5月日常語

ぽんです。
また、夜中の投稿となりました。
一昨日の金曜日(5/15)は日常語勉強会でした。
語り・・・なし
テキスト
「あめは毒」
「つぶ婿」
「桃太郎」
「とら猫と和尚さん」
今回テキストで出されたお話の出典は、全て
福音館書店刊「日本の昔話 全五巻」 小澤俊夫/再話です。
さて、今回は語られた方ゼロ、テキストの方4名
ということで、時間的に余裕のある勉強会となりました。
が、、、濃ーーーい内容でした。
何がって?
『和尚さん』か、それとも『和尚さま』か。
「とら猫と和尚さん」でのこと。
このお話、ご存じですか?
主人公はお坊さんとそのペットの猫のとら。
まず、定石通り、地の文で主人公のお坊さんのことが説明されます。
貧乏だとか、なんだとかね、その時の表記は『和尚さん』。
で、ストーリーが動き出します。
この間ずっと『和尚さん』
そして、お話の丁度半分ぐらいのところで、
主人公のお坊さんが飼い猫のとらの夢を見ます。
とらは夢の中で主人公のお坊さんに語りかけます。
『和尚さま、和尚さま。・・・。』  この時の表記は『和尚さま』
とらの台詞が終わると、また、地の文で『和尚さん』
そして、ストーリーは佳境に入ります。
とらの言葉通り、地主の娘が亡くなり、葬式が出されます。
地主ですから、大きいお寺の偉い坊さんが呼んでこられます。
この時の表記『りっぱなお寺のえらい和尚さま』
その後、とらの言葉通りにストーリーが展開していきます
(ああ、これは、出来事により言葉の繰り返しですね。語法どおり!)
で、近所のばあさんの台詞
「もう一人、貧乏寺に和尚さまがおる」 この時『和尚さま』
地の文に戻って『和尚さん』
そして、とらのお陰で奇跡が起こります。(そない、たいそうやないねんけどね)
すると、地主が感謝して言います。『こんなにりっぱな和尚さまを・・・』
そして、地の文『和尚さん』
あれあれあれ、『和尚さん』だったり『和尚さま』だったり・・・。
同じ人物を表すのにね。そして、よその寺の偉い坊さんは『和尚さま』
うーーん。みなさん、どう考えます?
台詞を言ってる人物が、主人公のお坊さんのことを尊敬しているときには『さ
ま』付け。
でも、地の文では、主人公のお坊さんことは『さん』
尊敬してないから? 
主人公のお坊さんとは別の、よその寺の偉いお坊さんのことは『さま』付け。
これは、なぜ?
大きい寺のお坊さんだから、尊敬されてるん?
ん?あれ?
尊敬しているのは、誰?
語り手?それとも、これを再話した再話者? 聞き手? 読者?
ん?
ところが、ところが、この原話となっている「鈴木サツ全昔話集」でサツさんは
全部『おっしょさま』
でも、原話の題では「和尚さん」だし、CDでもナレーターは題名を「和尚さ
ん」と言ってるんだって。
この違いに気が付いて「なんや、しっくりこんなぁ」と言い出したのはヤン先生
でした。
(ものすごい、大阪弁やね)
だってね、地の文であれ台詞であれ、語ってるのは一人なんですよ。
尊敬したり、しなかったりしないでしょ。いつも一定のはずですよね。
だって、サツさんは「おっしょさま」一つなんだから。
では、『さん』だったり『さま』だったりするのは、誰の意図?
その意図は再話の文章の中に表してもいいの?
結論は、、、もちろん、、、でません。
再話者に、質問もできないし・・・。
(質問みたら、という声も聞こえてきますが・・・そんなん聞かれへんやん。)
皆さんはどう考えますか?
ちょっと説明がわかりにくかったかも・・・。
福音館書店出版『日本の昔話4 さるかにかっせん』に入っています。
一度読んで、確認してみて下さい。
そして、皆さんの考えをお待ちしています。
ぽんでした。

12 thoughts on “5月日常語

  1. お~てらの おしょさんがぁ
    か~ぼちゃの た~ねを
    ま~き~ま~し~た
    ぷっとこいて ぷっとこいて
    ぷっ ぷっ ぷ
    もひとつおまけに
    ぷっ ぷっ ぷ
    か~き~の~ た~ねっ
    ということで 全部
    「おしょさん」でどうですか?

