竜殺し1🐉

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第3章竜殺しー昔話の文体

竜殺しって、なんだか物騒な題名ですね(笑)
ここでは、いわゆる竜退治の昔話を一話取り上げて、昔話の文体について説明されています。
とりあげてあるのは、二人兄弟型昔話のスウェーデンの類話です。
ただし、この話の原典を翻訳で読むことはできません。部分的に引用されているので、それを載せていきますね。

二人兄弟型昔話は、きっとどこかで見たことがあると思います。
身近なところでは、グリム童話の「二人兄弟」。
めっちゃ面白くって、語りたいんだけど、めちゃめちゃ長いのです。
どうぞ、読んで見てくださいね~

はい、では、本題に入ります。
まずは、発端句についての説明です。

「むかしあった、いつかあるだろう。これがあらゆる昔話の発端である。『もし』もなければ、『ひょっとしたら』もない。鼎(かなえ)には確かに脚が三本ある。」

これは、ブルターニュ地方のある昔話の発端句です。(発端句についてはこちら⇒
リュティ氏は、これを、昔あったことは将来もあるだろうという昔話のささやかな哲学といいます。
昔といってはいるけれど、じつは過去のこと、もう終わったことではなくて、これからも起こることなんだよといって、語り始めるのですね。

たしかに、人間同士の戦いも、洪水も、感染症も、昔あったことは必ず繰り返されます。確実に。

さらに。
「『もし』もなければ『ひょっとしたら』もない。鼎には確かに脚が三本ある」というのは、昔話が世界を描くときの確かさ、明白さを面白おかしく言い換えたものだと言います。
昔話の文体が、鮮やかで、描写が確かだというのです。
わたしたちは、《昔話の語法》やそれぞれのところで昔話の文体(表現)について学んでいますね。
復習もかねて、少しずつ読んでいきます。

まず、取り上げるスウェーデンの昔話(題名が書いてないのです、ごめんなさい(⓿_⓿))は、百年以上前に記録されたものだそうです。

ふたりの兄弟の名前は、「銀の白」と「小さい見張り」。
まず銀の白が旅に出ます。

はい、説明は次回。
読んでおいてくださいね~(❤´艸`❤)

 

 

ラッキーとアンラッキー🙄

リュティ『昔話の本質』報告
をしようと思ってたんですよ。

いつも、どこをどうまとめようかと、勉強机でコーヒー牛乳を飲みながらちょっとおやつをつまみながら、考えるのね。

ああああああああ!
たっぷり入ったマグカップをひっくり返してしまったあ(っ °Д °;)っ
慌てて、本だけはのけたけど、あと、紙類、筆記用具、カード...
カーペットまで、コーヒー牛乳まみれ。

後始末をせんならんし。やる気は失せた。
で、今日の報告はなし。

実は、一昨日のWEBおはなし会の直前。
この日はトマトジュースを飲みながらやろうと思ってたの、
ところが、開始直前、パソコン机の上で、たっぷり入ったトマトジュースがひっくり返った。
なんでやねん≡(▔﹏▔)≡
パソコンは無事だったが、トマトジュースの香りでいっぱいのおはなし会だった。

ところで昨日15日は、お買い物しなさい~の日。
電車で一駅の某プラザへ、下着を買いに行った。
カードにお金が入ってなかったので、チャージ。
1万円で50円もらった。ラッキー。
帰ってから、いつもの某センターで、チャージ。
1万円で150円もらった。ラッキー。
うれしくて、大隅産のかば焼きを、迷いに迷って、買った。
レジのおねえさんが、「いこいこシニアデーです」って、5パーセント割り引いてくれた。
「めっちゃ、ラッキーやん」って、おねえさんに叫んでしまった。笑われた。
帰りに、近くの某ナカガ〇でチャージしたら、1万円で60円もらった。

うふふ。
人生、禍福はあざなえる縄の如し
机まわりがちょっとコーヒーくさいけど(❁´◡`❁)

 

 

 

ウェブおはなし会☔No3

ウェブでおはなし会を始めて、今回で3回目です。
あらかじめエントリーをしておいて(時間に限りがあるので)、当日はただ語るだけ、聞くだけの批評は無しなのです。
勉強会ではない気楽さゆえか、はたまた、勉強会が行えないし、おはなし会もできない状況で、おはなし環境に飢えているのを少しでも埋めるためか、じりじりと人数が増えております。

プログラム
「ついでにペロリ」『おはなしのろうそく6』東京子ども図書館
「あちちぷうぷう」『語りの森昔話集4おもちホイコラショ』語りの森
「やまたのおろち」語りの森HP →こちら
「駅前の自転車預かりの話」語りの森HP →こちら
「うそつきくらべ」『語りの森昔話集1おんちょろちょろ』語りの森
「まほうの鏡」『語りの森昔話集1おんちょろちょろ』語りの森
「かも取り権兵衛」『日本の昔話2』おざわとしお再話 福音館書店

今回は全員で15.5人でした。
0.5人というのは、惜しくも時間中には完全にログインできなかったかたがおられたからです。
いや、ログインはできているんだけれど、画像と音声が出なかったのです。
確かに本人だとはわかっていたんですよ!
便利なツールなんですが、みんな慣れるまでがやっぱりね、大変ですね。
だってわたしなんて、パソコンやスマホなんて、人生のうちでつい最近ですから。
生まれたときから、あるいは、人生の大半ですでにインターネット環境が整っていた人には、きっとわからないでしょうね。
わたしは、ひとつできるごとに、「やったー!」って、そうとう喜んでます(笑)
だから、ウェブおはなし会もそうとううれしい(笑)
次回も楽しみです。
みなさん、7月28日の午前10時に、あおいしましょう(^^)/

