「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

昔話の解釈ー金の毛が三本ある悪魔3👿

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第3章 「金の毛が三本ある悪魔」つづき

「白雪姫」と「金の毛が三本ある悪魔」の共通テーマ、分かりましたか?
死の危険に陥った者だけが、死の現実を知った者だけが、人間として完成することができる。でしたね。
これは、「白雪姫」では、よいことが悪いことになる、逆に、悪いことがよいことになるという倒錯の連鎖によって描かれているのでした。では、「三本の金髪をもった悪魔」ではどうでしょうか?

主人公は、ウリヤの手紙をきっかけとするモティーフのみならず、もともとの最初から、死の手にゆだねられています。

王さまは、男の子を買い取ると箱に入れて川に流すのです。もちろん、殺すためです。
ところが、死の川は、箱を命の岸へと運びます。箱は、棺にはなりませんでした。箱が開かれたとき、男の子は、生きていたばかりか、元気だったのです。
はい、倒錯です。
悪い意図が善い結果を招いています。

この男の子発見の場面を類話比較します。
グリム童話:元気いっぱいだった。
ホルシュタイン地方の類話1:みんなが箱を開けると、中に男の子がいて、笑っていた。
ホルシュタイン地方の類話2:箱の中には生きた男の赤ん坊が入っていて、顔じゅうで笑っていた。そして手足をばたばたやっていた。
ロシアの類話:(男の子を雪の原に捨てます。)子どもの回りには草が生え、花が咲いていた。それなのにほかは雪がひざまであった。ふたりは不思議に思って行った。「これは尊い子どもだ」

ね、グリム童話では、子どもは川に流されたけど死ななかった、元気だったというだけだけれど、ほかの類話を見ると、箱が明けられたとき復活したんですね。復活、再生のイメージです。

ここんとこ、けっこうさらっと語ってたんだけど、そうだったんだ!
奇跡の子だった!

次回はシェークスピアとの比較です。

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グリム童話のテキストについて。
昔話を知るために、グリム童話を読むことは重要です。
そのとき、こぐま社や小峰書店の語るためのテキストじゃなくて、全話の載っている完訳本を手元に置いておくといいと思います。
たとえば。
岩波文庫(金田鬼一訳)、角川文庫(関敬吾・川端豊彦訳)、偕成社文庫(矢崎・大畑・植田・山室・国松訳)、ちくま文庫(野村泫訳)、講談社文芸文庫(池田香代子訳)
これらはすべて七版(決定版)です。あと、初版と二版の翻訳もありますが、図書館で借りられたらいいでしょう。エーレンベルク稿(初版の前のメモ)も図書館に入れてもらいましょう~

昔話の解釈ー金の毛が三本ある悪魔2👿

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第3章 金の毛が三本ある悪魔

グリム童話KHM29「金の毛が三本ある悪魔」の話型名。
ATU461「悪魔の三本の毛」+ATU930「予言」

「金の毛が三本ある悪魔」あるいは「三本の金髪をもった悪魔」読みましたか~?
ね、展開が面白いでしょ~

では、いきます!

14歳になったら王さまの娘と結婚すると予言された主人公。
それを知った王さまは、心の悪い人だったので、その予言をくつがえそうと画策します。生まれたばかりの主人公を買い取って、箱に入れて川に流してしまうのです。

これって、いやだね~
自分の手を汚すのが嫌だから、直接殺さないで、川に流す。
白雪姫の母親女王と同じだね。猟師に殺させようとしたり、死ぬとわかっていて森に捨てる。

