「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

白雪姫👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章白雪姫

「七羽のからす」とおなじように「白雪姫」も若い娘の話です。
ただ、「七羽のからす」の主人公は、兄さんたちを救済しますが、「白雪姫」は主人公自身が救済を必要としています。
自分のせいで兄さんたちに破滅をもたらし、そのために助けに出かけ、長い苦しみののちに、ついに兄さんたちを救い出す妹。
それに対して、白雪姫は、ただただ迫害され苦しむ者で、はるかに単純な人物です。

受け身の主人公、白雪姫。
でもね、グリム童話の中で「白雪姫」が一番人気なんだって。少なくともドイツでは。
白雪姫は、あらゆる昔話の主人公のうちで特に明るく輝いているんだって。
その理由はどこにあるのか、探るだけの値打ちあり。
類話がめっちゃたくさんあるので、その比較もしていきます。

ところで、七版の「白雪姫」、読みましたか?
まだの人は急いで読んでね。
きょうは、初版を紹介するからね。七版とどんだけ違っているか~!

グリム兄弟は、「白雪姫」をカッセルのジャネット・ハッセンプフルークさんから聞きました。
長いけど、引用するね。

++初版白雪姫++++++++

冬のことであった。空から雪が降っていた。
王女が黒檀の窓のそばに座って縫物をしていた。
王女は子どもが欲しくてたまらなかった。そんなことを考えていたものだから、おうじょはうっかり針で指を刺してしまった。そのために血が三滴雪の中へ落ちた。
その時、女王は願いを口にした。
「雪のように白く、血のように頬の赤い、窓枠のように目の黒い子が欲しい」
まもなく、女王はこの世のものとは思えないほど美しい女の子を生んだ。その子は、雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒かった。それで、白雪姫と呼ばれた。
女王は国じゅうで一番きれいな人だった。けれども白雪姫のほうがそれより十万倍もきれいだった。
女王が、鏡に向かって、
「鏡よ、壁の鏡よ。
イギリスじゅうで一番きれいな人は誰?」ときいたとき、鏡はこう答えた。
「女王様が一番きれいです。でも、白雪姫のほうが十万倍もきれいです」
これを聞くと、女王は白雪姫にがまんがならなくなった。
あるとき、国王が戦にでかけて留守になると、女王は馬車に馬をつながせ、大きな暗い森へ行くように言いつけた。白雪姫も馬車に乗せた。
森にはきれいな赤いバラがたくさん咲いていた。王女は森に着くと、白雪姫に、
「あのね、きれいなバラを2,3本折ってくれない?」といった。
白雪姫が馬車から下りたとたん、王女は馬車を全速力で走らせた。白雪姫を森の獣に食わせてしまおうと思ったからだ。
白雪姫は、大きな森の中でひとりぼっちになってしまったので、ひどく泣いた。
先へ先へ歩いて行って、足が疲れたころ、小さい小屋の前に出た。小屋には七人の小人が住んでいたがちょうど留守で鉱山へ行っていた。
白雪姫が中に入ると、机があって、机の上には、皿が七枚、さじが七本、フォークが七本、ナイフが七本、コップが七個置いてあった。それから部屋には小さいベッドが七つあった。
白雪姫は、それぞれの皿から野菜とパンを少しずつ食べ、それぞれのコップからぶどう酒を一口ずつ飲んだ。
疲れたのでベッドを試してみて、最後のベッドがぴったりだったので、そのままそこに寝てしまった。

++++++++++

とりあえずここまでね。
グリム兄弟は、初版から少しずつ改訂していって最後は七版まで手を加えたんだけど、白雪姫の初版はこんなだったんですね。
どこが違いましたか?

次回は、どこがどう違うか、なぜ違うんだろうかと考えていきます(╹ڡ╹ )

 

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏9👩👩👩👩👩👩👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏 さあて、今日で終わるか!?

