月別アーカイブ: 2020年8月

ラプンツェル2👱‍♀️👱‍♀️

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第7章ラプンツェル-昔話は成熟の過程を描いたものである つづき

マルタ島の「ラプンツェル」類話。
グリムでは、娘が12歳になったときに魔女が連れ去りますね。ところが、マルタ島の話では、娘が学校に行くようになって、通学途中に魔女に出会います。
こんなふうにです。↓

マルタ島の別の類話では、おばあさんは、忘れん坊の娘の指と耳をかみ切ります。
ひえ~っ(゚Д゚*)ノ
いかにも昔話。切り紙細工のような語りです。昔話の平面性。

そののち、娘は塔に連れていかれ、そこで魔法を習う。
この塔での生活は幸せで、すばらしく、魔女は娘を大切にしてかわいがります。

あるとき、美しい若者が、娘の髪を伝って登ってくる。
娘は驚くけれども、結局は駆け落ちします。

ふたりは逃げ出し、魔女が追いかける。けれども、娘の魔法で、魔女は死ぬか、娘を連れ帰れずに終わる、もしくは、仲直りする。

これが、本来の「ラプンツェル」の基本形だそうです。

こうして見ると、娘は、「両親の保護のもとにいるとき」「魔女とともに塔で魔法を習っているとき」「恋人を得て魔女から逃げ出すとき」と、3段階を経て成長しています。
そして、それぞれの段階は、「野菜を欲しがった母親が魔女と契約する」という危機から始まり、「通学途中、魔女につかまる」「駆け落ちする」という危機があって、次へと進んでいます。
結末で若者と結ばれます。

リュティさんは、この「ラプンツェル」基本形から、「ラプンツェル」は発展の段階を描いたものであるといえると言っています。
発展は、いくつかの段階を経て行われ、ひとつひとつの移り目に危機と困難と不安が結びついています。けれども、危機は克服されるし、発展は明るい世界へ伸びていきます。

人間は、現に今持っているものをしっかり握りしめていようとするものです。それを手放すには勇気がいる。どんな恐怖が待ち受けているかわからない。それでもあえて前進することで、古いものは後にとり残されて、ますます豊かな充実した生活を手に入れることができる。

すばらしいテーマです(●’◡’●)
ロマンチックなグリムより、ずっと明るく、主人公は力強い。

魔女について、リュティさんは、こう言います。
昔話に出てくる魔女や悪魔や悪漢は、子どもにとっては悪の象徴である。子どもはそれらの姿を通じて悪の危険を体験する。それからまた、悪は負かされること、それどころかひょっとすると悪は変えられるかもしれないことを体験する。

これって、大事ですね。
子どもが怖い話が好きっていうのは、空想の中で危険な力との対決を求めているのであって、それは真実で正当な欲求だと言います。

赤ずきんの狼然り、ヘンゼルとグレーテルの魔女然り。
昔話は写実的でなく様式化されて描かれているから、魔女は「現実にいる悪い人」ではなくて「悪の象徴」として、子どもは感じ取ることができる。
赤ずきんもヘンゼルも、悪そのものに打ち勝つわけです。

そう考えると、魔女や悪者の話を語ることは、決して避けてはいけないとわかりますね。

はい、次回は、滑稽(こっけい)な「ラプンツェル」です。

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ラプンツェル基本形、再話したいなあ。
ねえ、語りたいと思わない?

 

 

ラプンツェル👱‍♀️

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第7章ラプンツェルー昔話は成熟の過程を描いたものである

リュティさんが、ラプンツェルの類話を比較して、実はこんな話なんですよと、披露してくれてるのが、この章です。
みなさん、ラプンツェルといえば、とってもロマンチックで、シリアスなおはなしって思いませんか?
この章を読めば、そのラプンツェル観がころっと変わると思います(ง •_•)ง

まずは、どんなはなしか、手持ちの完訳本で確認してください。おはなしひろばにもあります(こちら⇒

グリムの「ラプンツェル」は、初版は兄のヤーコプが書き、後の版では弟のヴィルヘルムが手を入れています。
リュティさんは、初版が簡潔で引き締まっていていいと言います。後の版でいろいろ付け加えたり、変えたり、飾り立てたりしているけれど、それが必ずしも良い結果にはなっていないとも。
ただ、一点だけ、初版では「仙女」だったのを、ヴィルヘルムが「魔女」に変えているのは、グッジョブだそうです。
というのは、この話はもともとドイツのものではなくて、地中海沿岸が故郷だそうです。で、地中海に伝わっている類話をみると、このおばあさん、はっきり魔女の特徴をそなえているのです。
ギリシャではドラキンと呼ばれていて、人食い魔女です。