さて、箱は流れ流れて水車小屋のせきに引っかかり、粉屋の主人夫婦が子どもを拾って育てる。

そのあと、かの有名なウリヤの手紙を含むエピソードが続きます。
ウリヤの手紙については、《昔話雑学》で確認してください。こちら⇒
14年ほどたって、王さまは、たまたま水車小屋を訪れて、りっぱに育った男の子を見つけます。またまた王さまは、男の子を殺そうと画策します。その方法が、ウリヤの手紙といわれるやりかたです。
男の子は、「この手紙を持ってきた若者を殺せ」と書いた手紙を持ってお妃のところへ向かう。
とちゅう、森の中で道に迷い、盗賊のすみかにたどり着き、泊めてもらう。
盗賊の親玉が手紙を盗み読む。
親玉は手紙を破り、「この手紙を持ってきた若者と姫を結婚させよ」と書き換える。
男の子は、翌日、城に行ってお妃に手紙を渡す。
お妃は、手紙の通り、男の子とお姫さまを結婚させる。

主人公は死の危険に陥る(王さまの手紙)が、まさにそのことが主人公を一層充実した高度な生(お姫さまとの結婚)へ導くとリュティさんは言います。
王さまが男の子に手紙を託さなければ、男の子はお姫さまと出会うことなんてなかったんですよ。

そこで、「白雪姫」を思い出してください。
女王が白雪姫を追放しなければ、また、毒りんごで殺そうとしなければ、白雪姫は王子さまと出会うことなんてなかったんですよ。

ほら、「三本の金髪をもった悪魔」は「白雪姫」と同じテーマを扱っているのです。
死の危険に陥った者だけが、死の現実を知った者だけが、人間として完成することができるのです。

リュティさんは、リルケの詩を引用して、昔話というのは、古い神話や儀式や思想を、遊びのような形に変えて、繰り返し違った人物を使って聞き手にわからせようとするのだといいます。

黄泉の国へ入って
竪琴をかなでた者だけが
限りないほめ歌を
うたうことができる。

死者たちといっしょに
けしの実を食べた者は
どんなに低い音色も
もはや聞きのがしはしない。

池に映る影は
消えてゆこうとも
消えぬ形象を知れ。

生と死を知ってはじめて
歌う声は
やさしく永遠となる。

ーリルケ「オウフォイスに寄せるソネット」

さてさて、ウリヤの手紙の部分だけでなく、主人公の男の子は、なんども死と生のあいだを転化していきます。
次回はそのことについて考えます。

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きのうは、おはなしひろばを更新しました。
「おにのつぼ」
どこかで聞いたことあるよ。当ててごらん~

 

昔話の解釈ー金の毛が三本ある悪魔👿

マックス・リュティ『昔話の解釈』をしつこく読む

ほかの話題も書こうかなと思うんですけど。
世間のこと、身近な笑い話とか。
でも、日記を書くのは苦手だし。若い頃は何度も書こうと思ったんだけどね、いつも三日坊主。日記帳を買うのがもったいなくて、大学ノートに書き始めたら、いつのまにか数学のノートに変わってたり。
このブログってツールは、発信って機能があるから、ウソは書かないようにっていう緊張感があるのがいいな。
まあ、気が向けば読んでください。
でも、いいこと書いてると思うのよ。元の書物がいいからね~

で、続けます。

第3章 金の毛が三本ある悪魔

これは、わたしの持ちネタの中でも、高学年にとびきりウケる話です。
語りの森のホームページでも何度も取り上げてるから、この《井戸端会議》《ステップアップ》の「検索」っていうところで、「三本の金髪をもった悪魔」でさがしてみて。子どもたちがどんなふうに聞くかを書いてます。

さて。

ここで問題です(しょっぱなから~笑)

いばら姫、白雪姫、灰かぶり、赤ずきん、ホレばあさん、七羽のからす、ヘンゼルとグレーテル、兄と妹、蛙の王さま
共通するのは何でしょう?

答え:女性が主人公のグリム童話

リュティさんは、昔話の主人公は、国際的にみれば男性が優勢なのに、ドイツ語圏では女性が圧倒的に多いといいます。
なぜか?