多くの学問が昔話を研究しています。
心理学もそのひとつ。とくに、ユング派の心理学的人類学が、集中してやっているそうです。
そこでは「七羽のからす」をどのように解釈しているのでしょうか。

まず、ユング心理学的人類学では、昔話は心の中の出来事を描いていると考えます。人間の無意識内での過程が表現されていて、それが昔話の魅力だというのです。
では、「七羽のからす」の無意識云々はどう説明されているのか。
兄さんたちがからすに変身させられますね。これは、動物段階への退行で、人間がより大きな無意識状態へ逆戻りすることをあらわすと考えるそうです。そして、そこから出てきたとき、人間はより成熟した完成した人格へと進んでいると考えます。
つまり、兄さんたちは、からすに変えられそして救い出された後では、以前とは違った存在になっているのです。
兄を救った妹は、意識と無意識の仲介者の役割を演じているというのです。

リュティさんはこれに反論します。
昔話が心の中の出来事を生き生きと描いたものであるということは、そのとおり。自分自身との対決は、人間存在の特質だからです。
動物への変身を無意識への後退とする解釈にも一理ある。が、「七羽のからす」のラストで、兄たちは何の成長も成熟も遂げていないではないか。一段高い境地に達したとはどこにも書いていない。せっかく無意識状態へ降りて行って出てきたのにね。これはどういうこと?
ユング派では、兄さんたちが複数(七人)であるというのは、人として完成していない、未成熟のしるしだと説明します。けれども、呪いが解けたとき、兄さんたちは、やはり七人です。あれれ?成熟はどこへ行った?
それから、妹が指を切ること、これは、妹があの世の暗い力と密かに結託していたんだけど、それを断ち切る意味があるんだと解釈します。リュティさんは、ここまでくるともう勝手気ままというよりほかないといいます。

結局、心理学による象徴的解釈は、相当大胆で、当たっているかもしれないけど決して確実とはいえないと、リュティさんは言います。

リュティさんは、文化人類学の研究も紹介します。
文化人類学では、昔話のモティーフを、古代の儀式と結びつけて考えます。
古代に、成人式で歯を折ったり小指を切り落とすという儀式があって、妹がガラスの山で指を切ることと結びつけています。「子どもっぽいあり方を捨て、子どもの自我意識を抑制すること」だと解釈されるのです。
ううむ。なんでそうなる?おもしろいけど、行き過ぎとちがうん???

では、昔話はどのように解釈するべきか、リュティさんはいいます。
わたしたちは、話から直接読み取れることだけを拠り所にする。
これは、分りやすいですね。

じゃあ、直接読み取れることって何かといえば、(以下引用)
人間的な失敗に基づく災いにみちた運命と、その運命は耐え忍ぶけなげな愛の献身によってでしか福に転じ得ないということである。それが写実的に描かれないで、聞く人の心から消えることのないほど鮮やかな姿をした人物によって描かれている、という点が独特であり、昔話の長所である。

人間的な失敗っていうのは、お父さんの呪いですね。妹がひな鳥の骨をなくしたこともそうですね。

呪いを掛けるお父さんは、ほんの脇役にすぎません。
お兄さんがからすになったきっかけを作ったのは、妹自身です。
妹は、みずからの意思ではないにせよ兄の不幸のもとになった。その同じ人物が兄を救う。
この話は、あらゆる象徴表現を越えて、きょうだい(兄妹)愛の賛歌なのです

最後に感動的なリュティさんの引用
耐え忍ぶ、行動的な、不屈の愛が妹に自分自身の仕合せや生活を捨てる決心をさせ、中傷や誤解をものともしない力を得させたのであるが、この愛がこの話を聞く無数の人たちにとって力強い導きの星となった。

なるほどね。だからこどもたち、あんなにシーンと聴くんやね( •̀ .̫ •́ )✧

はい、おしまい。
終わったあ!
長いお付き合いありがとうございましたあ。
はい、次回から「白雪姫」
また長引きそうや(笑)
みなさん、「白雪姫」やったら知ってるわって?
そうおっしゃらずに、グリム完訳で読んでおいてください、宿題よ~

 

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏8👩👩👩👩👩👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏 あともう少し(●’◡’●)

グリム童話「七羽のからす」にもどります。

妹が、ガラスの山に到着したけれど、お星さまからもらった山の鍵をなくしてしまったことに気付く場面。7版では、こう書かれています。
「どうすればいいでしょう。兄さんたちを救い出したいと思っても、鍵がなければガラスの山は開けられません。けなげな妹は、ナイフを取り出し、小さな指を一本切り落として戸に差し込みました。すると、戸はすぐに開きました。」

リュティさんはこの場面について、もとは苦痛に満ちた犠牲的行為だったろうが、軽々とした昇華する語り口によって、やすやすと行われているといいます。

軽々とした昇華する語り口。
これは、いささかのためらいもなく、心の葛藤もなく、迷いもなければ、自分自身との戦いもない、苦痛の叫びもなければ、血すら一滴も流れていない。体に切り傷は生じていないことを指します。
昔話のこの叙述法は、《昔話の語法》の「平面性>図形的に語る・外的刺激・周囲の世界」で確認しましょう。
「七羽のからす」の初版では、「けなげな妹」ですらなく、たんに「妹」になっています。

