「児童文学を読む」カテゴリーアーカイブ

ムーミン谷🏞

お正月から少しずつ、少しずつ、楽しみに読みすすめてきたムーミン全集(全9巻)が、1月末で読み終わってしまった。
さびしい(⊙ˍ⊙)

子どもの頃のイメージでは、ムーミン谷は懐かしい理想のふるさとだったんだけど、今回まとめて読み直すと、自分の希望がそのままイメージになっていたことが分かりました。ホムサの想像するムーミンママのように。

愛すべき登場人物たちの人生は、けっして平穏ではありません。彗星の接近や洪水や、恐ろしい怪物の脅威や、自然との闘いが続きます。
ひとりひとりが、自分らしくそれに対していく。向かっていく者もいれば逃げる者もいるし、われ関せずの者もいる。
それを肯定する作者ヤンソンの愛情にあふれるまなざしに、いやされます。

第1巻から8巻までの流れも心憎いばかりです。
特に、第7巻『ムーミンパパ海へ行く』での絶海の孤島の体験。これは、ムーミン一家(ムーミントロール・ムーミンパパ・ムーミンママ・ミイ)と灯台守しか登場しないのね。そして、読んでいて、島の自然の脅威と孤独を感じるたびにムーミン谷が恋しくなる。ムーミンママが壁画に入っていくのと同じ。はやく、みんなムーミン谷に帰らないかなあと思いながら読んでました。
それに対して、第8巻『ムーミン谷の十一月』には、ムーミン一家が出てこないのです。一家が留守のムーミン谷に、スナフキン、ミムラ姉さん、ホムサ、ヘムレン、フィリフヨンカたちが、一家に会いたくてやって来ます。みんなの語る、また思い描くムーミン一家によって、この巻はむしろ、一家のいる谷を強く感じさせてくれます。
フィリフヨンカの影絵の場面では涙が出ました。
ムーミンたちの船が接岸する直前で物語が終わっているのも、ほんと心憎い。
物語の続きは、読者が紡いでいくんだとでもいうように。

ムーミンロスを何とかするために、いま、またケストナーを再読し始めています<(^-^)>

それと、インドの昔話を読んでるところ。昔話の起源にインド起源説っていうのがあるくらいだから、たくさんの昔話があるようです。でも、日本語に翻訳されている基本資料がなかなか見つからないのねえ。第三文明社『インド昔話抄』とぎょうせい『世界の民話ーパンジャブ』くらいです。今他に探しているところです。情報、お待ちしています~

 

 

 

ハイジ⛺

中村桂子さんの『「ふつうの女の子」のちから』(2018年/集英社クリエイティブ)を読んでたらね、ハイジについて書かれてたの。
そういえば『ハイジ』はちゃんと読んでなかったって気がついて、読んだ。

子どものとき家になかったから、きっとどこかで借りて読んだんだろう。
なんども読んだ作品は、登場人物や風景が見えるんだけど、ストーリーしか覚えてなかったからね。

ヨハンナ・シュピリ作/上田真而子訳/岩波少年文庫/2003年

涙、涙。
久しぶりに号泣したよ。
ストレスも発散した(笑)

わたし、小学生のとき、読書感想文が嫌いでね、提出しなかった。
いや、書かなかった。
感動すると書けないもの。書きたくないもの。
だから、いま、『ハイジ』の感想書かない!

ふたつだけ。
人の心のほんとうのあり様は、美しいのだということ。
アルムの自然の美しさは、映像では分からない、ヨハンナ・シュピリの筆による描写が最高だっていうこと。

みなさん、ぜひ読んでみて。
高学年以上の子どもをお持ちの方は、寝る前に読んであげて。
親子で感動するの、いいと思う。

ヨハンナ・シュピリ(1827-)は、スイスのヒルツェルという小さな村で、生まれます。父親は医者、母親は牧師の娘です。
44歳ごろから小説を書き始め、『ハイジ』は53~4歳のとき世に出ました。74歳で亡くなるまで子どもの本や小説を書き続けたそうです。

 

 

