文学における奇跡2👼👼

なんだかとってもおひさしぶりで~す。
あ、でも月曜日には日本と外国の昔話を更新しましたよ~
きょうは、おはなしひろば、「みそ買い橋」をUPしたので、聞いてくださいね~

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マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第10章文学における奇跡つづき

いよいよ『昔話の本質』も今日が最後です。
で、いちばん分かりにくい部分です(笑)

近代になって、科学の発達によって、人びとが物事を合理的に考えるようになると、彼岸の世界との出会い(つまり奇跡)がなくなってきているのではないか、というところから、続きを読みます。

リュティさんは、シェークスピアの研究者でもあります。
それで、シェークスピアが、奇跡をどのように描いているか、「マクベス」で説明しています。
スコットランド王のマクベスは破壊の王です。それに対して、イングランド王は、奇跡の手を持っていて、どんな病人も治すことができる。
イエス・キリストの行った奇跡もほとんどが病人を治すことです。だから、イングランド王の病を治す力は、まことの王であることの証です。
ただ、シェークスピアは、イングランド王を表舞台に出しません。他の役柄(スコットランド人2人と医者)の会話の中に出てくるだけです。観客は、イングランド王の王たるすばらしさを、実際に見るのではなく、細やかな会話から想像するだけなのです。
こうすることで、奇跡をおこなうイングランド王は、観客の心の中だけに現れ、それは、この荒々しい戯曲の中で、闇に輝く光のような働きをしていると言います。
なるほど~。そういう手があるか!
さすがに大作家シェークスピア。と、リュティさんも言います。

闇に輝く光としての奇跡は、今も民衆や作家の心の中に生き続けているとリュティさんは言います。
非日常的なもの=超現実的なもの=奇跡、が文学の世界から消えてしまうとすると、それは文学の貧困に他なりません。たとえ、わたしたちがそれを現実の出来事とはとらえられなくても、それは、象徴としてあらわれてくるのです。

最後に、シャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』を紹介しています。
シュレミールは、ふしぎな男に自分の影を売り、かわりにいくら使っても金貨がなくならない財布をもらいます。これは悪魔の奇跡です。
あなたなら、影とお金とどちらを取りますか?
シュレミールは、紆余曲折のはてに、財布を捨て、残ったわずかなお金で、古い靴を一足買います。図らずもその靴が七里靴だったのです。ほら、一歩で七里進む魔法のくつ。
シュレミールは、七里靴をはいて、世界じゅうをめぐり、大自然の奇跡を研究することができるようになります。
この作品は、昔話を使って昔話を克服し、奇跡を使って奇跡を克服しようとしています。
リュティさんは、これを、作家にとって昔話と奇跡がいつになっても欠かせないものであることの証拠だというのです。

なるほど、そうか、現代の文学にも昔話と奇跡は生きているということなんだな。
うん、なんとなくわかった。
たしかに、現代小説を読んでいても、昔話のモティーフをうまく使ってるなと思ったり、お、三回繰り返すのか!と思ったりすることがよくあるけれど、奇跡という面から深めるのも興味深いかもと思った次第。

はい、おしまい。

最後までお付き合いありがとうございました。
でもこれで終了ではない(笑)
続編『昔話の解釈』もよみますよ~

 

2 thoughts on “文学における奇跡2👼👼

  1. 事実は小説より奇なり、という言葉もありますし、特に事件ということではなくとも、こんな偶然ってあるのかと思うような時ってありますよね。
    その気になって気にしていたら、生活の中で「時の一致やんか」と思うことは割によくあります。
    人生を振り返ってみたら、過去の出来事が今の自分の伏線であったと思えたり…。
    文学の中にも、そういう内容が当然あるわけでしょうし、という解釈で、いいんでしょうか(笑)

  2. ははは。ようわからんけどね。
    でも、そういう人生の一致とかを軽く流さないで、奇跡だと感じて深く考えることが大事だろうなと思います。

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