この場面は、聞き手の子どもたちが、はっと身を固くするところです。
子どもたちの中に生まれる思いがどのようなものか、昔話はそれに介入することがありません。事実だけを述べて、思いは聞き手の中にあるのです。そこに昔話の価値があります。

よく似た場面を持つモティーフを見ます。

「白い狼」ベヒシュタイン
ガラスの山へ向かう娘は、途中で出会った、山姥、風、太陽、月から、にわとりのスープを飲ませてもらい、そのつどにわとりの骨を一本もらう。
ガラスの山に到着するが、つるつる滑って登れない。
娘は、にわとりの骨を取り出し、つないでハシゴにして登ろうとするが、最後の一段分が足りない。
娘は、小指を切り落としてつなぎ、ガラスの山のてっぺんまで登ることができる。
ここでも娘はちゅうちょなく指を切り落とします。

つぎは、グリム自身による「七羽のからす」の注。ガラスの山に関わるハーナウの昔話です。
お姫さまが魔法でガラスの山に閉じ込められる。
お姫さまを救えるのは、ガラスの山を登ることのできるものだけである。
若い職人が料理屋でにわとりの料理を食べ、その骨を全部集めてガラスの山に行く。
にわとりの骨をガラスの山の山肌にさして登っていくが、あと一本足りない。
若者は、自分の小指を入り落として山にさして、登り切った。
ここでも、犠牲的行為は、当たり前のこととしてやすやすと行われます。

なるほど~
ガラスの山ー骨ー小指
っていうのは、よくあるモティーフなんやね。

で、ガラスの山について。
ハーナウの話の、お姫さまの閉じ込められているガラスの山は、魔法の輝きが残っているけれど、「七羽のからす」はそれさえありません。魔法とは何のかかわりもない、単なる文体上の要素に過ぎない。
けれども、ひたすら透明です。昔話自体が、描写なしの透明な文体ですね。その文体に、透明なガラスの山はとてもマッチするというのです。

重い運命的な事件や心の中の出来事が、昔話では透明な形象(=すがた。イメージ)となって、聞き手の心にやすやすと入っていく。聞き手はそういう形象を通して人類のさまざまな経験を受け入れるのである。

いかがですか?
子どもたちがギクッとするとき、とっても大切なものが流れ込んでるんですね。
語り手が、そのことをよく理解して語ると、聞き手に伝わる。
もし子どもの経験が少ないためにその時は理解できなくても、忘れられない重要な場面となって伝わる。そして、いつか、真実に気づく。
ヤンは、それこそが、子ども(人間)を育てるということ、だと思うのですよ。

はい、おしまい。

次回は、心理学的な解釈への批判です。

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昨日は《昔話雑学》を更新しました。
昔話に登場する狼のキャラクターについて、書いてます。
みてね~~(❤´艸`❤)

 

昔話の解釈ー七羽の烏7👩👩👩👩👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏
いつまでつづく七羽の烏(@^0^)

前回は「七羽のからす」の類話群(代表的なのがグリム「12人兄弟」)の、最後の場面、声の出せない妹が、兄さんたちの着物を編み続け、火あぶりにされる場面での、昔話の簡潔な文体について考えました。
きょうは、まず、同じ場面について、とっても昔話らしい性質のことを書きますね。
青字はリュティさんの文章からの引用ね。

救済は最後のぎりぎりの瞬間になってはじめて成し遂げられる。
薪の山に火がつけられた瞬間に白鳥たちが飛んでくる。
その瞬間に、着物が編みあがる。
その瞬間に約束の6年が終わる。
これが、昔話の奇跡なのです。
現実的にはあり得ないことが有無を言わさず当然のこととして起こるのが昔話なのです。なんでやねん!って突っ込んだらあかんのです。
問「なんでやねん!」
答「昔話やからや」
そして、このぎりぎりってのを昔話はとっても好みます。
非常に正確に、大変高い完成度において、成し遂げられます。