  2. 連続投稿すみません。
    サツさんも全部「おっしょさん」ってことだし、言い変えなくてもいいんじゃないかな、と思います。
    子どもにとっちゃ、お坊さんはお坊さんでいいのではないでしょうか。
    だから、私なら「おしょさん」で。

  3. かぶさん
    『言い換えなくてもいい』理由は、原話の語り手であるサツさんが、『おっしょさま』だけしか使っていないから?
    では、一旦再話されたお話から日常語のテキスト作る場合、
    再話者が使い分けている意図を、無視してもいい?
    どうでしょう。
    勉強会では、『さま』と『さん』を使い分けるかどうか、結論は出ませんでした。
    それは、使い分けるとしたらその理由、使い分けないとしたらその理由、
    そのどちらにも納得できる点と納得できない点が

  4. ああ、また・・・。がっくり。
    えっと、要するに、どっちにも100%納得できることはなかったんです。
    全員一致で「そうよね」とはならなかった。
    で、そのテキストをやった人に委ねられた。
    「貴方はどう思う?貴方はどうする?」って。
    ちょっと勉強会では考えすぎやったんかもね。
    かぶさんみたいに「聞き手の子供にとっては『さま』だろうが『さん』だろうが関係ない。お坊さんはお坊さん」とスパッと割り切った方がいいのかもしれませんね。
    まあ、いろいろ考えるのがよろしい、ということかな。
    他の方はどうおもいますか?

  5. 今回、「とら猫と和尚さん」のテキストを出したジミーです。
    原話の『鈴木サツ全昔話集』のCDは、「虎猫と和尚さま」と、アナウンサーがタイトルを言っています。
    サツさんは前編通して“おしょさま”と、語っています。
    福音館書店の『日本の昔話』は「とら猫と和尚さん」で、ぽんさんが書いてくれた様に、テキストのなかは“さん”と“さま”が混在しています。
    混在している理由は、ヤンさんが言ってくださった、場面場面で書かれている視点が違うからということで納得いたしました。
    それをふまえた上で、みんなで話し合って結論が出なかったのは、でもサツさんがかたっておられるように、この場合は、語り手の視点が入っても、いいんじゃないかということでした。
    経験が少なくて、正直私にはわかりません。
    でも、こっちにしたいというのは即座に出ました。
    私は、鈴木サツフリーク!
    しかし、この話はこれからおぼえるので、もうちょっと自分の結論出すのは後にします。

  6. あほな事思いついたんで、書かせて下さい。
    和尚さん→役職名
    和尚さま→その役職の人を呼ぶ時
    例えば、
    和尚さん→会計
    和尚さま→会計さん みたいな。
    会計と会計さんに置き換えて「とら猫と和尚さん」を読んでみると…
    むかし、あるところにひどく貧乏な会社がありました。会社にはお得意さんもないので、会計に計算を頼みに来る人もいませんでした。会計は、する事はなしお金はなし、窓際でがくらー、がくらーといねむりばかりしていました。それで、村の人たちはその会計のことを「いねむり会社の会計さん」とよんでいました。
    ね、なかなか意味通るでしょ?
    一人で読んでて楽しくなってきました。
    あ、みんな怒らないで…

  7. ぽんです。
    問題となっているのは、
    このお話のように、原話の語り手が語った時には無かったある種の区別(具体的にいうと「和尚さん」と「和尚さま」の区別)を、再話者が意図的に入れていると分かった場合、
    日常語に書き換えるにあたって、
    ①再話者の意図的な使い分けをそのまま用いるのか、
    或いは、それが原話にないとわかっているのだから、
    ②その意図的な使い分けを用いないのか、
    ということですね。
    かぶさんのおっしゃるように、確かに、呼称としての「和尚さま」、総称としての「和尚さん」の使い分けは、このお話の中に見られます。
    でも、それだけではなく、村人が感じている身分の違い(りっぱな寺の坊主か、貧乏寺の坊主か)によっても、「和尚さま」と「和尚さん」が使い分けられています。
    その使い分けが、原話の語り手によってなされたものではない、ということです。
    明らかに、再話者の意図。
    これは、再話する際にも言えると思いますが、どこまで、再話者の意図を入れても良いのか、ということですよね。
    私は大変難しい問題を突きつけられていると思っています。
    グリム兄弟は、ある種の意図をもって、原話を書き換えて、グリム童話を完成しています。
    それは、グリム兄弟の立場、グリム童話=子どもと家庭のメルヒェン集を出版した意味を考えれば、当然の書き換えといえると思います。
    でも、そういった宗教的、また、国家的意味などとは全く関係なく、再話したり語ったりする私達は、原話にない意図をそこに入れても構わないのか、ということです。
    どこまで、原話に忠実にするのか…。
    難しい問題だと思います。
    今の私には、結論などでません。

