「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

昔話の解釈ー賢いグレーテル2👩‍🍳

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。

第5章 賢いグレーテル

グリム童話、読みましたか?または、おはなしひろばの「かしこいグレーテル」聞きましたか?
はい、では、このお話について、リュティさんの説を読みましょう。

「賢いグレーテル」の話は、頭の働きと飲み食いの喜びが見事に組み合わされています。

特に前半。グレーテルは、飲み食いの喜び(動物的欲望)のために、つぎからつぎへと頭をフル回転させます。
これを今食べなかったら罰が当たるって、いいなあ。
手羽をひとつ食べる時の言い訳、焦げてる。
ひとつ食べたら、もう一方の手羽。足りないことに気付くかもしれない。
一羽を食べたらもう一羽。対になってるから。

グレーテルは、安らかな気持ちでごちそうを平らげるために、精いっぱい頭を働かせているのです。
口が命令を下し、頭が命令を受けている。

ところが、後半になると、今度は罰を逃れることが、知的な楽しみとなります。
頭が素晴らしい働きを見せる。

活発な頭の働きを読んだり聞いたりする喜びは、笑い話が読み手や聞き手に与えるもう一つの満足よりはるかに重要である。

だから、この話は、活発な頭の働きを存分に楽しめるように語らないといけないのね。もちろん、飲み食いの喜びとセットだけどね。
これはもう、スピード感と間(ま)にかかっているといっても過言ではない。
ちんたらやっている場合やない(失礼!)

と、ここで、リュティさんは「もう一つの満足」といっていますね。
それは何でしょう。
下の者が上の者を負かしたり、弱いものが強いものに勝つのを眺める楽しみです。
社会的に低い女中が、身分の高い旦那やお客に勝つ。
これは、女の男に対する勝利です。
だいたい、人間は、自身が欠如体として世の中を生きていかねばならぬ存在であるから、弱いものが強いものに勝つのをながめることは、心からの満足を与えると、リュティさんは言います。

なるほど。
でも、それにもかかわらず、機敏な頭の働きに対する喜びのほうが、主になっていて、重要なのです。

はい、ここまで(●’◡’●)

次回は、グリム童話の幸せハンスについて。
読んでおいてくださいね~

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金曜日のおはなしひろばは、日本の昔話「きつねとたぬき」。
笑い話です。
『語りの森昔話集4おもちホイコラショ』に載ってますよ~

 

 

昔話の解釈ー賢いグレーテル👩‍🍳

笑い話はお好きですか?
わたしは大好きです。
きくのも大好きだし、語るのも大好き。
第5章は、笑い話についてですo(〃^▽^〃)o

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。
第5章ー賢いグレーテル

グリム兄弟は、昔話集の中に、愉快な笑い話をいくつかはさみこんでいます。
たとえば。
KHM20勇敢な仕立て屋
KHM30しらみとのみ
KHM32賢いハンス
KHM34賢いエルゼ
KHM35天国の仕立て屋
KHM59フリーダーとカーターリースヒェン
KHM61小百姓
KHM77賢いグレーテル
KHM83しあわせハンス
KHM94賢い百姓娘
KHM103おいしいおかゆ
などなど。

わたしは、「賢いグレーテル」と「しあわせハンス」と「おいしいおかゆ」を語ります。いつか語りたいなあと思っているのは「勇敢な仕立て屋」「賢い百姓娘」。グリムじゃなくて類話でもいいな。

それで、です。

笑い話で取り上げられるのは、頭の働きと動物的快楽のふたつ。
動物的快楽というのは、早い話が、飲み食いのことね。
頭の働きは両極端があって、めっちゃ賢いか、めっちゃ愚か
「賢いグレーテル」「賢い百姓娘」は、ほんとうに賢くて抜け目がなくて、想像力に富んでいるのだが、「賢いエルゼ」「フリーダーとカーターリースヒェン」「賢いハンス」は、愚かなので、話の聞き手や読者はくすくす笑いながら自己の優越性を楽しむことができると、リュティさんは言います。

