マックス・リュティ『昔話の本質』報告
第6章動物物語―自然民族の物語 つづき
今日は、動物物語ではありません。
「自然民族」の物語が、どれほどヨーロッパの昔話とちがっているかということについて書かれています。
例として、東アフリカ・バンツー族に伝わる「ムリーレの話」が挙げられています。
とっても長い話で、しかも原話の全文が不明なので、リュティさんによる抜粋からあらすじを紹介します。
印象的な会話文はそのまま写しています。
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ムリーレの話
あるところに、三人の息子がいた。
ある日、長男のムリーレが母親といっしょにタロイモをほりに行って、ひとつのイモのかたまりを見つけた。
「おや、このかたまりはぼくの弟みたいにきれいだ」
母親は、
「イモのかたまりが人間の子みたいだなんて、あり得ない」といったけど、ムリーレは、それを木のうろにかくし、
「ムスラ、クィヴィレ=ヴィレ、ツァ、カンビング、ナ、カサンガ」といった。次の日、そこへ行くと、イモは人間の赤ん坊になっていた。
ムリーレは、毎日、自分の食事を赤ん坊の所に運ぶ。
ムリーレがどんどんやせていくのを母親は心配する。
弟たちが、ムリーレの行動に気付いて、跡をつけ、理由を知る。
弟たちが、母親に、兄が木のうろに子どもをかくして育てていることを告げると、母親は、その赤ん坊を殺す。
ムリーレが食べ物を運んでいくと、赤ん坊は殺されている。ムリーレは、家に帰って泣き続ける。
「ムリーレ、どうして泣くのか」
「煙のせいです」
その問答があって、まわりの人が、
「煙いのなら、お父さんの椅子をもって中庭へ行きなさい」という。
ムリーレは、椅子を中庭に持って出て泣き続ける。ムリーレは言う。
「椅子よ、のぼれ、お父さんが森や草原でみつのつぼを掛ける綱のように、高く登れ」
すると椅子は高く登って、木にひっかかった。さらに言う。
「椅子よ、のぼれ、お父さんが森や草原でみつのつぼを掛ける綱のように、高く登れ」
弟たちが見つけ、みんなが中庭に出てくる。
母親がさけぶ。
「ムリーレ、帰っておいで
息子よ、帰っておいで
帰っておいで」
ムリーレは答える。
「もう帰らない
もう帰らない
おかあさん、わたしはね
もう帰らない
もう帰らない」
弟たちがさけぶ。
「ムリーレ、帰っておいで
兄さん、帰っておいで
帰っておいで
うちへお帰り
うちへお帰り」
「わたしはね
もう帰らない
もう帰らない
弟たちよ
もう帰らない
もう帰らない」
父親がいう。
「ムリーレ、これはおまえの食べ物だ
これはおまえの食べ物だ
ムリーレ、ほらこれだ
ムリーレ、これはおまえの食べ物だ
これはおまえの食べ物だ」
「もうほしくない
もうほしくない
お父さん、わたしはね
もうほしくない
もうほしくない」
親戚の人たちが歌う。
「ムリーレ、うちに帰りなさい
うちに帰りなさい
ムリーレ、さあ
うちに帰りなさい
うちに帰りなさい
ムリーレ、さあ」
おじさんが歌う。
「ムリーレ、うちに帰りなさい
うちに帰りなさい
ムリーレ、さあ
うちに帰りなさい
うちに帰りなさい」
ムリーレは歌う。
「わたしはね
もう帰りません
もう帰りません
おじさん、わたしはね
もう帰りません
もう帰りません」
そして、ムリーレは消える。
ムリーレは旅を続け、たきぎ取りの人たちに出会う。
ムリーレが月の王さまの所への道を尋ねると、たきぎ取りたちは、
「薪を少し集めてくれたら教えてあげよう」という。ムリーレがその通りにすると、
「どんどん歩いて行くと草を刈っている人たちに出会うから、教えてもらいなさい」と、教えてくれる。
ムリーレは、草刈り人を手伝い、それから、家畜の番人の手伝いをし、豆を取り入れる人、きびを刈っている人、バナナを探している人、水をくみに行く人達に出会い、それぞれの仕事を手伝う。