眠る七人の聖者~昔話🤴

マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章 眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話 報告つづき

グリム童話の巻末に、「子どものための聖者伝」があるのをご存じですか?
グリム童話は、昔話が「かえるの王さま」から「黄金の鍵」まで200話あって、そのあとに、子どものための聖者伝が10話おかれています。
そのなかに、「十二使徒」という話があります。
これまで読んできた聖者伝「眠る七人の聖者」「ジークブルクの修道院長エルフォ」や伝説「三百八年眠った僧院長」と同じく、長い眠りと、眠りからの復活という奇跡が物語られています。
きょうは、グリムの「十二使徒」が、本来の聖者伝や伝説とどう違うかを考えます。
先に答えを言いますと、づリムの「十二使徒」は昔話であって、聖者伝や伝説とは奇跡の扱い方が異なるということです。
では、具体的に見ていきましょう。

まず、「十二使徒」を読んでください。
『完訳グリム童話Ⅱ』小澤俊夫訳/ぎょうせい

PDFはこちら⇒十二使徒

写真のほうが見やすいかたはこちらをどうぞ。

グリムはこれを聖者伝だとしていますが、冒頭から、場所、人物を不特定に語り、細かな描写を排してストーリーを速いテンポで進めています。また、全てのものが金と銀と水晶でできているというように、昔話の好む固い物、極端なものが登場します。
そして、時代は救世主誕生の300年前と限定しているように見えますが、300という数は、いばら姫の100年と同じく、端数のない丸い数字です。聖者伝や伝説が、細かい端数によって事実であると信じさせようとしているのとは、趣が異なっていますね。

つまりグリム「十二使徒」は、復活という奇跡がテーマではあるけれど、語り口は昔話です。
昔話になったとたん、奇跡は、伝説のように不気味でも不思議でもなくなり、聖者伝にみられるような輝かしい信仰は問題にされなくなります。
事物、人物、事件など、あらゆるものが純化作用によって中身を抜かれて軽くなり、伝説や聖者伝の重さがありません。

リュティ氏は、昔話の語り口について、とっても興味深いことを説明しています。
これって、《昔話の語法》にもあるんだけど、もう一度考え直すチャンスです。
いきます!

昔話の無時間性
昔話は、時を無視することによって、時に打ち勝つ。
時を無視する?たとえば?
@昔話には若者も老人も出てくるが、老化現象は描かれない。
@魔法の品は、課題を果たすために必要なときに役割を務めるだけで、けっして相続されない。
@魔女が主人公の目をえぐりだしても、数年後にはめ込まれる。目は腐っていない。
@昔話が金銀ガラスなど金属や鉱物を好むのは時の経過によって変化しないものだから。
昔話というものは、うつろわない世界を描くものである。

昔話の奇跡
昔話の主人公は奇跡や魔法に驚かない。まるで分り切った事のように受け入れる。
例えば、森の獣は主人公を怖がらせることはあるけれども、獣が口をきいたとたん、主人公はこわくなくなる。
彼岸の人物は、ストーリーの中で敵か味方かのどちらかとして登場する。その存在自体が恐怖であったり(伝説)歓喜を起こしたり(聖者伝)するのではない。
不思議なことは、いのちを養う空気のようなものとなってストーリーにいきわたっているから、わざわざ取り上げられることはないというのです。

もし、わたしたちが、昔話(再話本・再話絵本)を読んでいて、時間の経過が描かれていたり、奇跡に驚いたりしていたら、それは偽物です。

まとめ
聖者伝は奇跡を讃え、伝説は奇跡を恐れ、昔話は奇跡を奇跡と思わない(*^▽^*)

はい、おしまい。

 

 

 

昔話絵本雑感📚

絵本は好きなんですよ。
絵画自体も好き。美術展でぼ~っと観るの好き。

ただ、昔話絵本で好きなのはあまりないんですよ。
嫌いじゃないんだけど。
グリムにしても日本の昔話にしても、絵本じゃなくて読みたい、聞きたいって思うの。

昔話大学で、昔話絵本について学んだとき、よい絵本として、ラチョフの『てぶくろ』・マーシャブラウンの『さんびきのやぎのがらがらどん』・佐藤忠良の『おおきなかぶ』の三冊を取り上げていました。
なぜ良いのか、理由は分かりました。
でも、個人的に、感性的に、好きとは言えない。
絵で遊べる『てぶくろ』はまあまあ好きだけど。

ところで、ウラジミール・プロップ『ロシア昔話』にこんなことが書いてありました。
昔話を絵画にすることは原則として不可能であると私は考える。
おお~!
なんでや!
なぜなら、昔話の中のできごとはいわば時間や空間の枠外で生じるが、絵画はそれらのできごとを現実の、目に見える空間に移すからである。

だから、絵にしてしまうと、昔話はたちまち昔話ではなくなるって。
いくらすばらしい挿絵であっても、それは絵画として完結していて、昔話ではないって。

そうなのだ。
やっとすっきりしましたψ(`∇´)ψ

確かに、ロシアには、ビリービンとか、ラチョフとか、素晴らしい画家の挿絵がある。
ババ・ヤガーやどくろを持ったワシリーサの絵なんか見ほれるくらい。
でもだからといって、ストーリーとは別物だって感じていたのね。
絵画として完結してるんだ。

わたしはね、超微力でも、昔話を未来に伝えることをしたいって夢を持っている。
絵本という媒体は、子どもにとって身近だ(と多くの大人が思っている)けれど、わたしはその方法を取らない。
聴くための再話をこつこつと続けていこう~q(≧▽≦q)

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今日のホームページ更新は《日本の昔話》
こわいはなし「こんな顔」
ふふふうふ