マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第2章 白雪姫
白雪姫の初版で、女王は、欲しくてたまらなかった子どもを授かるけど、その子が自分より美しかったので、森へ捨てて殺そうとした。
そのことの意味を考えます。
そのなかで、リュティさんは、「まま母」「まま子」という言葉を使っています。これは、法律上の継母・継子という意味ではありません。
実の関係・義理の関係にかかわらず、母と子の間に深い葛藤が生じるときの、母親の心理的状態、子どもの心理的状態を、カギカッコつきで「まま母」「まま子」と呼んでいることをお断りしておきます。
さてさて、七版では、女王は、白雪姫を生むと亡くなります。新しい妃は、美しい人でしたが、もっと美しい白雪姫への妬みが高じて、狩人に、白雪姫を森で殺すように命じます。殺した証拠として白雪姫の肺と肝を持ち帰るようにというのです。狩人は、哀れに思って、白雪姫を逃がし、代わりにイノシシの肝と肺を持ち帰る。
ところが、初版では、実母が白雪姫を追放します。ただし、七版のようにひどいやり方ではなく、森に置き去りにして野獣に食べさせようというのです。追放のやりかたは和らいでいますね。
でも、嫉妬に目のくらんだ女王が白雪姫の「まま母」でなく、実母であるというところが驚きです。
ここから物語の全体が見えてくるとリュティさんは言います。
というのは、白雪姫の類話を総攬すると、女王が実母である話が少なからずあるというのです。「まま母」のほうが多いそうですが。
美しい子どもを欲しがった、その同じ女が、のちにはその子をねたんで、厄介払いにしようとする。母親はだれでも、「まま母」になる危険をはらんでいると、リュティさんは言います。そして、その限りでは、「白雪姫」はまさに現実の世界を反映しているというのです。
母親はだれでも、「まま母」になる危険をはらんでいる!
ミュンヘンの精神科医ヴィトゲンシュタインの著書にこんなことが書かれてあるそうです。
ヴィトゲンシュタインが子どもの頃、母親が彼のおもちゃを取り上げたことがあった。彼はまだ幼くて、法律的な意味で継母というものがあることを理解していなかったんだけど、その時、母親に、「あなたは私の本当のお母さんなの?」と尋ねた。
そして、ヴィトゲンシュタインは、母親は皆、よい意味で「まま母」になるべきだ、子どもの願いをはねつけることも必要だと説いています。
リュティさんは、母親は子どもの願いを拒絶することができなくてはならない、そして、そのとき、子どもは「本当のお母さんなの?」をいう考えがうかぶこともあるだろうといいます。
かつて、「わたし、橋の下に捨てられてたんとちがうやろか」と思ったこと覚えていませんか?あれです。
これが、なぜ世の中にまま母話があんなに多いのかということのひとつの答えなのです。まま母話は子どもばかりでなく、人間一般の根本感情に一致しているのです。それはつまり、自分の正体を疑う気持ちです。
子ども、特に思春期になると、多かれ少なかれ誰もが、自分は何者かという根本的な問題にぶつかりますね。そして、それは、おとなになるにつれて考えるのをあきらめていく。でも、あきらめない人たち、芸術家や哲学者たちがいますね。
そういえば、「白雪姫」にかぎらず、昔話は主人公の正体を問うて飽きません。
主人公は獣なのか王子なのか?
灰かぶりなのか光輝く王の花嫁なのか?
かさぶた頭なのか金髪頭なのか?
抜け作なのか選ばれた男なのか?
ううむ。そうだね…。
そして、最後は、さげすまれていた者や見損なわれていた者が、じつは王者であり、恵みを受けた者であることが分かるのです。
なぜなら、昔話は信頼の上に成り立っているから。
わたしは、大人になったいまは、自分の中の「まま母」性に目が行くけれど、子どもの立場に立てば、自分の「まま子」性に苦しんだことがあるのを思い出します。
そして、それは、自分の成長のために越えなければならない壁だったのだということにも思い当たります。
やっぱり、昔話は、すごい!o(*°▽°*)o
次回は、「白雪姫」の倒錯について~
はい、おしまい。
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昨日は、初級クラスの勉強会、楽しかったよ。
ウーカーさんの報告をお楽しみにね~
一昨日は、高校生の絵本読み聞かせ、楽しかったよ。
でも、今年はこれで最後、ちょっと寂しい。
明日は絵本の会で、五味太郎の作品紹介をします。