理由その1
グリム兄弟に昔話を伝えたのが主に女性だったからではないか。
語り手というものは話の主人公と自分を同一視するのが好きで、それができる話を選ぶからだって、リュティさんはいいます。
そして、子どもに昔話を語る人にも、女性が多い。母親とか祖母とか、幼稚園や小学校の先生とか保育士とか。

ううむ。みなさんはどうですか?
大きく見ればそんな一面もあるかもしれない。
ただ、わたしは、子どもが喜ぶ話を選ぶことが多いなあ。自分がというより、子どもが主人公と自分を同一視できる話ね。

この理由1は、いったん保留しましょ。
で、つぎ。

ともかくグリム童話のなかで有名な話は、女性が主人公のものが多い。これは事実ね。
そのおかげで、ドイツ語圏以外の国々にも女性主人公の昔話が広がっていった。
『ハンガリアの昔話』の編者アグネス・コヴァチェは、「迫害され、つらい試練に遭う女の主人公がハンガリアの昔話の世界に入ってきたのはドイツの昔話のおかげである」といっています。

理由その2
世界は男性の精神で動いているから、その補償として女性の精神が求められているから。
わたしたちは技術の時代に生きていて、外的生活を支配しているのは、行動主義、多忙、東奔西走。それに対して、文学の領域では、ごく自然に魂を形に表した女性の主人公が求められるって。
女性の主人公の静かなねばり強い忍耐が補償しているって。

ううむ。
たしかに、「世界」というより「社会」は、男性の価値観を中心に動いているね。否でも応でも、そういう社会に生きている。(なんとかしなくちゃね!)
でも、だから、文学の世界は、女性中心・・・というわけでもないような気がする。
あ、ちょっとまって。平安時代、摂関政治は男性による支配の社会。紫式部は、その裏の後宮の女性の世界を描いた。

でもやっぱりこれも想像というか、仮説にすぎないね。証明できる客観的事実はない。だから、理由2も保留にしましょ。

でもね、この二つの理由、とっても興味深いので、ちゃんと覚えておこう。

ここで、リュティさんは、男性主人公の話を見ることにしましょうといって、KHM29「金の毛が三本ある悪魔」について考えていくといっていますよ。
これは、生まれたとき、「14歳になったら王さまの娘を妻にする」という予言を受けた男の子のはなしです。
みなさん、読んでおいてくださいね~

 

 

昔話の解釈ー白雪姫 最終回🕯

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第2章 白雪姫
今日で終わりだよ~

「白雪姫」は、
年を取ることにがまんがならない女の話、そのために苦しめられる若い人間の話、というだけではない。
ねたみとやきもちは悪の一番太い根であることを明らかにしているだけではない。
じゃあ、なにか?
それを越えてさらに人間存在の根本的な特徴をいろいろと見せている
と、リュティさんは言います。

人間存在の根本的な特徴って?

つまり
事物が反対物に転化する驚きと素晴らしさ、
死んだと思われている人間が復活する不思議、
われとわが身に苦しむこと。

われとわが身に苦しむっていうのは、女王が自分のやったことのせいで最後に滅びることを指すんだけど、それだけではないのです。白雪姫自身も、われとわが身に苦しむんですね。ほら、きれいなくしが欲しいとか飾りひもが欲しいとか、りんごが食べたいとか、いっときの欲望に従ったがために殺されるのです。

でも主人公白雪姫には、救済があり、見捨てられた人間が段々と成長してゆく有様が見える。
その救済はどこから来るかというと、こびとという自然界の存在、王子という精神の光を代表する存在、猟師のようにふつうの人間、によって救済されるのです。

思い出してください。
この章の最初で、白雪姫は受け身の主人公だと確認しましたね。みずから行動する主人公ではない。こちら⇒
人の世の息がつまるほど緊張した状態の中で、白雪姫のこの素直さは、魂を象徴しています。
人の魂は、世の中へ出て、そのつらさをなめ、その助けや恵みを受けることによって、一段ずつ成長していくのです。
上への道は、深淵を通るしかなく、光への道は、苦悩と闇を通っています。
そういう魂を、白雪姫は象徴しているのです。

