「児童文学を読む」カテゴリーアーカイブ

文学教育の考え方ー子どもと文学と教師と👩‍🏫

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』を読んでの報告

第1章 子どもに本を手わたすこと
その7 文学教育の考え方ー子どもと文学と教師と 1960年発表

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子どもと文学の関係には、大人がかかわっています。
作品を書くのは大人だし、出版するのも大人だし、選ぶのも大人だし、指導するのも大人。
だから、大人の社会環境が大きく影響する。
よい作家がよい作品を書いて、よい出版社がよい本を出して、よい図書館員がよい本を選び、よい教師や親がよく読んでやりよく読ませること、が必要です。
だから、大人が文学についての考えをしっかり持っていないといけないし、間違っても変に介入して妨害してはいけないのですね。

で、ここでは、学校教育の中での文学教育について書いてあります。
大人のかかわり、という点では、まず「学習指導要領」
国語では、読む・書く・聞く・話す技術の指導がほとんどで文学教育は隅に追いやられていると、瀬田先生は言います。
これ、60年前のことよ。
この傾向は、いま、どんどん進んでいますよね。

文学は子どもの心の発達に大きな意味を持つ。
だから、学校での文学教育は必要。
と、瀬田先生は言います。

ただし、文学作品を教材としてあつかうときの扱い方にも問題があると。
文学教育は、道徳でも社会教育でもないし、教師が固まった理論を押し付けるのは、大きな間違いで、学校教育の欠陥だ、と瀬田先生は言います。

じゃあ、何を教えるのか。
何が文学教育の目的なのか。
「想像力を伸ばすこと」なのです。
それこそが、文学教育のただ一つの目的。

そのためには、子どもの成長過程をよく見て、ちょうどあった作品を扱うこと。

それって、先生がよっぽどたくさん読んでいないとできないですよね。

さらに、その作品をどう扱うかだけどね、感動的な引用。

文学にある固有の力をまず文句ぬきでだまって渡してやること。・・・文学の感銘をそれぞれのものにしてやり、性急な追撃をかけて摘みとることなしに育つのを見守るのがほんとうであろう。

教科書の文学作品を分解してこねくり回さない方法、子どもが想像力の羽を伸ばして作品世界から自分で何かをつかみ取る方法を、先生は実践してほしいと、心から思いました。

家庭文庫🏡

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告の続き。

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第1章子どもに本を手わたすこと
その6 家庭文庫 1959年発表

みなさん、家庭文庫ってご存じですか?
ヤンも最初にお話を語ったのは文庫でした。
私の場合は、家庭、じゃなくて地域文庫。
上の子が3歳。そのころ、我が街には子どもがうじゃうじゃいてね(笑)
水曜日は、親も子も公民館に集まって、本を読んだり借りたりしてたの。遠足なんかもしてね。
30~40代の若いお母さんたちで運営していて、活気があって面白かった。
いまは、運営はおばあちゃん世代が中心かな。

で、本題(笑)

そのころ(えっと、今から60年ほど前ね)、アメリカの児童図書館員は、図書館の他の部門の館員より特別に尊敬されていて能力もあったんだって。
それを瀬田先生はうらやましく思って、次のように書いています。

よい児童図書館が(日本の)津々浦々にできて、アザール(昨日のブログ見てね)のいうように、文学賞の権威をうらづけ、新進作家をひっぱり、出版と教育へ努力し、講座をひらき、諸国と交流し、貸出本を大はばに移動させ、くまなく浸透していく・・・そういう日を、私はなによりも切に待ちのぞみます。

けれどもそれをただ待っているのではなくて、新しい着実な動きに注目します。
家庭文庫の登場です。

家庭を開放したり、公民館などを利用して、子どもと本をつなぐ活動です。
そんな文庫活動をしている人たちが連携して勉強会を始めました。
村岡花子さんの道雄文庫、土屋滋子さんの土屋文庫、石井桃子さんのかつら文庫、など。

瀬田先生の文章引用
小さな流れではありますが、運河化して、まずおのれの周辺の砂漠を沃地にしようという各家庭文庫に、心から敬意を表します。

でね、日本全国にこの流れが広がったの。
それには、『子どもの図書館』(石井桃子著/岩波書店)の力が大きかった。

ちなみに、土屋文庫(2か所)とかつら文庫、少し後の松岡享子さんの松の実文庫の四つが母体になってできた私立図書館が、東京子ども図書館です。

それにしても、60年前の、津々浦々に良い児童図書館をという願いは、いつかかなうのでしょうか。そのためには、私たちも同じ思いを持たないといけないと思います。

はい、今日はここまで~

アメリカの児童図書館運動の原動力🙋‍♀️

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告つづき。

第1章子どもに本を手わたすこと
その5アメリカの児童図書館運動の原動力

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児童図書館が生まれたのはアメリカなんだって。

上の写真は、フランスの文学研究者ポール・アザールの『本・子ども・大人』
(1957年/矢崎源九郎訳/紀伊国屋書店刊・原著は1932年)
児童文学の基本図書として読まれた方も多いと思います。
アザールは言います。

時流が激しい狂いを見せて流れるなかでしっかりと子どもを守るもの、魂と精神をきたえる憩いの場所、人種と貧富とを問わない自由な楽しみの一画、学びくつろぎ楽しみにいく本の家。