わたしが子どもだったころ👦

ケストナーをぽつりぽつりと読んでるんだけど。
というか、ケストナーと中村桂子さんを交互に読んでるんだけど。

やっぱりケストナー、すごいわ。
子どもを子ども扱いしない人。時代の大問題をどうやったらあんなふうに子どもと共有できるのかな。

『わたしが子どもだったころ』は1957年出版。これがきっかけで、ケストナーは1960年に国際アンデルセン賞を受けました。
作者前書きに「親愛なる子どもたちと、子どもでない人たちに!」とあります。
もちろん、わたしは、子どもでない人として読んだんだけど、夢中で読みながら、自分が子どもとして読んだら何を感じるだろうと思いながら読みました。
きっと、この人は信頼できる大人だと思って読んだでしょう。

ケストナーはドイツのドレスデンで生まれたんだけど、この本の中で、歴史ある街ドレスデンがどれほど美しく慕わしい土地かということが、写実的に描かれています。決して感傷的ではなくて。
高橋健二さんの訳のおかげもあると思うけど、ドレスデンの街がまざまざとみえました。そして、ああいつか行きたいと思いました。

ほんとにドレスデンはすばらしい都市だった。みなさんはわたしのいうことを信じてよい。ー引用

ところが、そのすぐあとに、だれもそこへ行くことはできない、ドレスデンはもはや存在しないからだとあります。
第二次世界大戦で、一夜のうちに消されてしまいました。
その二年半後に、故郷に立ったケストナーは、はてしない廃墟の中で、自分がどこにいるのかわからなかったのです。
ケストナーは言います。
ドレスデンを廃墟にしたのは誰なのか、いい争ったところで、ドレスデンを生き返らせはしない!美しさを、死人を生き返らせはしない!政府を罰せよ、人民を罰するな!(略)即座に罰せよ!

故郷の魅力を語るやり方も、戦争への怒りを訴えるやり方も、読み手を子ども扱いしていないのです。

ほかにも、両親のことや、出会った先生たちのこと、学校生活のことを読んでいると、今の私たちの生き方の参考になる、と思いました。
「子どもにも心痛がある」なんて章は、思わずうなりました。
一応児童文学なので、読みやすいです。
おすすめ~

ケストナーの大人向けの小説『一杯の珈琲から』(東京創元社)もおもしろかった(^∀^●)

************

本の返却期限が明日なので、急いで書きましたヾ(•ω•`)o
「七羽の烏」はちょっと待ってね。

きょうはおはなしひろば「しおふきうす」を更新しました。

台風が近づいてる。みなさま、気を付けてください!

 

 

おすすめ📖五月三十五日

『ふたりのロッテ』につづいて今日は『五月三十五日』の紹介です。
1931年に書かれたケストナーの3作目の子どもの本。

なんで五月三十五日?
その説明は無し。
でも題名だけでファンタジーってわかるよね。

主人公のコンラート少年は、先生に、想像力が足りないと言われて、南洋について作文を書くという宿題が出る。算数の成績はいいんだけどね。
90年近く前の作品だけど、古くない。先生っていうのは、いつの時代もマイナスを伸ばしたがるものやね。

で、叔父さんに相談してたら、ネグロ・カバロっていう黒馬がやってきて、古いタンスの中に入ったら2時間で南洋に行けるって教えてくれる。
それで、三人(いや、二人と一匹)で、出かけるの。

タンスの中に入っていくってところで、ナルニアを思い出して、オリジナルじゃないやんってちょっとがっかりしたんだけど、向こうの世界はアスランの世界とはぜんっぜん別世界。
南洋につくまでにいろんな世界を通り抜けるんだけど、奇想天外!

「なまけ者の国」では、めんどりがフライパンを引きずって歩いているの。で、人が近づいてくると、すばやくハム付き目玉焼きかアスパラガス付きオムレツをうみおとすんだって。これは一例。

「偉大な過去の城」では英雄たちがスポーツを楽しんでいます。
ハンニバルとワレンシュタインはスズの兵隊で戦争ごっこ。
「あんな英雄はもう鼻についてきた」と馬のネグロ・カバロ。
戦争ごっこの無意味さを漏らします。

「さかさの世界」は子どもが大人を教育しているの。
子どもを虐待したり、育児放棄する親に罰を与えて、心を入れ替えさせる。
90年近く前の作品よ!

