「日記」カテゴリーアーカイブ

マスク騒動🐽

そろそろ家の使い捨てマスクの在庫が切れる。
ヒノキ花粉の飛散は目の前だ
どないしょ。

近所のスーパーもドラッグストアも、すんません入荷未定ですねん。
コンビニの兄ちゃんは、めっちゃ早朝でないと売り切れます。
冷たいなあ、どないすんねん。

しゃあない。作るしかないな。
使い捨て時代にどっぷりつかっていてはいけない。
私は曲がりなりにも使い捨て時代を考える会の幽霊メンバーだ。

家には医療用のガーゼがある。
ちょっと弱いなあ。
それで思い出した、ガーゼのタオル。
子どもが生まれたときにお祝いでもらった!
物持ちええなあ。かしこい!

花柄の二重ガーゼ。

夫「おれ、花の少ないとこな」

二重を更に二重にするか、三重にするかで議論が始まる。

夫「三重にしたら息でけへんのとちやうか」

ふたりで、二重にしたり、三重にしたり、四重にしたりして試験する。

夫「けど、ちょっと大きいで」
私「切るねんけど・・・」

顔全部覆ってどうする?
息でけへんって、目、見えへんやん。

夫「ギャザー入れるんやな?」
私「えっ!」

夫「鼻のとこ、針金やったらケガするで」
私「えっ!」

もう自分で自分の分作ることにしよ!

夫「今日の共同購入で頼んどいたマスク、当たるかもしれんで」

どうか当たりますように~~~!

続・続キャパシティの発見✨

一昨日のブログで書いた、私にとって環境の限界を超えさせてくれた本の一冊が、これ。
『クマのプーさん プー横丁にたった家』A・A・ミルン作/石井桃子訳/岩波書店刊
初版が1962年で、私が買ってもらったのは1963年。
長い人生で何度も何度も読みました。
プーと子ブタから、人生には友情と真剣さとユーモアが要るって、教わった。

さてさて
『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告の続き。

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第1章 子どもに本を手渡すこと
その3 キャパシティの発見

この項はリリアン・H・スミスの『児童文学論』の書評でしたね。
今日紹介するのは、「児童文学論の歴史」のところ。

児童文学の最初に登場するのは口承文学です。
昔話や童歌が、今も昔も子どもにとっての基本的な文学だといいます。

次に来るのが、『ロビンソン・クルーソー』『がリヴァー旅行記』などの大人の文学を、子どもが自分たちのものにした時代。

19世紀に、子どものための本屋ニューベリーの登場。
グリム、アンデルセン。そして『不思議の国のアリス』・・・

20世紀の多様性を、スミスは次のように要約します。
(写真を張り付けるね)

こうした歴史から生き残った傑作にはりっぱな文学尺度があると、古典を読むことの重要性が書かれています。

みんな、古くさいとか、めんどくさいとか、重いとか言わないで、読んでみようね~

続キャパシティの発見✨

え?
なんだか真面目~って?
はい、ヤンは真面目人間ですよ(笑)

新型コロナ騒ぎで、なにかに集中しないと、落ち着かないのよ。
お話の練習も、おしりに火がつかないとね・・・

で、きのうの続き(笑)
『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上・下』(福音館書店)を読んで。

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第1章 子どもに本を手わたすこと
その3 キャパシティの発見 1959年発表
ーリリアン・H・スミスの児童文学論『たゆまぬ年々』にふれてー

この項の途中までだったのね。そのつづき。

瀬田先生は、スミス『児童文学論』(岩波書店)の1~3章を翻訳しています。
その第1章 児童文学の中心点 のポイント。
子どもが本を読むキーは、おもしろさにある。
おもしろさとは、子どもがそれによって眼をひらくこと、一つの体験をすることだといいます。

スミス氏の言葉によれば、
「子どもの人生経験は、どうしてもその環境のせまい限界に限られている。そこで、子どもたちが求めるのは、そんな限界をさっさとのりこえていく道なのだ」と。

うん、わかる。
幸運にも私の小さな本箱には、子どもの頃のそんな本が何冊か並んでいる。
戦後日本に暮らす裕福でない家庭の、小さな女の子だったわたしは、家や学校での退屈とか悔しさとか孤独とかに打ち勝つために、本が必要だった。
わたしという限界を軽くのりこえて、本の世界に没頭したぞ。

そこにあったのは、私だけの世界。

でね、瀬田先生が言うには、子どものキャパシティがわからない大人が多いからだめだって。

ここまで読んで、表題の「キャパシティ」の意味が分かった。
つまり、子どものキャパシティ
受容力。受け入れる能力。

はい、感動的な引用。

大人が子どもにはその思想がむずかしかろうと考えたり、ニュアンスがわかるまいと考えたりするのは、子どものキャパシティがわからないのである。
子どもたちのひたすらに成長へむかう確かな本能は、読書のさいに永続するものや積極的な価値のあるものを、かならずちゃんと残していく。
その保持力は大人よりずっと信用できる。
それだのに、甘ったるくし、低め、薄めようとする大人の卑俗な根性。

