日別アーカイブ: 2020年11月3日

昔話の解釈ー七羽の烏8👩👩👩👩👩👩👩👩

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第1章七羽の烏 あともう少し(●’◡’●)

グリム童話「七羽のからす」にもどります。

妹が、ガラスの山に到着したけれど、お星さまからもらった山の鍵をなくしてしまったことに気付く場面。7版では、こう書かれています。
「どうすればいいでしょう。兄さんたちを救い出したいと思っても、鍵がなければガラスの山は開けられません。けなげな妹は、ナイフを取り出し、小さな指を一本切り落として戸に差し込みました。すると、戸はすぐに開きました。」

リュティさんはこの場面について、もとは苦痛に満ちた犠牲的行為だったろうが、軽々とした昇華する語り口によって、やすやすと行われているといいます。

軽々とした昇華する語り口。
これは、いささかのためらいもなく、心の葛藤もなく、迷いもなければ、自分自身との戦いもない、苦痛の叫びもなければ、血すら一滴も流れていない。体に切り傷は生じていないことを指します。
昔話のこの叙述法は、《昔話の語法》の「平面性>図形的に語る・外的刺激・周囲の世界」で確認しましょう。
「七羽のからす」の初版では、「けなげな妹」ですらなく、たんに「妹」になっています。

この場面は、聞き手の子どもたちが、はっと身を固くするところです。
子どもたちの中に生まれる思いがどのようなものか、昔話はそれに介入することがありません。事実だけを述べて、思いは聞き手の中にあるのです。そこに昔話の価値があります。

よく似た場面を持つモティーフを見ます。

「白い狼」ベヒシュタイン
ガラスの山へ向かう娘は、途中で出会った、山姥、風、太陽、月から、にわとりのスープを飲ませてもらい、そのつどにわとりの骨を一本もらう。
ガラスの山に到着するが、つるつる滑って登れない。
娘は、にわとりの骨を取り出し、つないでハシゴにして登ろうとするが、最後の一段分が足りない。
娘は、小指を切り落としてつなぎ、ガラスの山のてっぺんまで登ることができる。
ここでも娘はちゅうちょなく指を切り落とします。

つぎは、グリム自身による「七羽のからす」の注。ガラスの山に関わるハーナウの昔話です。
お姫さまが魔法でガラスの山に閉じ込められる。
お姫さまを救えるのは、ガラスの山を登ることのできるものだけである。
若い職人が料理屋でにわとりの料理を食べ、その骨を全部集めてガラスの山に行く。
にわとりの骨をガラスの山の山肌にさして登っていくが、あと一本足りない。
若者は、自分の小指を入り落として山にさして、登り切った。
ここでも、犠牲的行為は、当たり前のこととしてやすやすと行われます。

なるほど~
ガラスの山ー骨ー小指
っていうのは、よくあるモティーフなんやね。

で、ガラスの山について。
ハーナウの話の、お姫さまの閉じ込められているガラスの山は、魔法の輝きが残っているけれど、「七羽のからす」はそれさえありません。魔法とは何のかかわりもない、単なる文体上の要素に過ぎない。
けれども、ひたすら透明です。昔話自体が、描写なしの透明な文体ですね。その文体に、透明なガラスの山はとてもマッチするというのです。

重い運命的な事件や心の中の出来事が、昔話では透明な形象(=すがた。イメージ)となって、聞き手の心にやすやすと入っていく。聞き手はそういう形象を通して人類のさまざまな経験を受け入れるのである。

いかがですか?
子どもたちがギクッとするとき、とっても大切なものが流れ込んでるんですね。
語り手が、そのことをよく理解して語ると、聞き手に伝わる。
もし子どもの経験が少ないためにその時は理解できなくても、忘れられない重要な場面となって伝わる。そして、いつか、真実に気づく。
ヤンは、それこそが、子ども(人間)を育てるということ、だと思うのですよ。

はい、おしまい。

次回は、心理学的な解釈への批判です。

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昨日は《昔話雑学》を更新しました。
昔話に登場する狼のキャラクターについて、書いてます。
みてね~~(❤´艸`❤)