というわけで、地中海に残る類話を、次回から読んでいきます。
ふふふ、ちょっとワクワクですよ(❤´艸`❤)

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おはなしひろば、きのうはグリムの金のがちょうをアップしましたよ~

みなさま、熱中症に気をつけましょう。
コロナと熱中症と。
なんだか目がまわりそう(⓿_⓿)

ウェブおはなし会 №5☀

こんにちは。
ものをいうのも暑い今日この頃です。
そんな中で、5回目のウェブおはなし会が昨日行われました。

プログラム
「トーレ・エッペの幽霊」『語りの森昔話集3しんぺいとうざ』語りの森
「森の王」『語りの森昔話集3しんぺいとうざ』語りの森
「三枚のお札」『語りの森昔話集2ねむりねっこ』(日常語)
「だめといわれてひっこむな」『おはなしのろうそく9』東京子ども図書館
「リカベール・リカボン」語りの森HP →こちら

いよいよ、今年の短い夏休みが始まったようですね。
でも、連日この暑さで、外遊びは避けましょうという連絡が入ってきます。
大人も、子どもも、家にいるしかないんでしょうか?
何年か前なら、わたしは夏休み期間はウェブおはなし会にはとても参加できなかったなと、参加できる今ニタニタしておりますが…

今回も、しばしおはなしを語り、聞く時間が持てて幸せでした。
参加者はヤンさんも含めて11.9人。
0.1欠けているのは、お一人だけ顔が見えず、でもむこうにはみんなが見えているし、声もやり取りできましたので、ほぼオッケイとみなしました(笑)
次回は、8月25日です。
この日はもう、学校は始まっているはず。
学校に着けばクーラーがあるとはいえ、通学路は炎天下🔥
がんばれ、子どもたち!
そして、わたしたちは、屋内でウェブおはなし会で楽しみましょう!

動物物語3🦊

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第6章動物物語―自然民族の物語 つづき

今日は、動物物語ではありません。
「自然民族」の物語が、どれほどヨーロッパの昔話とちがっているかということについて書かれています。

例として、東アフリカ・バンツー族に伝わる「ムリーレの話」が挙げられています。
とっても長い話で、しかも原話の全文が不明なので、リュティさんによる抜粋からあらすじを紹介します。
印象的な会話文はそのまま写しています。

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ムリーレの話

あるところに、三人の息子がいた。
ある日、長男のムリーレが母親といっしょにタロイモをほりに行って、ひとつのイモのかたまりを見つけた。
「おや、このかたまりはぼくの弟みたいにきれいだ」
母親は、
「イモのかたまりが人間の子みたいだなんて、あり得ない」といったけど、ムリーレは、それを木のうろにかくし、
「ムスラ、クィヴィレ=ヴィレ、ツァ、カンビング、ナ、カサンガ」といった。次の日、そこへ行くと、イモは人間の赤ん坊になっていた。

