昔話の解釈ー死人の恩返し💀3

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。

第4章「死人の恩返し」

ノルウェーの昔話「旅の仲間」の類話に、アンデルセンの「旅の道づれ」があるってとこまででしたね。
読みましたか?
どうだった?
まだ学生だったころ、アンデルセンが好きで岩波文庫の全集を何度も読み返していたんだけど、いま読み直してみると、昔話との違いがびっくりするほどよくわかる!

『昔話の解釈』のこの章では、アンデルセンの類話、かなり多くの引用があるのですが、省略して、リュティさんの説だけを紹介します。アンデルセンは自分で読んでおいてね。

はじめます。

アンデルセンの「旅の道連れ」の若い主人公は、借金を残して死んだために、棺から放り出されそうになる死人に出会います。
ノルウェーの昔話「旅の仲間」では、ワインを水増しした酒屋の氷漬けの死体ですね。
類話の多くは借金を返せない死人となっているので、アンデルセンはそっちの典型的な伝承に従っています。

つぎは両者の描写の違い。
リュティさんは、なんという違いがあることだろうと言っています。
昔話は、話の筋がぐんぐん進んでいくのに対して、アンデルセンは、気の向くままに立ち止まってこまかい描写にふけっています。

たとえば。
自然の扱い方。アンデルセンの例
主人公が、旅の冒頭で、野原で寝たときの描写です。
小川が流れ干し草の山がある広い野原と、その上に広がる青空は、これこそまさに美しい寝室であった。赤や白の小さい花が咲いている緑の草原がじゅうたんであった。にわとこの茂みと野ばらの垣が花束であった。透き通ったつめたい水の流れる小川がそっくり洗面器になったが、そこでは葦がおじぎをして、「おはようございます」「おやすみなさい」を言った。月は青天井に高くかかる大きなランプだった。

彼岸者の扱い方。
主人公が旅に出る時、振り返って見た教会に、こびとがいました。
塔の上のほうの窓辺に教会のこびとの妖精が立っているのが見えた。こびとはいつものように赤い小さな先のとがった帽子をかぶっていた。こびとは胸に手を当て、何度もヨハンネスにキスを投げてよこしたが、それは「ごきげんよう。旅の無事を祈ります。」という気持ちをあらわしていた。
昔話では、彼岸者はストーリーに必要な時しか出現しませんね。だから「いつものように」なんてありえない。アンデルセンのこのこびとは、心を込めて描かれているけれど、ストーリー上の役割はありません。

ほかにも、昔話ではありえない描写としてあげているのは、父親が亡くなったときの部分。
ヨハンネスの目に涙が浮かんだ。ヨハンネスは泣いた。それが悲しみを和らげてくれた。太陽が緑の木々の上にきらきらと輝いていた。それはまるでこう言おうとしているようだった。「ヨハンネス、そんなに悲しむことはない。青々とした空を見てごらん。お前のお父さんは今あの上にいるんだよ。そして、お前がいつまでも仕合せでいるように、神さまに祈っている」「わたしはいつもよい人間でいたいと思います」とヨハンネスは言った。「そうすればわたしも天国のお父さんのところへ行けるでしょう・・省略・・・」
めっちゃ長い(_ _)。゜zzZ

もうひとつ、昔話では決して出てこない省察。死人に出会ったときのこと。
ヨハンネスはちっともこわくなかった。良心にやましいところがなかったからである。それにヨハンネスは、死人は誰にも害を加えないことをよく知っていた。ひどいことをするのは生きている悪い人間である。
え?笑ってしまう?
笑うたらあかん。
一部分だけ取り出してるから、昔話と比較してあまりの違いに笑ってしまうけどね。作品ぜんぶを読んだら感動する。

昔話と創作童話、これは異なった二つの世界である。

でね、アンデルセンというひとりの作家が、たとえ昔話をもとにしていても、アンデルセン独自の文体で表現をするのは当たり前です。川端康成は川端康成にしか書けない表現をするのと同じです。作家ひとりひとりが異なる。
作家はひとつの時代を生きた人です。時代の影響をもろに受けます。
私たちに多くの優れた物語を贈ってくれた大作家、アンデルセンは、その語り口がすっかり時代に制約されている。感傷化し、道徳化し、夢想的になっているのです
ところが、民衆は、16世紀においても、19世紀や20世紀と大して変わらない語りかたをしているのです。

はい、おしまい。
次回は、もう一つの類話を読みます。

 

 

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