「賢いグレーテル」では、このふたつ、頓智と動物的快楽が、みごとに結び合わされています。
次回から、「賢いグレーテル」を詳しく見ます。
たいていのグリム童話集に載っているので、読んでおいてくださいね。
おはなしひろばで聞いておいてくださってもいいです。こちら⇒

 

 

 

昔話の解釈ー死人の恩返し7💀

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第4章「死人の恩返し」最後だよ~

リュティさんは、「死人の恩返し」の類話として、旧約聖書外典の「トビト書」を取り上げています。

「トビト書」は、紀元前150年に書かれたものだそうです。
ひえ~、今から2170年以上前だよ~

『昔話の解釈』では、旧約聖書外典「トビト書」と訳されていますが、これはユダヤ教での呼び方。カトリックでは旧約聖書続編「トビト記」です。ちなみにプロテスタントでは聖書としてではなく文学として扱われているようです。
えっと、当然、ユダヤ教がいちばん古いですね~

昔話と比較します。

敬虔なトビトは、アッシリアの暴政のもとで殺された同族のユダヤ人をひそかに葬ります。そのお礼として、神が、トビトの息子トビアに、大天使ラファエルを人間の姿に変えて旅の道連れとして送ります。一世代ずれてますね。

トビアが旅に出るきっかけは、かつてトビトがいとこに預けたお金を取りに行くことです。
スイスの類話では父親が貸した利子の取り立てでしたね。
イタリアの類話では父親の遺産を増やす、つまり投資でした。
似てますね。
アンデルセンと、スイスの類話では借金を踏み倒した死人を助け、ノルウェーの「旅の仲間」では、ワインを薄めた死人を助ける。
やっぱりお金が関わっています。

トビアが結婚することになる娘は、悪霊に取りつかれています。これまで7人の求婚者が悪霊に取り殺されているのです。それをラファエルが救い出す。
ノルウェー「旅の仲間」では娘はトロルに呪われていました。
この話型では、後半のテーマが娘の魂の救済でしたね。
同じです。

旅の終わりに、ラファエルは本当の姿を現します。
ノルウェー「旅の仲間」でも、援助者が、実は私はあなたに葬ってもらった死人だと、正体を明かしますね。
しかも、どちらも、財産の半分をお礼に渡そうとするが援助者は一円ももらわないで去っていく。
わ~、同じだ。

リュティさんは、個々の細部まで何とよく似ていることかといいます。しかも、驚くべきことに、リュティさんは、旧約聖書外典の話は昔話を作り変えたものだといいます。つまり、昔話のほうが古いって!

そう考えるポイントは、登場人物の関係にあります。
トビトが助けるのは見知らぬ死人ではなく同族の者です。援助者は同族の者の姿で現れます。その援助者は特定の信仰体系の中にはっきりと位置付けられた大天使です。
つまり、あらゆることが民族の結合と家族の結合の中に組み込まれているのです。
昔話はもっとシンプルで、登場人物相互のあいだは、固定した永続的関係は存在しないというのが、昔話です。こちら⇒《昔話の語法》
それを宗教の中で関係づけているということです。同族とか天使とか。
ほら、昔話をある土地の出来事として伝説化するのと同じ、っていったらちょっと乱暴かな。でも、そんな感じですね。
つまり、シンプルで普遍的な昔話のストーリーを宗教の中に取り込んだという説です。このやりかたって、仏教説話にもありますね。

トビト書は死んでいる援助者の昔話が西暦紀元より数百年も前にすでにそんざいしていたことを、証している。この昔話は今もなお生きている、というのは、神秘的な登場人物を通して人間の魂が陥る危険と救済の可能性を反映しているからである。

はい、おしまい。

つぎからは、第5章「賢いグレーテル、仕合せハンス、賢いエルゼ」です(ง •_•)ง

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きのうのはなしひろばは、「かしこいグレーテル」
わたしにとっては、因縁の「賢いグレーテル」です(笑)
あ、大好きな話よ~

 

 