いっぽう、最後の片袖だけが出来上がらなかったので、ひとりの兄さんだけは片腕が羽のままだっていう笑えるパターンもあります。ほんま、ぎりぎりですね(笑)
これは、完全性の中の不完全。
昔話は完全であることを好むんだけど、ひとつだけは除外されるっていうのも好きなのです。
知ってる昔話の中に探してごらん。きっとあるから。

えっと、それから、です。
最終、王の悪い母親は、火あぶりにされます。
リュティさんは、こういいます。
悪はわれとわが身を滅ぼし、自分自身の刀で切られる。

ヤンはこれを残酷だとは思いません。
罰の重みは罪の重みに比例します。
そうであってほしいと思います。現実は、そうでないことの方が多いから。
現実の世の中で、私たちは、どれほど、理不尽な事のために悔しい思いをする事でしょう。
せめて、人生を示す昔話のなかでは、悪は悪として罰せられてほしい。

ああ~、きょうも終わらなかった。
次回こそ、ガラス山の鍵をなくした妹が指を切るところ、やりますね。

はい、おしまいヾ(^▽^*)))

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏6👩👩👩👩👩👩

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第1章七羽の烏

なかなか進まへんねえ(笑)
ちょっと急ぎの仕事が入ってね。やっと今日送り出したから、次の仕事の締め切りまでにがんばらなくてはヾ(•ω•`)o

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グリム童話KHM49「六羽の白鳥」とアンデルセンの「野の白鳥」と、口承資料にある類話の三つを比較しています。
口承資料は、スウェーデン生まれでホルシュタイン地方に暮らした74歳になるベント夫人というかたの語りです。リュティさんは、部分的に引用してるだけなので、全文が読みたい。でも、翻訳されたものはどんなに探しても見つからなかったです。残念!

ラストの呪いが解ける直前の場面です。

ベント夫人
王妃は編みに編んだ。荷車の上に乗せられ、その車に罪人用のろばがつけられたときも編んでいたし、車が動き出した時もなお編んでいた。王妃はシャツを全部たずさえていた。町の外れで王妃は焼き殺されることになっていた。そこへ行く途中も王妃は残った袖を編み続けていた。

アンデルセン「野の白鳥」
みすぼらしい馬が王妃の乗った車を引いていた。王妃は粗い麻布の上っ張りを着せられていた。その長いみごとな髪はバラバラになって美しい顔の回りに垂れていた。ほおは死人のように真っ青で、唇がかすかに動いていた。でも指は緑の糸を編み続けていた。死に赴く道すがらも王妃は、手を着けた仕事をやめはしなかった。十枚のチョッキが足もとに置いてあった。今は十一枚目のチョッキを編んでいるところだった。

アンデルセンはかなり書き込んでいますね。
これを、リュティさんは、詳しい描写が、なんと押しつけがましく、弱々しく聞こえることかと言っています。ベント夫人の簡潔で力強い語り口に対して、この大作家(アンデルセン)の言葉がなんとうつろに響くことかと言います。
ベント夫人の語りは、妹の心の苦しみ、自分自身との闘い、疑いと惑いについては一言も触れていないけれど、「編む」という言葉の積み重ねの中に、耐えがたいほどに高められる内面的緊張が表れています。
昔話では、基本動詞を使って行動をあらわす。そして、その行動に内面があらわれるのです。

つぎは、いよいよ火あぶりにされる場面です。

ベント夫人
お妃は一言も口をきかないで、編み続け、とうとう袖を仕上げた。ちょうどそのとき薪に火がつけられた。すると11羽の白鳥がお妃の周りに下りてきて、お妃の膝の上にとまったように見えた。「妹や、さあ、お話し」と、白鳥たちが言った。

グリム「六羽の白鳥」
薪の山の上に立たされ、いよいよ火がつけられるその時、お妃は空を見上げました。すると、六羽の白鳥がこちらへ飛んでくるのが見えました。お妃の心は喜びでいっぱいになり、「ああ、神さま、これで苦しい時が終わりますように」と、心の中でいいました。

グリムでは、妹の内面描写があります。
ベント夫人は、兄たちが助けに飛んでくるときの妹の喜びは語っていません。事柄だけを述べています。
リュティさんは、この場面のグリムの語りを文飾だと批判しています。昔話的でないのです。

とまあこんな感じで、昔話の再話って難しいですね。

次回は、「七羽の烏」にもどって、妹が指を切る場面を考えます。

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今週は日本の昔話を更新しましたよ~

秋の贈り物、おすそわけ~

もひとつ

ふふふ、もうひとつ

ありがと~~~