ようやく月の王さまの国に着く。
月の国では、食べ物を煮ないで食べていたので、ムリーレは、火の起こし方と料理の仕方を教えてやる。月の王さまはお礼に、ムリーレに牛の群れをくれる。
ムリーレは、牛たちを連れて家に帰って行く。とちゅうで一頭の雄牛が、ムリーレを背中に乗せてくれて、
「わたしが殺されたら、おまえはわたしを食うか」と尋ねる。
「いや、ぼくはおまえを食わない」と、ムリーレは答える。
ムリーレは歌う。
「欠けているものは何もない
この家畜はぼくのもの、ばんざい
欠けているものは何もない
この牛たちはぼくのもの、ばんざい
欠けているものはなにもない
小さい家畜はぼくのもの、ばんざい
欠けているものはなにもない
ムリーレが来た、ばんざい
欠けているものはなにもない」
ムリーレは両親に、自分が乗ってきた雄牛が年をとって殺されても、自分は牛の肉を食べないと告げる。
やがて、雄牛が殺されると、母親は、
「息子がめんどうを見たこの雄牛を、あの子はひと口も食べないで、ほかの人が全部食べてしまってよいものだろうか」と考え、牛の脂肪をこっそり隠しておく。
あるとき、母親は粉にその脂肪を入れて、食事に出す。ムリーレが食べると、
「おまえはやっぱり私を食うのか。私はおまえを背中に乗せてやったのに。それでは、おまえが私を食うように、おまえも食われてしまえ」と聞こえる。
ムリーレは歌う。
「おかあさん、言ったじゃありませんか、
あの雄牛の肉はぼくにくれないでって」
ムリーレがもうひと口食べたとき、足が土に沈んだ。
ムリーレは歌う。
「おかあさん、言ったじゃありませんか、
あの雄牛の肉はぼくにくれないでって」
ムリーレは粉をすっかり食べてしまう。とつぜん、ムリーレは、土に沈んでしまった。
これで話はおしまい。
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タロイモのかたまりに魂を吹き込むことについて、リュティさんは、第5章で見た、人形に命を吹き込むモティーフと重ねて考えます。
牧夫の伝説やシミグダリ氏の昔話のような傲慢さや自己恋愛はなく、ムリーレ少年の自然物に宿る神への感性が描かれていると。
さらに、月の国に火を伝えるモティーフでは、ムリーレが文化をもたらすものとして描かれている。
このように、ムリーレは、人間の創造者であり、火と文化をもたらすものであり、さらに悲劇的な没落を遂げる、この点でムリーレはギリシャ神話のプロメテウスに似ているといいます。
ただ、プロメテウスは巨人族の一族ですが、ムリーレはそれに比べて幼く弱々しく、最初から悲しみに覆われています。それだけに感動をもたらします。
また、ひとりの少年の心の中のことして解釈すると、タロイモの赤ん坊は少年の自立的な生命力で、それは圧倒的な母性によって消滅させられます。けれども、父(椅子、綱)に導かれて、月の世界(無意識の領域)へ旅します。そこで農耕をし、牧畜を経験する。意識の領域にもどってきますが、この大いなる旅を経験した後でも、少年は決して卓越した存在にはなっていません。母の束縛によって破壊されます。
リュティさんは、この話は、発達あるいは発展せんとする意志、創造的な行為と破壊的な行為、犠牲、苦悩、喪失、恩恵と天分、富と幸福、上昇と下降、没落が問題にされているといいます。それらが、ごたごたと無秩序に入り乱れていると感じています。ヨーロッパの昔話のようには整理されていないと。
ジャンル的に言っても、神話のようで伝説のようで、昔話のようで。でも歌のやり取りは演劇のようです。総じて自然民族の間に純粋な昔話を探すとなると、大変骨が折れる。
でも、私自身はこのような話にとても心惹かれるし、理性で割り切れないところに魅力を感じます。
はい、おしまい。
次回は第7章ラプンツェル。