生きている人形🏃‍♂️

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第5章生きている人形ー伝説と昔話

グリム兄弟が『子どもと家庭のための昔話』を出版したのは、1812年でしたね。
そのあとじきに、『ドイツの伝説』を出版しました。1816年・1818年。
これ以降、世界じゅうで昔話と伝説が集められ、出版され、研究されるようになりました。これは、グリム兄弟の偉大な功績のひとつです。
そして、それは、世界の人びとにどんな影響を与えたのでしょう。
グリムの時代は、識字率が高くなり、口伝えがどんどんなくなっていって、本来の昔話の伝達方法(メディア)が衰退する時代、その中でのグリム童話の出版です。

リュティさんは、昔話が世代から世代へ口伝えにされることは、今日では、破壊されたに等しいといいます。
いまは、新聞雑誌、ラジオテレビの時代だからです。
あらまあ、それどころか、リュティさんより数十年後の私たちの時代は、ネットの時代ですね。本もネットで読める。

今はこんな時代ですが、グリムに始まる昔話集・伝説集の出版によって、昔話・伝説はよみがえっただろうか。と、リュティさんは問いかけます。
答えは、青少年にとっては、よみがえったといえると言っています。
口伝えがなくなったその隙間を埋めているのが、昔話集と伝説集だというのです。

親や教師が、子どもたちに昔話をするとき、本に書いてあるとおりに語ったり、読んだりする。そのための昔話集なのです。
大人が子どもに読む、子どもは聞く
そして、グリム童話は、世界じゅうで最も人気の高い昔話集なのです。
(みなさん、語りの森昔話集も、子どもたちに読んだり語ったりしてくださいね~)

伝説は、地域的な要素が大きいです。
昔話よりはるかに強く語り手と聞き手の置かれている環境と結びついている。
だからこそ、子どもは、真実性のある話として、伝説に夢中になるというのです。
子どもは伝説を読む。幼いころ夢中で昔話を聞いたように。

かつて『子どもと家庭のための奈良の民話』を再話編集した時、かなり多くの伝説を入れました。語り手も聞き手も、自分の土地の話として愛情を感じることができると思います。奈良の子どもたちに読んでほしいと思います。

おっと、話を戻します。

昔話や伝説を本にするというのは、子どもたちにとって大きな意味がある。
わたしたち、語り手はこのこと、よくわかりますね。
では、大人にとってはどうか。
リュティさんは、大人は昔話は子どものものだと考ているし、伝説も衰えているといいます。
なんか、どうしようもないみたいです。悲観的ですね~

でもわたしはね、大人のわたしはね、昔話を読んでると、励まされるのです。
がんばろ~と思えるのです。
小説だって面白いし夢中になるし考えさせられるけど、昔話はストレートにダイレクトに、励ましてくれるのです。
みなさん、そんなことありません?
わたしが子どもっぽいのかなあ。

おっと、話を戻します。

ともあれ昔話と伝説は、数百年の間、語られ伝えられてきた。
昔話と伝説の違いを、具体的に見ていこうというのが、この章の目的です。
次回は、めっちゃ怖いアルプスの伝説を紹介します。

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きのうはzoomを使ったおはなし会でした。
楽しかったよ。
もちろん、語りが楽しかったの。
でも、zoomに入られへん、顔が写らへん、声が聞こえへんという騒ぎもおもしろかった。
ジェニィさんが報告してくださるので、お楽しみに~o(*^@^*)o

 

 

 

地の雌牛4🐄おしまい

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第4章地の雌牛ー昔話の象徴的表現 つづき

さていよいよ、昔話に出てくる動物が、何を象徴しているかということを考えます。

地の雌牛のお話の続きです。
ある日、姉のアンネちゃんが、マルガレーテちゃんをさがしに行きます。
森の中で道に迷い、地の雌牛の家にたどり着きます。
雌牛は留守でマルガレーテちゃんひとり家にいます。
ああ、禁令は破られるためにあるんでしたね~

マルガレーテちゃんはアンネちゃんを中に入れます。
つづきは、本文をどうぞ。

ある日、身分の高い男が通りかかり、りんごを所望する。
アンネちゃんにはりんごがとれない。マルガレーテちゃんがりんごを取ってやる。
マルガレーテちゃんは男の息子と結婚する。おしまい。

昔話に出てくる動物は基本的に二つの役割を持ちます。
ひとつは、人をほろぼす敵で、ひとつは、人を救う味方。
どちらも彼岸の存在だけどね。
前者は例えば竜。第3章でみましたね。
後者は地の雌牛。グリム童話の「金の鳥」のきつねとか、ロシアの昔話の灰色狼とか。