  8. なるほど。
    もっともっと深く難しい問題だということですね。
    でも、でも。
    ことば って生き物ですよね?
    子どもも今を生きてる。語る私達も今を(ちょっと前から)生きてる。
    今の子どもたちに分かりやすくて、ぴったり合う ことば ならば、変わっていくのは、自然なことなんじゃないかなぁ?
    実際の伝承の現場でも少しずつ変わっていくんじゃないかなぁ?それこそ再話しながら語る?ような事…
    長い歴史のなかで、ことばって少しずつ変わっていってるんですよね?
    サツさんが語った時
    再話されて本に入った時
    今、現在のこどもたちに語る時
    変わっていったらダメかなぁ?…
    今の子ども達、多分全部「お坊さん」…うちの息子なんかでも実際「おしょうさん」「おしょうさま」呼んだことないと思う…おはなしの中や、わらべうた(一番最初のコメントに書いたヤツ)「おてらのおしょさんがかぼちゃのたねをまきました…」
    だから おしょうさん でいいかなぁ~って思いました。

  9. 再話者の意図 これから再話の勉強を始める私にとっては すごく興味深いことです。
    以前 受けた 再話比較勉強会のとき 再話者の意図が 入るのは よくないように 聞いたと
    思います。 原話が わかっていたら それは入れない方が いいのではないでしょうか?

  10. 小澤先生は、「私たちは、伝承の途中にいる」と、おっしゃいましたよね?
    言葉が自然に変わっていくのと、原話を今の言葉に変えるのは、同じに考えるのは、私は怖いです。
    鈴木サツさんは、普段は「鈴木サツ全昔話集」の様な言葉は使われていなかったけれど、サツさんにとっては父親から聞いた話が昔話なので、今の人には理解できない言葉だとわかりながら、どうか分かってくれますようにと思いながら、語っておられたらしいです。
    私がフリークなのは、これに痺れたからというのも理由の一つです(≧∇≦)
    伝承の途中にいるから、出来るだけサツさんの話をそのまま子供たちに伝えたいなあと思います(^-^)/

  11. ジミーさん
    私も、言葉が自然に変わっていくのと、原話を今の言葉に変えるのとを、同じ次元で考えるのは違うように思います。
    ジミーさんの「『私達は伝承の途中にいる』のだからこそ、サツさんの話をそのまま子ども達に伝えたい」という気持ちは、よくわかります。
    でも、ここで考えないといけないのは、「できるだけ話をそのまま伝える=原話に忠実に再話する(まるで翻訳みたいに…)」ではない、とうことです。
    あっ、ジミーさんがそんなこと言うてると思ってるわけではありませんよ。
    それから、「再話者の意図が入るのはよくない」ということですが、これも、それがどんな意図なのかにもよると思うんです。
    今回のケースなどは、小澤先生のこの再話を目で読んでみると、もし、全部が「和尚さん」だったら、話がわかりにくくなる危険性がある。
    だから、多分、話の筋を分かり易くするために、小澤先生は「和尚さん」と「和尚さま」を区別して再話されたんだと思うんです。
    それと、この問題が日常語の勉強会で出た、ということも考えないとあかんよな、と、私は思っています。
    再話の勉強会で出たのでは、ない、ということ。
    再話の勉強会で出たのであれば、再話者がどの言葉をチョイスするのか、考えて文章を作っていきます。
    でも、日常語勉強会では、既に再話されている、つまり出来上がっている文章を、語り手が自分の言葉に変えていくことを目的にしています。
    そのことも合わせてこの問題を考えていかないとあかんのでは、と思います。
    日常語勉強会に来られている方、これから再話勉強会に参加される方、「自分ならどうするか」、それぞれ考えてみてください。
    答えは、それぞれ違うと思うし、また、その一人一人がお話一つ一つによっても変わってくるのでは、と思います。
    それぞれの問題。
    それぞれが、どんな立場にたって、再話したり語ったりするのか、それを、考えてみてください。それが、問われていると思います。
    きっと、そんな、簡単には答えはでませんよね。
    ヤン先生だって、迷ってるって言うてはるんやし。

  12. みなさま、言葉を尽くして丁寧に説明して下さりありがとうございます~!ようやく、論点が見えてきました。
    (え?今?!と思ったでしょ~。そうです。今 ですよ)
    再話と日常語、これからも考え続けたいと思います。
    また、アホな事を言いだすかもしれませんが、さじ投げないでね~
    私はずっ~と
    『おてらのおしょさんが~』って
    頭ん中で廻ってる…
    もう、ええって?

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