ムリーレは、毎日、自分の食事を赤ん坊の所に運ぶ。
ムリーレがどんどんやせていくのを母親は心配する。
弟たちが、ムリーレの行動に気付いて、跡をつけ、理由を知る。
弟たちが、母親に、兄が木のうろに子どもをかくして育てていることを告げると、母親は、その赤ん坊を殺す。
ムリーレが食べ物を運んでいくと、赤ん坊は殺されている。ムリーレは、家に帰って泣き続ける。
「ムリーレ、どうして泣くのか」
「煙のせいです」
その問答があって、まわりの人が、
「煙いのなら、お父さんの椅子をもって中庭へ行きなさい」という。
ムリーレは、椅子を中庭に持って出て泣き続ける。ムリーレは言う。
「椅子よ、のぼれ、お父さんが森や草原でみつのつぼを掛ける綱のように、高く登れ」
すると椅子は高く登って、木にひっかかった。さらに言う。
「椅子よ、のぼれ、お父さんが森や草原でみつのつぼを掛ける綱のように、高く登れ」
弟たちが見つけ、みんなが中庭に出てくる。
母親がさけぶ。
「ムリーレ、帰っておいで
息子よ、帰っておいで
帰っておいで」
ムリーレは答える。
「もう帰らない
もう帰らない
おかあさん、わたしはね
もう帰らない
もう帰らない」
弟たちがさけぶ。
「ムリーレ、帰っておいで
兄さん、帰っておいで
帰っておいで
うちへお帰り
うちへお帰り」
「わたしはね
もう帰らない
もう帰らない
弟たちよ
もう帰らない
もう帰らない」
父親がいう。
「ムリーレ、これはおまえの食べ物だ
これはおまえの食べ物だ
ムリーレ、ほらこれだ
ムリーレ、これはおまえの食べ物だ
これはおまえの食べ物だ」
「もうほしくない
もうほしくない
お父さん、わたしはね
もうほしくない
もうほしくない」
親戚の人たちが歌う。
「ムリーレ、うちに帰りなさい
うちに帰りなさい
ムリーレ、さあ
うちに帰りなさい
うちに帰りなさい
ムリーレ、さあ」
おじさんが歌う。
「ムリーレ、うちに帰りなさい
うちに帰りなさい
ムリーレ、さあ
うちに帰りなさい
うちに帰りなさい」
ムリーレは歌う。
「わたしはね
もう帰りません
もう帰りません
おじさん、わたしはね
もう帰りません
もう帰りません」
そして、ムリーレは消える。

ムリーレは旅を続け、たきぎ取りの人たちに出会う。
ムリーレが月の王さまの所への道を尋ねると、たきぎ取りたちは、
「薪を少し集めてくれたら教えてあげよう」という。ムリーレがその通りにすると、
「どんどん歩いて行くと草を刈っている人たちに出会うから、教えてもらいなさい」と、教えてくれる。
ムリーレは、草刈り人を手伝い、それから、家畜の番人の手伝いをし、豆を取り入れる人、きびを刈っている人、バナナを探している人、水をくみに行く人達に出会い、それぞれの仕事を手伝う。

ようやく月の王さまの国に着く。
月の国では、食べ物を煮ないで食べていたので、ムリーレは、火の起こし方と料理の仕方を教えてやる。月の王さまはお礼に、ムリーレに牛の群れをくれる。
ムリーレは、牛たちを連れて家に帰って行く。とちゅうで一頭の雄牛が、ムリーレを背中に乗せてくれて、
「わたしが殺されたら、おまえはわたしを食うか」と尋ねる。
「いや、ぼくはおまえを食わない」と、ムリーレは答える。
ムリーレは歌う。
「欠けているものは何もない
この家畜はぼくのもの、ばんざい
欠けているものは何もない
この牛たちはぼくのもの、ばんざい
欠けているものはなにもない
小さい家畜はぼくのもの、ばんざい
欠けているものはなにもない
ムリーレが来た、ばんざい
欠けているものはなにもない」
ムリーレは両親に、自分が乗ってきた雄牛が年をとって殺されても、自分は牛の肉を食べないと告げる。
やがて、雄牛が殺されると、母親は、
「息子がめんどうを見たこの雄牛を、あの子はひと口も食べないで、ほかの人が全部食べてしまってよいものだろうか」と考え、牛の脂肪をこっそり隠しておく。
あるとき、母親は粉にその脂肪を入れて、食事に出す。ムリーレが食べると、
「おまえはやっぱり私を食うのか。私はおまえを背中に乗せてやったのに。それでは、おまえが私を食うように、おまえも食われてしまえ」と聞こえる。
ムリーレは歌う。
「おかあさん、言ったじゃありませんか、
あの雄牛の肉はぼくにくれないでって」
ムリーレがもうひと口食べたとき、足が土に沈んだ。
ムリーレは歌う。
「おかあさん、言ったじゃありませんか、
あの雄牛の肉はぼくにくれないでって」
ムリーレは粉をすっかり食べてしまう。とつぜん、ムリーレは、土に沈んでしまった。

これで話はおしまい。

++++++++++

タロイモのかたまりに魂を吹き込むことについて、リュティさんは、第5章で見た、人形に命を吹き込むモティーフと重ねて考えます。
牧夫の伝説やシミグダリ氏の昔話のような傲慢さや自己恋愛はなく、ムリーレ少年の自然物に宿る神への感性が描かれていると。
さらに、月の国に火を伝えるモティーフでは、ムリーレが文化をもたらすものとして描かれている。