まず前者の敵としての動物。
竜との戦いは、人の無意識の世界に潜んでいる悪とか不気味な力との戦いを象徴している。つまり自分との闘いだというのです。
また同時に、現実の世界における悪との戦いをあらわしている。
この戦いに勝つことが、人は王者となりおひめさまを手に入れるという象徴で表されるのです。

では、後者の援助する動物。
地の雌牛や人を助ける動物は、わたしたちの心の中にある意識されていない力の象徴ではないか、とリュティさんはいいます。
つまり、知性によってまだねじ曲げられていない、生まれながらの情感的な魂が、わたしたちを養い、導くことができる。

でもね、そのままの姿ではだめなんだって。
地の雌牛は殺されてりんごの木に再生してはじめてマルガレーテちゃんを幸せにできるのです。
かえるの王さまは、壁にたたきつけられてはじめて王子となり、姫は幸せになる。
きつねは、首と手を切られてはじめて人間になり、王の幸せは完全になる。

雌牛もかえるもきつねも、そのままでは次元の低い天性にすぎない。でも、それが高い次元の天性に変わると、幸せに到達できるというのです。
そして、変わるためには、悩み苦しみ、残酷な行いも省くことはできない。
そのための残酷な行為なのね。つまり極端な苦しみ。

引用
持って生まれた性質がどんなに身を守り養ってくれるにしても、それにまかせきってはいけない。生まれつきの傾向はいたわられ、甘やかされてはならない。精神の剣によって変化させられるというか、魔法を解かれ、救済され磨きをかけられなくてはいけない。

深いなあ(^///^)
昔話が伝えようとしていることは、道徳とかお説教ではないね。
もっと深い人の魂に関わることやね。

はい、おしまい。

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今日は月曜日。HP更新の日ですよ~
《日本の昔話》に、恐~い話をアップしました(❁´◡`❁)

 

 

カラスウリ

よく降りますねえ
京都府南部の話ですが。
今年の梅雨は長くって、冷害が心配。
新型コロナもね。わが市も連日、感染者が報告されてるし。

わたし個人としてはね、急激な環境の変化にやっとの思いで耐えてるんだけどね。
数か月前まではほぼ毎日おはなし関連で出歩いてたのが、いっきに人と会わなくなった。30年以上続いていたルーティンワークがぷつっと切れた。社会とのつながりが切れた。

考えると嫌になるから、今だからできる事をやろうと思って、やってるけどね。
あ~、子どもに語れないのは苦痛`(*>﹏<*)′

そんなわけで(どんなわけや?)、今日はお勉強はおいといて、素敵な写真をお送りします。
ババの仲間からいただいた写真です。

カラスウリの花です。
時間を追って、載せますね。


午前10時。つぼみです。


午後6時51分。咲き始めました。


午後6時59分。咲きました。


午後7時10分。咲いてます。


午後7時20分。


午後9時3分。
きれいやね~


午後11時15分。


夜が明けました。

24時間かけて取ってくださった貴重なお写真、ありがとうございます。

カラスウリの花って、まっ白で、なんて繊細なんでしょう。
秋に、藪にぶら下がっている赤い実しか見たことがなかったので、感激です。

カラスウリといえば、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」
星まつりの夜には、みんなでカラスウリを川に流しに行くのです。
幻想的な光景です。

ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐに飛びこんだんだ。

ジョバンニの親友が亡くなる場面です。
自己犠牲は賢治の作品の大切なテーマです。

石井桃子の自伝的小説「幻の朱い実」の朱い実もカラスウリですね。
たしかに、カラスウリは赤というより朱いですね。

ゆうがた、おはなしひろば更新します。

地の雌牛3🐄

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第4章 地の雌牛―昔話の象徴的表現 つづき

わたしたちは現実にしばりつけられてくらしている。
コロナ禍のいま、改めてそれを実感する。
昔話に自由と軽快さを感じるとするなら、それは、昔話では、あらゆるものが苦もなく孤立して他から離れ、あらゆるものが苦もなく結びつくからだ。

リュティさんは、かつて昔話が語られていた時代、人びとは、現代の私たち以上に、ふだんの環境にしっかり結び付けられて共同体にはめ込まれて生きていたといいます。
まほうの鏡のようなテレビや映画はなく、まほうのじゅうたんのような飛行機もなく、旅行や新しい出会いが普通でなかった時代。
だから、昔話は、人間は本来、習慣的な結びつきを離れて新たな結びつきを作ることができるのだという予感を、人びとに贈ったというのです。

昔話の主人公にしかできなかったことを、現代文明社会に生きる私たちはできる、ということかな?
でも、心はどうだろうか。
ほんとうに自由だろうか?

