができる人、似合わない人、語り手が100人いたら語り口も100通りあるのです。
だから日常語テキストにどれが正解なんてことはなく、やはり日常語テキスト作りの道程は、ひたすら自己を顧みるこれに尽きるようです。
昔話の主人公も、語り手も孤立して悩んで進んでこそ、ハッピーエンドが待っているようですよ。

2016年度 日常語による語りの入門講座 第1回

 窓ガラスから射し込む陽射しは暖かいのに、外に出ると寒いですね。
 えいやと外に出てみれば、尾の長い、スズメより大きくて、鳩より小さい野鳥に出会いました。
 その鳥が、すごい速さで歩いて逃げるのですが、追いかけただけ逃げるんです。距離は一定に保たれているんです。
 なんだか楽しくてしばらく追いかけて遊んでしまいました。最後は「なんやこの人間」と言ったのか、ききみみずきんがないのでわかりませんが、飛んで行ってしまいました。

 さて、語りを勉強していて、「テキストに手を入れたい!」と思ったことはありませんか?
 共通語で書かれているテキストはともかく、どこかの方言っぽい言葉で書かれている日本の昔話などは、言い回しが舌に乗らなくて、覚えづらくて苦労した覚えがあります。
 そんなとき、自分が普段話している言葉に直せたらいいのになぁと思ったことがあります。でもその方言っぽい部分をどう直していいのか、そもそも語り手初心者にそんなことしていいのか悩みますよね。

 今回は、日常語による語りの入門講座に行ってきました。三回連続講座です。

 まずは「日常語」ってなんやねんというところから説明して頂きましたが、とどのつまり前述した「普段使ってる言葉」のことでした。
 ただこれは、一人ずつ違うもので、その人の歴史そのものでもあります。
 自分一人だけの歴史ではなく、父母、祖父母、曽祖父母、おじおば、いとこ、先生、ともだち、仕事で一緒だった人、出会った人たちの人生の歴史、主にことばが混ざりに混ざって自分の日常語ができているんだなと思うと宇宙を感じませんか?
 普段何気なくしゃべっているけれど、自分の日常語ってさてどんななんだろうと考えつつ、次は口承文芸の研究をされている先生が学生さんと集めたという伝承の語り手さんが昔話を語っている音声を聴かせていただきました。
 語りの素晴らしさは横に置いておいて、やはり耳慣れない土地言葉、つまり方言で語られている昔話はやっぱり聞き取りにくく感じました。
 とすれば、本来の自分のものではない土地言葉をそれっぽくテキスト通りに語ったところで、聴き手の子どもたちには届かないだろうし、イントネーションもおかしなものになる。やっぱり普段子どもたちと会話しているような普段の言葉で語れたらいいなぁという思いを強くしました。
 ただ、「外国のおはなしは共通語のテキストのままでやります。自分のなかのヨーロッパのイメージを壊したくないから」とおっしゃったヤン講師の言葉は耳と心に染み入りました。

 

私も関西弁のグリム童話はいやや~(´;ω;`)

 

 とくにお姫様や王子様の出てくる物語は私もコテコテ関西弁のイメージはないです、ハイ。

 つまり、ケースバイケース。語り手がそのおはなしをどう語りたいか、どんなおはなし会にしたいか、ということなんでしょうね。

 さてその後、実践的に共通語のテキストを日常語に直していくハウツーの伝授がありました。
 やっぱりそこは土地言葉のテキストからいきなり日常語に直すより、共通語からの方が分かりやすいです。
 ただ、日常語は本当にその人だけのものなので、ここを変えたら日常語のテキストらしくなるよ~というアドバイスとともに、ヤン講師が共通語のテキストにどう手を入れたかを確認していきました。もう高校か中学の現国の授業みたいです。
 接続詞やら目的語やら副詞やら、そんな単語が飛び出します。
 そして実際語って頂いたのですが、当たり前ですが日常語に直したテキスト通りに語られました。

 そう、日常語に直すというのは好き勝手に語るということではありません。

日常語に直した自分だけのテキストを作り、それを覚えて語るのです

 

 え~、やっぱり覚えるんや~~!
 と思われる方もいらっしゃると思いますが、テキストを直していく段階で何回も何回も口に出して読みますし、自分の言葉になっているので比較的覚えやすいと思います。覚えにくいのは自分の言葉になっていないからかもしれません。知らんけど。←ここが関西特有の言い回し
 レッツ トライ!

 悩んだら自分のいつもの言葉を見つめなおすこと、それから『昔話の語法』(小澤俊夫著 福音館書店発行)の第六章の二、再話昔話の言葉を参考になさってくださいね~。
 語りの森HPの『日常語で語ろう』ページにも具体例とヒントが丁寧に掲載されています。

http://katarinomori13.com/nitijyo.html#tekisuto ←ここにリンク置いておきますね(^▽^)/