それがアメリカに誕生した児童図書館だといいます。
そんな昔から、そんな夢のような場所がアメリカにはあったんですね。

図書館は、きのう書いた三つの活動に心血を注ぎます。
そして、アメリカ国内に素晴らしい児童図書館が次々と生まれるのです。
生まれるには、生み出そうとする力のある図書館員が必要です。

小さな家庭文庫のようなものを始めたビンガムさんが、最初です。
キャロライン・ヒューインズさんは、全国の図書館員にアンケートを取ります。
「子どもたちを本好きにさせるためにどんなことをしていますか?」
その回答は、「何も」。つまりゼロだったのです。
そこから、児童書のリスト作りを始め、児童図書館の設立に向けて動いていったのです。
そのあと、アン・キャロルムーア
彼女は子どもの読書に一生を捧げました。
そして、フランシス・ジェンキンズ・オルコット
児童図書館員の養成学校があちこちで開かれ、優秀な専門員が、アメリカだけでなく外国へも派遣されていきました。

それらの、子どもの読書を支える図書館は、みな公立です。
税金によって、誰でもがその恩恵に浴することができるのです。
なけなしの小遣いで高額の受講料と交通費を払って、それでも十分に学べない、だから専門家にはなれない、素人のボランティアが、今の日本にどれだけ多くいる事でしょう。
子どもの読書環境が保証されてさえいたらと思わずにはいられません。

あああ、またフラストレーション(笑)

最後に、瀬田先生の言葉を引用します。

館員が積極的に自然に子どもに本を読ませ、本好きにさせていく実際的な技術のなかで、お話をすること(story-telling)がいかに大きいか。・・・出版社へよい出版をアピールすること、児童文学賞選定に全き実権を持っていること、指導や文学史の研究をおおやけにしていくことなど、私たちの瞠目するばかりである。

文学の楽しみを伝える📗

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』のつづきだよん。

第1章 子どもに本を手渡すこと
その4 文学の楽しみを伝える
ーイギリス、アメリカその他の国の文学教育 1953年発表

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英米では、子どもに本を手渡すには、楽しさを伝えることを基本にしているとのこと。(もう67年も前の文章ですが)
幼児期の家庭でのおはなしが、まず第一歩。
小学校・中学校では、先生の力によるんだけれど、心理学の裏付けをもとに、成長に合わせて読書指導をしているそうです。
どうやれば子どもたちを本に夢中にさせられるか、指導の実践例が書かれています。なるほどこれなら楽しいだろうな~って思うような例も。
でもそのためには、先生自身が相当量の本を読んでないとだめだろうなと思いました。
現代の日本ではどうだろう?
先生、余裕あるのかな?

「いかに教えるか」が先生の役割なら、「何を教えるか」は図書館の仕事だって。
文学教育は、学校と強く結びついた図書館の活動に支えられている。
う~ん。
これって、どう?
日本、遅れすぎてない???

図書館の活動
1、おはなしの時間。もちろん、ストーリーテリングのおはなし会ね。
2、児童文学賞の主催。例)絵本のコールデコット賞、読み物のニューベリー賞、カーネギー賞。
全部図書館員が選ぶのよ!
3、図書リストの作成。

ああ~~
今の私たち。
公立図書館でも学校図書館でも、おはなし会はだれがやってる?
子どもに何を読めばいいかわからなくて、子どもに何を薦めればよいかわからなくて、右往左往している私たち。基本リスト欲しいよね?
児童文学賞を出してるような人が図書館にいたら、どんなに心強いでしょうね~

せっかく勉強しようと読んでるのに、フラストレーションがたまってしまったあ
ちゃんちゃん!

続・続・続キャパシティの発見😁

きのうの続き~

リリアン・H・スミスの『児童文学論』でいえば第3章「批評の態度」ね。これについての瀬田先生の解説です。

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児童書がどんどん出版されるおかげで、文学的でない作品も増産されて、いいものが見落とされているって瀬田先生はいいます。1959年段階でこれだから、現代は以て知るべしですね。

だから、きちんと批評できないといけないっていうことなのね。
子どもと本をつなぐ立場にいる大人は。
難しいけどね。

で、瀬田先生が言うには、日本は特に間違った批評してきたんだって。
どんなふうに間違ったかと言うとね、社会的なことをテーマにしているかどうかに基準を置いてしまっているって。

社会的な見かたを不当にたくさん負わせた本を大人が歓迎するのは大きな間違いだって。大人の真剣な社会問題への興味を打ち出した本が賞賛されている。それは間違いだといいます。
大人の正義を子どもに持ち込んではいけない。

ちょっとほっとしました。
そういう本は、わたし、苦手だから。
なぜ違和感があったのか、わかった気がします。

子どもには子どもにとっての自然なテーマがあるはずですよね。
それを追いかけてほしいと思います。

瀬田先生の言葉を借りれば、「子どもの本質をつかもうとする努力をまず第一に」置くべきなんでしょう。

感動的な引用
スミス女史の態度は、終始文学的な質にむけられているが、それが読者としての子どもに密着した点を、ぼくたちは大いに学ぶべきではなかろうか

子どもの本質をつかむ・・・むしろこのほうが、ずっと難しい。社会問題は大人の問題だから大人にはわかりやすいんですよね。で上から教えることもできるし。

不断の努力やね。
古典に学ぼう!