さて、地の雌牛ー象徴表現にもどります。

昔話というものは、何かを禁止するのが好きだ。
そうですよね。
今週UPしたイエメンの昔話「ジャルジューフ」(こちら⇒)。
どの部屋を見てもいいけれど、七番目の部屋だけは見てはいけない。
日本の「みるなのくら」。
ほかにどんな例があるかな?みなさんのレパートリーから探してみて。
地の雌牛では、自分のことを人に話してはダメだっていいます。

こういう禁令だけでなく、きびしい条件とか、課題とか、昔話にはよく出て来ますね。
この厳しさによって、昔話の文体は、より簡潔になる。
いっぽう。禁令や課題は、自然が作り出したものではなく、人間の精神が作り出したものです。倫理とか道徳とかといっしょ。
しかも、主人公はかならず禁令を破る。
見たらあかん、っていわれたら見る。
言うたらあかん、っていわれたら言う。
なんで?

引用
禁止は主人公に制限を加え、試練を課する。しかしたとえ禁令を犯しても、主人公は破滅するとは限らない。回り道をし、苦しみと悲しみを通して、より高い目標に到達することができる。

つまりね、禁令は破られるためにある。
人には、努力目標や限界設定があって、失敗しながら、それを乗りこえていく、そうやって生きていけばいいんだよっていうことだと思う。
昔話の多くの課題は主人公に偉大な可能性をひらく。

若い人たちに伝えたいよ~╰(*°▽°*)╯

きょうはここまで。

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午後からおはなしひろば更新します。

地の雌牛🐄2

マックスリュティ『昔話の本質』報告

第4章 地の雌牛ー昔話の象徴的表現つづき

わあ、急に雨が降ってきた。
まだ梅雨は明けてなかった

失礼しました
きのうの続きです。

マルガレーテちゃんは、名付け親のアドヴァイスで無事森から帰って来られましたね。
同じことが、3回くりかえされます。
しかも同じ言葉で。
同じ言葉だから、聞いていて、話にはっきり区切りがつくのです。
2回目は、マルガレーテちゃんはもみがらをまきながら森に入って行きます。
3回目は、麻の実を持って行きます。
すると・・・

地の雌牛って、いったい何でしょう。
リュティさんも知りません。
16世紀、この話が記録されたときには、いちいち説明しなくてもみんなが知っていたんですね。
ゲーテも知っていたそうです。えっと、18世紀から19世紀の人ね。
でも、20世紀にはもうわからなくなってる。
リュティさんは、それでもいいんじゃないと言います。
意味は分からなくても響きになじみのある単語は、珍しいことがらを分かりきった調子で語る昔話の雰囲気によく合うからって。
なるほどね。

で、マルガレーテちゃんは地の雌牛を大喜びで受け入れますが、聞き手の私たちも大歓迎します。
雌牛が人間のことばをしゃべることに、全然びっくりしません。
これが伝説や聖者伝と違うところね。
もし雌牛がしゃべったら、伝説や聖者伝では「奇跡」として描くけれども、昔話では、奇跡は当たり前。
あらゆるものがあらゆるものと関係を結びうること、これが昔話における本来の奇跡であり、同時にまた自明の事柄でもある。

動物や彼岸の存在と言葉が通じることについては、《昔話の語法》一次元性のところで説明してるので検索してみて。

地の雌牛は、彼岸の存在。
それは了解ですね?

地の雌牛はマルガレーテちゃんにミルクと布をくれます。
ミルクは、雌牛だから当たり前として、絹とビロードという高価な布をくれます。
この絹とビロードについて、リュティさんは、人の手の加わった貴重な品物といいます。
昔話には、人工的なものがよく出てくるのです。

たとえば、伝説では、巨人や小人は山の洞穴に住んでいるけれど、昔話では宮殿や小屋にすんでいます。
ほら穴というのは自然の中にあって、想像すると、不確定な線で描かれます。型がない。
宮殿や、地の雌牛の小屋は、直線。しかも、垂直な線と水平な線でできています。
幾何学的、抽象的な鋭さや、さらにいえば明白さ、純粋な型式で描かれる。
ね、昔話の好む文体ですね。

はい、きょうはここまで。

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きょうは午後からおはなしひろばを更新しますね~