わたしが子どもだったころ👦

ケストナーをぽつりぽつりと読んでるんだけど。
というか、ケストナーと中村桂子さんを交互に読んでるんだけど。

やっぱりケストナー、すごいわ。
子どもを子ども扱いしない人。時代の大問題をどうやったらあんなふうに子どもと共有できるのかな。

『わたしが子どもだったころ』は1957年出版。これがきっかけで、ケストナーは1960年に国際アンデルセン賞を受けました。
作者前書きに「親愛なる子どもたちと、子どもでない人たちに!」とあります。
もちろん、わたしは、子どもでない人として読んだんだけど、夢中で読みながら、自分が子どもとして読んだら何を感じるだろうと思いながら読みました。
きっと、この人は信頼できる大人だと思って読んだでしょう。

ケストナーはドイツのドレスデンで生まれたんだけど、この本の中で、歴史ある街ドレスデンがどれほど美しく慕わしい土地かということが、写実的に描かれています。決して感傷的ではなくて。
高橋健二さんの訳のおかげもあると思うけど、ドレスデンの街がまざまざとみえました。そして、ああいつか行きたいと思いました。

ほんとにドレスデンはすばらしい都市だった。みなさんはわたしのいうことを信じてよい。ー引用

ところが、そのすぐあとに、だれもそこへ行くことはできない、ドレスデンはもはや存在しないからだとあります。
第二次世界大戦で、一夜のうちに消されてしまいました。
その二年半後に、故郷に立ったケストナーは、はてしない廃墟の中で、自分がどこにいるのかわからなかったのです。
ケストナーは言います。
ドレスデンを廃墟にしたのは誰なのか、いい争ったところで、ドレスデンを生き返らせはしない!美しさを、死人を生き返らせはしない!政府を罰せよ、人民を罰するな!(略)即座に罰せよ!

故郷の魅力を語るやり方も、戦争への怒りを訴えるやり方も、読み手を子ども扱いしていないのです。

ほかにも、両親のことや、出会った先生たちのこと、学校生活のことを読んでいると、今の私たちの生き方の参考になる、と思いました。
「子どもにも心痛がある」なんて章は、思わずうなりました。
一応児童文学なので、読みやすいです。
おすすめ~

ケストナーの大人向けの小説『一杯の珈琲から』(東京創元社)もおもしろかった(^∀^●)

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本の返却期限が明日なので、急いで書きましたヾ(•ω•`)o
「七羽の烏」はちょっと待ってね。

きょうはおはなしひろば「しおふきうす」を更新しました。

台風が近づいてる。みなさま、気を付けてください!

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏3👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

七人の兄さんがカラスに変身すること、ガラスの山に幽閉されること、これらは死をあらわす。というのが前回のお話。
そうすると、「七羽のからす」のテーマは、死と復活ということになります。

死と復活を語る昔話といえば、KHM50「いばら姫」、KHM53「白雪姫」、KHM60「二人兄弟」もそうですね。
でも、白雪姫も二人兄弟も実際に死ぬし、いばら姫はまるで死のような長い眠りに落ちます。七人の兄さんは「死んだ」とはいっていません。だから聞き手は、からすになった、ガラスの山にいると言っても、死者の世界に行っちゃったとは思わない。
つまり、死は、表面化しないし、現実性が抜けている。
では、聞き手にとってこの話の力点はどこにあるかというと、死と復活より、呪いを掛けることと呪いを解くことの方に置かれていると、リュティさんは言います。

では、呪いを掛けることについて。

父親が「坊主ども、みんなからすにでもなるがいい」と、呪いを掛けます。
が、呪いを掛けたという意識は、全然なかっただろうと思われます。
思わず口にした言葉。それが実現してしまって父親はすぐに後悔しますね。
つまり、あまりにも軽く呪いがかかってしまうのです。
これは、昔話の語法でいえば、呪いや予言は必ず実現するということです。