「電気の都市」には無人自動車、動く歩道、携帯電話。
90年近く前・・・!
家畜加工場は、入り口から牛や豚が入っていったら、出口から、バターや靴や、トランクや冷凍肉なんかが出てくるの。
必要なものは何から何まで機械が作ってくれて、人間が働くのは、娯楽のためだったり、太らないため、誰かにおくりものをするため、何か覚えるためなんだって。

全部一例だから、読んでみてね。大笑いするよ。
南洋に着いてからがまたおもしろいの。

これ以上書かないけどね、ひとつだけ、コンラートがペータージーリエって少女と仲良しになる。彼女の父は南洋の黒人の酋長で、母はオランダ人のタイピスト。それで、彼女の肌は白黒の碁盤もよう。
人種差別の無意味さへのケストナーの態度がようわかる。

ケストナーが批判していることは、ほとんど現代の問題です。
古くない。ぜんっぜん古くない。
びっくりだけど、哀しくもある。

********

きのうはおはなしひろば更新。
聞いてくださいね。そして、お子様にすすめてくださるとうれしいです。

 

 

 

おすすめ📖ふたりのロッテ

時代の転換期のような気がする。
こんなとき、おとなは子どもに、何を、どんな態度で示せばいいんだろう。
昔話を再話したり語ったりするのに、深く考えこんでしまう。

ふと、エーリッヒ・ケストナーが読みたくなった。
ケストナーは第2次大戦前から詩や小説や子どもの本を書いていたんだけれど、自由主義者だったので、ヒトラーが執筆を禁止した。それでも、ケストナーは亡命しないでドイツにあって、物語の構想を温めながら時のすぎるのを待ってたのね。
自分の本が焼かれるのを見物に行ったりしたんだって。

二つの世界大戦の時代と、それを経験した戦後、大きな時代の転換期に、児童文学を書き続けたケストナーが、いま読みたくなった。

本箱には、古い版のケストナーが何冊かあってね。
『エーミールと探偵たち』や『サーカスの小人』は小学5,6年生のとき、夢中で読んで、手あかがついてる(笑)
あのころ、まともな図書館が身近に無かったからね。買ってもらったわずかな本を覚えるほど繰り返し読んだ。ケストナー作品もそのひとつ。

ヒトラーが倒れ、戦後最初に出したのが『ふたりのロッテ』。まずはこれを読もうと思った。ケストナーがどんなメッセージを子どもに発したのか、考えたかったから。

本箱の『ふたりのロッテ』の奥付を見たら、1976年になってて、挟んであるしおりがカード型のカレンダー。なつかしいなあ(笑)
これは、子どもの時に読んだんじゃなくて、大学の児童文学の授業で薦められて買ったんだった。
どおりでストーリーをしっかり覚えていないわけだ(笑)

で、覚えてなかったので、めっちゃ新鮮に読んだ。
夢中でひと晩で読んだ。

ケストナーは子どもを子ども扱いしないで、対等の人格として、おとなの問題も子どもにとって大きな問題だと認識して、誠実に、自分なりの答えをまっすぐに子どもに提示していた。
大きな愛にユーモアをまぶして。

ふたごのロッテとルイーゼは、両親が離婚したときに、別々に引き取られたので、お互いの存在を知りません。いまは9歳。
ところが、夏の子どもの家のキャンプで、偶然出会い、自分と同じ姿かたちの相手にショックを受けます。そこから物語が始まります。

でね、物語の進行中に、一か所だけ、作者の言葉が出てくるの。
引用
あなた方を肩ごしにのぞくおとなが・・・、わたしはその人に、この世の中には離婚した両親がたいそうたくさんいること、そのためにいっそうたくさんの子どもが苦しんでいること、また他方、両親が離婚しないために苦しんでいる子どもがたいそうたくさんいることを、話してやりましょう!しかも、そういう状態のもとに苦しむことを子どもらに強いているとしたら、そういうことについて、すじ道のとおった、わかりよい形で、子どもらと話をしてやらないのは、あまりに気が弱すぎるばかりか、道理にそむくことでしょう!
『ふたりのロッテ』高橋健二訳/岩波少年文庫

まじめでしょ。でも、愉快でユーモアにあふれてるのよ。

さてしばらくはケストナー漬けかな(笑)

おっと、学校の先生から、「最近のロッテがおりこうさんでなくなった」と指摘されたお母さんの独白「母おやというものはーたとえほかに、どんなにたくさん心配があったってー何よりも、子どもが子どもの天国からあまり早く追い出されないように守ってやる義務があるんだわ!」も感心しました。