昔話の解釈ー死人の恩返し6💀

今日の京都府南部は風が強い。
洗濯物がはたはたと飛んでいきそう(ToT)/~~~

新型コロナ
地震
大雪・大雨・熱署

世の中が恐怖と不安でひっくり返ってるときに、希望のかたまりであるはずの五輪で、いったいなにがどないなってんねん。

さておき、昔話に人間の生きる知恵を見つけよう。

最近、ブログがめっちゃまじめやねんな。
膝が痛いので乗って行った自転車をスーパーに忘れて、重い荷物をぶら下げて帰ったこととか、書く気になれへんねんな。
「薬飲んだか?」が唯一の会話になりかけてる老夫婦の話とか。

六年生男子に呼び止められて、「おはなし会楽しみやったのに」と何度も訴えられたこととか。修学旅行も運動会もまともに無くて、それでもおはなし会が楽しみやった、なくて残念やったと言ってくれる子ども。ありがとうね。

さてさて、昔話に生きる知恵を見つけよう。
マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第4章「死人の恩返し」つづき

死人の恩返しの類話は死人が助けられる前半と、死人に助けられる後半に分かれていましたね。
今日は、その後半のテーマが「救済」であることについて。
援助者である死人が、主人公に代わって(あるいは、主人公とともに)お姫さまを救い出します。主人公はそのお姫さまと結婚して幸せになるのね。

ノルウェーの昔話「旅の仲間」では、お姫さまは、自分自身から、取りついている悪霊から、解放されなくてはなりません。
お姫さまはトロルの呪いに取りつかれていますね。死人はそれを見破り、トロルの首をはねます。
でもそれだけではまだ救済にはならなくて、主人公はお姫さまの体にくっついているトロルの皮をはぎ、お姫さまの体をむちで打ち、ミルクで湯あみさせます。
この過程は、魂の浄化の過程です。浄化されるという心理的真実が、目に見える形であらわされているんですね。
昔話は、心の真実をストーリーやモティーフであらわします。
登場人物の行為は残酷に見えるかもしれないけれど、人の心の救済という重い真実に比べれば、バランスがとれていると思います。

類話によっては、お姫さまの体の中に巣食っている蛇から解放しなくてはならない話もあります。

おーい、お偉いさんがたに巣食っている女性蔑視という蛇も退治してやれよ~
(失礼(ಥ _ ಥ))

はい、ここまで。
つぎは、旧約聖書外典の「トビト書」と昔話の関係についてです。

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今週はHP更新《外国の昔話》
イタリアの古~い昔話「ペトロシネッラ」
語ってくださいね~
「ラプンツェル」と読み比べるとおもしろいよ~

 

 

 

昔話の解釈ー死人の恩返し5💀

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第4章「死人の恩返し」

ちょっと間が空いてしまった。
みなさん「死人の恩返し」の内容、覚えてますか~?
忘れた人は「旅の仲間」を見直してください。こちら⇒《外国の昔話》

「死人の恩返し」の話は二つの部分に分かれています。
前半:ひどい目に遭っている死体を買い受ける話。
後半:感謝する死者の助けによって、主人公が王さまの娘を妻にする話。

以前に紹介したスイスの話では、主人公は後半で死の危険を乗り越えなくてはなりません。これには彼岸の援助者がぴったり合うと、リュティさんは言います。そして、死人がうさぎになって出てきますが、他の類話では、きつねになって出てくる例もいくつかあるそうです。動物のすがたは、援助者も救済を必要としていることを示していると言います。
うさぎは、主人公を助けた後、「わたしはうさぎになって罪を償わなければなりませんでしたが、でも今はもう救われました」といって消えていきます。

このことから、「死人の恩返し」という話は、相互救済の話だといえます。
主人公は援助者を必要とするが、援助者もまた主人公を必要とする。両者は互いに相手を頼りにしている。どちらもひとりでは自分を救うことができない。

相互救済は、「死人の恩返し」に限らず、昔話にはたびたび出てくるとリュティさんは言います。
そこで思い出すのが、グリム童話の「金の鳥」。きつねが懲りずに主人公を助けるすがたに、愛を感じますが、きつねもまた救済が必要だったんですね。

ここには人間の実際の姿が映されている、と言っても言い過ぎではあるまい。

深いなあo(*°▽°*)o