やすやすと呪いが掛かる、昔話は「まだ願い事がかなった時代」という架空の時代の話なのです。
そして、簡単に願い事がかなうのは、実は恐ろしいことなのです。必ずしも人を幸せにはしない。
ここでギリシャ神話のミダス王のことが引き合いに出されます。
ミダス王は、手にふれたものすべてが金になるようにと願い、叶えられます。すると、何もかも、パンやワインまで金になってしまって、飢え死にしそうになります。で、願いを取り消す。
あほやねえ。
でも、人間ってそんなものかもしれない。
この愚かな願いを語る昔話の典型的なものは、ATU750A「三つの願い」としてまとめられていて、グリム童話KHM87「貧乏人と金持ち」や、ペローの「三つの願い」などがあります。

これらの話は、人間はその考えや願いによって、いとも簡単に他人や自分自身を傷つけるということを、教えてくれるのです。
親の軽率な言葉や態度は実際の生活でも子どもに害を及ぼすことがあるとリュティさんは言います。

そしてね、いったん害が生じると、簡単には直せない。
七人の兄さんの呪いを解くためには、親ではなく純真な妹が危険を冒して世界のはてまで出かけます。

はい、ここまで。
次回は、呪いを解くことについて、考えます。

 

 

おくりもの🎉

あのカラスウリの実だよ。
秋の贈り物。
ありがとうございました。

あの白い繊細な花がこんな実をつけるんやね。

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これはお守り。
孫への手作り。
まご「おばあちゃん、ありがとー」
わたし「それお守りよ。お守りって何か知ってる?」
まご「・・・・・・お守りしまーす」

テレビ電話ではなかなか意思の疎通が・・・(@^0^)

お守りひとつでは郵便代がもったいないので(笑)、折り紙やらなんやらといっしょに、『ちいさなヒッポ』と、飛び出す絵本の『おやゆび姫』をおくった。
娘からのメール。
家族で『ヒッポ』を読んでつぎに『おやゆび姫』を読んだ。
おやゆび姫がカエルにさらわれるとき、やっぱりグアオっていわないとだめだって話になった。

家族の笑いが何よりうれしい秋の贈り物でした~

 

 

 

オンライン日常語入門💖

コロナ禍で、今年度は日常語の入門講座はおあずけかと思っていたところ、オンラインででもとおっしゃってくださる方がいて、恐る恐るやってみました。
zoom、慣れないのに、大丈夫かなと思いながら、みなさんに助けてもらいながら、少しずつ充実してきている・・かな?

定員4人にして正解でした。
画面に5人の顔しかないのは、集中できていいかなと思う。

オンラインにしなければ会えなかったような遠い所のかたも参加されています。
いっぺんに世界が広がったような気がします。
語り自体はオンライン向きじゃないけど、勉強会の持ち方としては、オンライン、いいかも。
参加してくださる人があれば、語法の勉強会とか、今後も入れて行ってもいいかな。

先日、第2回がすみました。
「はなし言葉」のレクチャーのあと、4人それぞれの言葉の履歴を話していただいたんだけどね。それがよかった(❁´◡`❁)
生まれ育った土地の言葉、その後移っていった先の言葉や、自分の言葉に影響を与えた人・事、仕事、などなど。結局、みなさん自分の半生を語る羽目に(笑)
事実は小説より奇なりというけど、短編小説を4話聞いたような充実感がありました。
これは、zoomだからこその距離感と集中があったからかと思います。

人は、多かれ少なかれ、はなし言葉で相手を測ったり先入観を持ったりするものです。なまりがあるとか敬語が下手とか。
でも、暮らす土地によって言葉は違っています。ひとりひとりがそれぞれの環境で懸命に生きてきた、その結果としての、その人の言葉なんですね。
その多様性を実感する機会になりました。

自分の人生に誇りを持って、自分の普段使いの言葉に誇りを持って、物語を口伝えていくこと。それが、ささやかなこの講座の目的です。

次回楽しみです。

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今日は月曜日、《日本の昔話》と《外国の昔話》こうしんしたよ~
見てね~

 

 

