う、シビアな話題、と思ったあなた。
ご期待にお応えしましょう。
集団の中で孤立するというと、ひりひりするような感覚に襲われます。
はみ出しっ子になりたくない、無視されたくないと思うからです。
わたしは子どものころ、ときどき、孤立しました。
いつも、やりたいことへの情熱が強かったので、まわりの空気を読むゆとりがなかったからです。
気がつくとひとりになっていたってことが、ままありました。
大人になるにつれ、情熱はますます強くなりましたが、類は友を呼ぶ。いっしょにやると面白いという仲間ができました。
それに、表面上うまく付き合うすべも知りました。
いまは、やりたいことをやって孤立するのと、自分をごまかしてうまく人とつき合うのと、どっちを取るってきかれたら、迷わず孤立ですね~
いまHPで、「昔話の語法」で孤立性について書いています。読んでくださってますか? (→こちら)
昔話の主人公は孤立的存在である。だから何とでも結びつくことができる。
とっても逆説的な考え方だけど、わたしにはよくわかるのです。孤立した経験が多いので。
わたしはひとりの人間として自立しているって常に自覚していて、大事なことに直面すると、ぎゅっと凝縮されたように心が孤立するのです。
そんなときは、たとえば相手がどんな人であれ、自分と同じ平面上に立っていて、一対一で向き合うことができるのです。
孤立するのはつらいです。
でも本質的なものを手に入れるためには、ひとりにならなくっちゃ。
孤立はさみしいですね。
でもひとりでいた方が新しいこと、新しいひとと出会えるときもあるし、その方が気楽に自由に動けるときもある。
孤立を知るからこそ、人はひとりでは生きられないってことを知れるのかも。
昔話も主人公は孤立して旅に出るけど、協力者が出てきたり、試練を与えるものが出てきたり、最初から最後までひとりきりで旅を終えることはない。
孤立してるからこそ、本質を知れる。
うーん、
これ、哲学みたいや。
うん、昔話の語法って哲学なの。
よ~~~く考えるとね、昔話って、人間の真実を語るファンタジーでしょ。
読み物も映画も何にもなかった何千年もの間、人間は自然の中で生き抜く知恵を口伝えするしかなかったのです。
薬草の見つけ方とか屋根の葺きかたとか、みな口と手で伝えた。
そして、もっと抽象的な生きかたとか神様とか心の在り方は、おはなしで伝えたんですね。
神様のことは神話で。土地のことは伝説で。
そして昔話は、生きる知恵をファンタジーの形で伝えた。
その昔話の形をいま私たちは「昔話の語法」として学んでるのね。
だから、語法は哲学なの。
それと、孤立は寂しくないよ。厳しいけど。
孤立するから援助者から奇跡の贈り物をもらえるのだ!
寂しいと感じたら孤独になって、奈落に落ちていく~~~~笑
そうか、孤独と孤立は違うんや∑(゚Д゚;)
そうそう、そうなのです。
わたしは、決然とした昔話の主人公が大好きです。
あんなふうに生きたいなと思います。
そして、長いこと生きてきて思うのは、人生は昔話と同じ。
苦難や難題につぎつぎぶつかります。
そしてかならず、援助者が現れます。
後になってふりかえると、援助者は、わたしにとって一番必要なときにぴたりと現れているのです。そう、状況の一致。
援助者からの贈物は、わたしにしか使えない奇跡の贈物です。
( あ、贈物についてはまだアップしてないですね、ちょっと待ってくださいね~ )
びしっと孤立して、不完全な自分をいつわらずに、まっすぐ前向いて歩いていくと、最後は幸せな結末を迎える。
昔話の主人公のように。
と信じて生きていきたいし、「だから、大丈夫だよ」って、子どもたちに伝えたい。
孤立バンザイ。孤立は孤独じゃないよ。
ひとりになって、しん、と考えよう、自分を信じていいだよって、子どもたちに伝えたいと思うのです。
ヤンさん
もっちさん
なんか、世間話の様相で、さらっとものすご~く深い話になってますね!
哲学ですか!
難しいことは分かりませんが、何となく分かります(=^_^=)
現実世界が昔話の一場面とピッタリ合うときがありますもんね。
そうか、いつも群れていては本質が見えないのかな~?
ところで、たまに山にこもりたくなるのは、単にわたしが逃避したいだけですよね。
孤立とは違うな…
失礼しましたm(__)m
山にこもって、自分を解放して、自分ひとりを相手にしばしすごしたい。
逃避やね、夢のような逃避、したい~!
行くなら白山。ヒマラヤ。
伊吹山でもいいよ~