きょうは、ここまで((´∀`))

 

キャパシティの発見 リリアン・H・スミスの児童文学論👩‍🎓

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上・下』(福音館書店)を読んで。きのうの続き。

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第1章 子どもに本を手わたすこと
その3 キャパシティの発見 1959年発表
ーリリアン・H・スミスの児童文学論『たゆまぬ年々』にふれてー

子どもの本が出版されてからの2世紀あまりの間、子どもたちに良い本を選び、選ぶことでよい本を作り出してきたのは、誰だと思いますか?

それは図書館員だったのです!

いまから61年前に、瀬田先生は、日本の児童書の出版について、質が低くより早い生産を競っていると、批判しています。これは、日本だけでなくヨーロッパでも似たようなものだったみたいです。

そんななかで、リリアン・H・スミスが『たゆまぬ年々』1953年を発表しました。
あの『児童文学論』(岩波書店)です。数年前に文庫化されましたね。

この本について評論するにあたり、瀬田先生は、カナダの児童図書館員だったスミスについて、また、彼女が登場するまでの児童図書館の歴史を書いています。
興味深いです。
図書館員が、どれほど子どもの本に情熱を抱き、出版界を牽引したかがよくわかります。

また、この本について、こんなふうに書いています。
引用します。

・・・子どもという読者の内面世界を徹底的に理解し、その子どもたちが「専ら好んで読む文学」として文学の一分野を成り立たせてきた児童文学の文学的質をみごとに分析して、子どもと文学とに楽しくも実りゆたかな橋をかけ渡した、まれにみる好著の一つである。

次回は、この項の続きを読みますね~

わたしたちババ・ヤガーでは、2年かけて「『児童文学』を読む会」を行いました。
結局、自分たちが、あまりにも子どもの本を読んでこなかったことを実感させられました。
ねえ、今度は各自で、よみましょ!

世界の児童文学みちしるべ🏕

 

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上・下』(福音館書店刊)を読んで、報告の続きです。

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第1章 子どもに本を手わたすこと
その2 世界の児童文学みちしるべ 1960年発表
-マスコミ下の子どもによい文学をー

子どもが子どもとして扱われなかった時代、つまり児童文学がなかった時代にも、子どもは物語を楽しもうとしていました。
『水滸伝』『ドン・キホーテ』『天路歴程』『ロビンソン・クルーソー』『ガリヴァー旅行記』
大人の文学を子どもが自分たちのものにしてしまったと、筆者は言います。

最初に子どものための本が作られ売られたのは、ロンドン。
その本屋は、ジョン・ニューベリー。

その後歴史を経て、ディケンズやアンデルセンやグリムが登場します。

そして19世紀後半、子どものための文学がいっせいに花開きます。
写真で張り付けますね。みなさん、読んだことありますか?なければ、ぜひ読みましょうね。

20世紀に入って、ますます広がっていきます。

いいリストですね~
ぜひ読んで、子どもたちにも勧めようね~

ここまでが児童文学の歴史的な流れです。

現代は、子どもの発達段階に沿った本を、と考えるようになっているそうです。

小学校にいはいるまで:絵本で表現される物語や昔話
小学1,2年生:もう少し複雑な昔話や童話
小学3,4年生:神話伝説や空想物語(ファンタジー)
小学5,6年生:日常生活の小説やロマンス
中学生:それプラス、伝記や科学読み物

ふうむ。なるほどね。
小学校でのお話会、絵本の読み聞かせが中心になっていいものかどうか。
この文章が書かれてから60年たつから、絵本も進化はしているだろうけれどね。
高学年に読む絵本がないっていう悩み、当然ですね。

最後に、感動的な引用をします。

すぐれた本を読むことによって、子どもの子どもらしさが保たれ、はぐぐまれ、伸ばされる安定錨(いかり)の役目は、時代に比例していよいよ大きくなります。
眼に見えるような具体的な描写による論理や情感の整理、愛しあう者のグループの結びあう力、動物への同情と愛、眼に見えないもののうしろにある真実を洞察し共感する力、空想の楽しみ、値打のあることはゆずらずたゆまず貫く精神、美しさの好みというもの・・・・こういう種々な価値が、すぐれた児童文学には理屈ぬきで端的に示され、子どもたちはおもしろさにつられて読みすすむうちに、意識するしないにかかわらず、心地よさ、安らぎの形で、それらを心の奥深くに落ち着けていくのです。