昔話の解釈ー七羽の烏2👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏

前回から少し日が開いてしまいました。
その間、ふたつの入門講座という心動かされる出来事がありました。プライベートでもかなり厳しい事件が起きたんですが、これも無事落着しました。
おはなし入門講座については、たぬこさんの報告を見てくださいね。
日常語入門講座については、別の日に書きますね。

で、七羽のからすです。

前回から少し日が開いてしまいました。
はいはい、わかってますがな。
いえ、その間にみなさんはグリム童話の「十二人兄弟」と「六羽の白鳥」をちゃんと読みましたか?(*^▽^*)

「七羽の烏」とこの2話とは同じ話型でしたね。つまり類話。
本書の方法としては、類話を比較してその話の本質を見極めようというものでした。
さて、ここで、七人の兄さんがカラスになったような、動物への変身は何を意味しているのかということを考えます。
「十二人兄弟」「六羽の白鳥」はどちらも白鳥への変身ですね。
類話をみると、他にこのようなものがあります。(  )は伝承地です。
のろしか(シュレースヴィヒ・ホルシュタイン)
ぶた(北部ルーマニアの山地ジーベンビュルゲン)
ひつじ(フランス)
白い牡牛(フランス)
おおかみ(ロシア)
わし(ロシア)
こうのとり(ポーランド)
がん(ハンガリー)
つる(ハンガリー)
あひる(ノルウェー)
はと(イタリア)
以上、リュティさんが挙げているだけでも、いろんな動物がいますね。

これらの動物への変身は、死の国へ入ることを意味するのではないかといいます。
そう洞察する根拠は四つです。

1、鳥への変身の話が多いが、鳥というのは、自然民族の信仰では死んだ人間の変化した姿であるとされることが多い。
鳥は、死んだ人間の霊魂なんだって。
「七羽の烏」の類話では、からすに変身が一番多くて、白鳥も結構あるんだって。そして、黒と白は死の色だと(ううむ。日本だけじゃないんだ!)。

2、いくつかの類話では、父親が息子たちの死を願い、息子たちを殺す用意をしている。
「十二人兄弟」では、父王が、次に生まれる子どもが女の子ならば、十二人の息子を殺すと宣言して棺おけを12個作らせてますね。

3、七人の兄さんたちはガラスの山に移されるが、ガラスの山は死者の山である。
もともと古い信仰では、山そのものが死者のすみかとされている場合が多いといいます。そして、山には魔物やこびとが隠れていますが、これは死者の霊と考えられているそうです。
そして、ガラスの山についての民間信仰も多く残っているといいます。切った爪を捨てずにポケットにしまう習慣があって、これは、死後、ガラスの山をよじ登るときに使うためにあるそうです。死者は人間や動物の爪といっしょに埋葬され、それは、死者が死者の国でガラスの山を登ることができるようにということなのだそうです。
おもしろいなあ。日本仏教の六文銭みたいなもんかなあ。三途の川の渡し賃。ヨーロッパではガラスの山を登る爪アイゼン。

4、太陽や月が人間を食べる危険なものになっているのは、死の世界をほのめかしている。
なるほど。
以前、小学校で語ったとき、あとから先生が、なぜ太陽や月が恐ろしい存在なんでしょうねとおっしゃったことがありました。それ以来、ずっと考えてたんだけど、死の世界だとは思いつかなかった。

(わたしは、宗教的な理由かなと思っていました。かつての自然宗教では、太陽も月も神さまだった。自然宗教の神さまは恩恵も与えるけど脅威でもあるという二面性を持つ。キリスト教が広がって自然宗教が消えていく中で、例えば魔女のように、かつては両面性を持っていた神がキリスト教の神に敵対する悪になる。だから、太陽も月も恐ろしいものとして描かれた。では、星は?星は、三博士を馬小屋のイエスのもとに導く聖なるものであった・・・以上、ヤンの愚論)

はい、今日はここまで。
「七羽の烏」とは別に、昔話の鳥について、それから、伝説も含めた伝承の中のガラスの山について、ううう、知りたいなあq(≧▽≦q)