マックス・リュティ『昔話の本質』報告
第8章謎かけ姫ー策略、諧謔、才智 つづき
昔話は、人物の感情や気分、内面の葛藤、思考の経過を述べないで、すべて行為で表します。
例えば、「親切」という性質は、「大変思いやり深いやさしい親切な性格でした」と言葉で説明するのではなくて、「貧しいおじいさんにパンを分けてやる」という行為で表すとか。
昔話は、出来事を心理化しないで、純粋明瞭に事件として描くので、他のジャンルにはない透明性と明るい輝きがあると、リュティさんは言います。
謎をかける、謎を解く、というモティーフも、頭脳の激しい争いを出来事として表していると言えます。
シラーは、「トーランドット」の中で、なぜ謎をかけるのかということをトーランドット姫に語らせています。
こんな具合です。
アジヤ全体を通じて女性は卑しめられ、奴隷のくびきをかけられています。私は侮辱された同性の恨みを、威張っている男性に向かって晴らしたい。男性がやさしい女性にまさっている点といえば粗暴な力だけではありませんか。私の自由を守るために自然は武器として私に独創的な頭の働きと鋭い知力を与えてくれました。私は男のことなど知りたくもありません。男を憎み、男の高慢とうぬぼれを軽蔑します。
すごいな。なんだか、とっても現代的ですね~
シラー(1759-1805)っていったら、第九の歌詞「歓喜の歌」の元を作った人ですよ~
ああ、今年は第九は歌えないな。コロナやもんな。哀しいな〒▽〒
はっ!
気を取り直して!
そう、フリードリッヒ・シラー。あの時代にこんなことを言う女性を描いた。
リュティさんは、それはすごいんだけど、シラーのは昔話ではない、といいます。
シラーのトーランドット姫は、ひとりの個性ある人間、特殊な問題と才能を背負った一個の人間だと言うのです。その意味で、この人物の本来意味しうる範囲を狭めてしまっていると。
じゃあ、本来の昔話ならどうなのか。
昔話ではトーランドット姫は単なる役柄に過ぎない。もちろん、姫は内面的な必然性に促されて行動するんだけど、その行動の理由をこんなふうに説明することはないのが昔話です。
トーランドット姫とは、人間ととることもできるし世界の象徴ととることもできる。世界は人間に難題を課し、人間が解決しそこなえば、人間を滅ぼしにかかるものだと考えることもできる。
それが昔話。
どの時代にもどんな思想の人々にも、性別も関係なく、普遍なのね。
わたしは、そういう昔話が好き。
今危機があるとして、ああ、これはあの話のあれだなと、ふと悟る。それが救いになる。
この普遍性がないと、どうして200年も昔にドイツやロシアで書き留められたストーリーに癒されることができるでしょう。
はい、きょうはここまでですよ\( ̄︶ ̄*\))