このように、ムリーレは、人間の創造者であり、火と文化をもたらすものであり、さらに悲劇的な没落を遂げる、この点でムリーレはギリシャ神話のプロメテウスに似ているといいます。
ただ、プロメテウスは巨人族の一族ですが、ムリーレはそれに比べて幼く弱々しく、最初から悲しみに覆われています。それだけに感動をもたらします。

また、ひとりの少年の心の中のことして解釈すると、タロイモの赤ん坊は少年の自立的な生命力で、それは圧倒的な母性によって消滅させられます。けれども、父(椅子、綱)に導かれて、月の世界(無意識の領域)へ旅します。そこで農耕をし、牧畜を経験する。意識の領域にもどってきますが、この大いなる旅を経験した後でも、少年は決して卓越した存在にはなっていません。母の束縛によって破壊されます。

リュティさんは、この話は、発達あるいは発展せんとする意志、創造的な行為と破壊的な行為、犠牲、苦悩、喪失、恩恵と天分、富と幸福、上昇と下降、没落が問題にされているといいます。それらが、ごたごたと無秩序に入り乱れていると感じています。ヨーロッパの昔話のようには整理されていないと。

ジャンル的に言っても、神話のようで伝説のようで、昔話のようで。でも歌のやり取りは演劇のようです。総じて自然民族の間に純粋な昔話を探すとなると、大変骨が折れる。

でも、私自身はこのような話にとても心惹かれるし、理性で割り切れないところに魅力を感じます。

はい、おしまい。
次回は第7章ラプンツェル。

 

動物物語2🦊

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第6章動物物語ー自然民族の物語 つづき

前回、大きく強い動物が小さく弱い動物に一杯食わされる話が、自然民族には多いということでした。
きょうもこのグループの話で、チリのアラウカニア族が伝えている話を読みます。

前回ちょっと紹介した大阪の昔話「たにしとたぬき」と似ています。(こちら⇒

でも、「たにしとたぬき」は笑い話なのに、チリの話はどう考えても笑えないことないですか?
自然民族では、このように、強いはずの動物が負けて、最後は殺されてしまう話が多いそうです。
同じく南米のはなしで、亀がジャガーを殺す話を紹介しています。

子亀がジャガーの爪を欲しがる。爪で遊びたいのだ。
親亀が、ジャガーの目の前で、とげのある高い木に登ってころがり落ちる。ケガひとつしない。
ジャガーは面白がって、自分でもやってみる。
ジャガーは、とげではらわたが裂けて死んだ。
カメの子はジャガーの爪で遊んだ。

インディアンの話は多く憂うつである。あるいはまことに苦い味がすると、リュティさんは書いています。

どうしてなのか、考えてみました。
最初にうかんだのは弱肉強食ということば。
自然界では、生きものは人間も含め、共生しているけれど、弱肉強食の世界です。
人間はその中で、弱者として生き延びないといけない。
殺すんじゃなくてただ逃げるという方法が、現実でしょう。
アブがきつねを殺す、亀がジャガーを殺すなんて現実にはあり得ない。
でも、昔話はファンタジーだし、極端に語ります。
聞き手はきっと、わらったと思うし、スカッとしたと思います。
じゃあ、現代人の私たちはどうかというと、ずいぶん自然から遠ざかっているから、この感覚が分からないんだと思います。
生活の土台が違うから、いっぽうでは笑い話なのに、いっぽうでは同じ話を憂うつ・苦いと感じるのではないでしょうか。
ジャガーがはらわたが裂けて死ぬのと、悪い母親がまっかに焼けた鉄のくつをはかされて死ぬまで踊らされるのと、感覚として、どう違うのでしょう。

ところで、「あぶと狐の駆け比べ」はATU275B「キツネとザリガニの競走」に分類されます。
かなり古くから広範囲に伝承されています。北欧を始めヨーロッパ全土、アジア、南北アメリカ、オセアニア、アフリカ。世界じゅうですね(笑)
ぜんぶ集めて結末がどうなってるかリストアップしたい!

さて次回は、動物は出てこなくって、人間の長い物語です。
とっても印象的な話なんだけど、また原話が分からない≡(▔﹏▔)≡

はい、おしまい。