これが、最初の課題、数ある昔話の中で、「白雪姫」のすがたが特に明るく輝いているのはなぜかということへの答えなのです。

昔話は単なる遊びではない。昔話は聞き手の目を人間存在の本質に開かせるものである。

ううむ。禍福はあざなえる縄の如しっていうけどね、「白雪姫」は、そんなふうに転化、倒錯の連続の人生であることを教えてくれるんだ。そして、輝くハッピーエンドが待っているから、救われるんやね。

はい、おしまい。

うまくまとめられたかは???だけど。

次回からは、KHM29「三本の金髪をもった悪魔」について、類話比較しながらテーマを探ります。

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きょうは、おはなしひろば、熊本県のみじか~い伝説をアップしました~
聴いてね~

 

 

昔話の解釈ー白雪姫7👸👸👸👸👸👸👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章 白雪姫 まだつづく

白雪姫って、あまりにも有名で、絵本やアニメで知らない人がいないほどで、しかもほとんどが改ざんされてるので、ちゃんと知ることが大切やと思います。
で、もう少し、続けますね~

前回までで白雪姫のテーマが「倒錯」っていうこと、分りましたね。
それは、さまざまな類話を比較することから、分ってきたんでしたね。類話を多く見れば見るほど、話の内容と意味はますますよくわかるようになると、リュティさんは言っています。

さて、きょうは、創作、というか、白雪姫を素材にした改作の紹介です。

ムゼーウス(ヨハン・カール・アウグスト・ムゼーウス)の白雪姫。
ムゼーウスは、グリム兄弟の前の時代の人で、小説家。ドイツの民話を改作して世に出しています。翻訳が手近なところにないので、作品を確認せずに孫引きします。ごめんなさい。

白雪姫を迫害するのは「まま母」になっています。リヒルデと名前がついています。
ムゼーウスは、このリヒルデのまま母性を極端に前面に押し出しています。
描写が詳しく、まほうの鏡の由来や、最後にリヒルデが履かされる靴を、小人たちがどうやって作ったかとか、およそ昔話らしくない叙述があるようです。
リュティさんは、昔話の流儀を離れ、見掛け倒しの作品を作り上げたと批判しています。
リヒルデが、真っ赤に焼けた靴を履かされて踊るのですが、その苦しみを詳しく描いています。

ぜんぜん、昔話らしくない、おもしろくない改作なんだけど、それでも「倒錯」のテーマは生きています。

バジーレ(ジャンバッティスタ・バジーレ)の白雪姫。
バジーレは、イタリアの詩人、16-17世紀の人、『ペンタメローネ』を書いた人ね。
白雪姫は、リーザという名前です。リーザが生まれると、親切な仙女たちがお祝いに駆けつけて、素晴らしい贈り物をします。ところが、ひとりだけ、遅刻しそうになって、あわてて足をくじいてしまうのね。そして思わず呪いの言葉をはいてしまう。「リーザが七歳になったら、母親が髪をとかしてやっているときに、くしをリーザの頭に忘れてしまって、それがもとでリーザは死ぬ」って。
で、その通りのことが起こる。母親は悲しんで、リーザのなきがらを七重のガラスの棺に納めて、屋敷の一番奥の部屋に入れて、部屋の鍵を肌身離さず持っています。

ううむ。全部書くのは、手がつらい(/▽\)

煎じ詰めれば、お祝いに行こうとして呪いをはいてしまうとか、やさしく髪をとかしていて殺してしまうとか、やっぱり善から悪が生じている、ということなんです。
嫉妬したおばが、死んでいるリーザの髪を手荒く引っ張ったために、リーザは生き返る。これは、悪が善に転化しているのね。

このように、改作されていても、テーマは変わらない。
善が悪に、悪が善に転化するというテーマは、白雪姫という素材に込められていて、それが驚くようなやり方で繰り返しあらわれ出てくるように見えると、リュティさんは言います。

次回は、白雪姫最終回。倒錯のテーマが持つ意味を考えます。

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今日のホームページ更新は《日本の昔話》
「たからのひょうたん」だよん。