マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。
第5章賢いグレーテル
今日でおしまい(笑)
「かしこいグレーテル」は、度を越した食欲にもごまかし方にも笑えます。
「しあわせハンス」も笑えるし、アンデルセンなら最後は幸せな気分になれます。
それに対して、「賢いエルゼ」の、特に後半はどうでしょう?
畑に着くと、エルゼはまずお弁当を食べて、昼寝をします。
おいしい食べ物、快い眠り。これは聞き手の共感を呼び、微笑みを引き出します。
けれども、それが度を越すと裏返しになります。
たとえば、トランシルヴァニアの類話では、鉛のかたまりのように怠け者の主人公カトリンは、夫に髪を切られます。するとカトリンは髪の短い自分を見て「あたしかな?あたしじゃないのかな?」と自問します。そして、「あたしを探しに行こう」といって、自分を探しに広い世界へ出かけて行きます。それから今までずっと歩いているけれど、まだ自分を見つけることができないんだとさ。
エルゼも、同じです。
自己への確信を失い、人格が崩壊する。
本人であるという感じの喪失です。
なんだかこわいですねw(゚Д゚)w
リュティさんは言います。
笑い話は、その主人公が気ままにやり、うまいものを飲んだり食ったりし、大いに怠けるとき、しばらくの間はいっしょになって楽しむが、そういう動物的な領域にはまり込むことは人間にふさわしいことではない、ということも知っている。
人間だれしもそういうことってあるよなあ。
けど、行き過ぎたら身の破滅やなあ。
ハハハハハ(≧∇≦)ノ
ってことでしょうかね。
「賢いエルゼ」の後半を読むと、笑い話というのは、どんなに陽気にはしゃいでも、それなりに人間の本質を問うているのが分かります。リュティさんは、笑い話は聞き手を物思う気分にさせることがまれではないと言います。
笑い話は、語るのが難しいです。
リュティさんの言葉を、語る時の参考にしたいと思います。
総合的に、今の私は「かしこいグレーテル」は語れても、「かしこいエルゼ」は語れないなあと思います。
昨日中級クラスの勉強会でイスラエルの昔話「ハエうちの勇者」を初めて語ってみました。
極端に憶病であることと、食欲につられる主人公が出てきます。笑い話の条件は整っています。
時間の一致、場所の一致、状況の一致が重なることで、何もかもうまくいって、幸せになります。
わたしにはまだまだハッピーエンドから抜け出す勇気はありません。
次回から第6章偽の花嫁と本当の花嫁・けもの息子とけもの婿に突入~
グリム童話「がちょう番の娘」を読んでおいてくださいね~
5章の「笑い話」の解釈を読ませてもらって、笑い話に対する見方が変わりました。
今までは、どんだけ笑えるかの笑いの尺度ばかりに気を取られていましたが、昔話はすべてを包含する(含世界性=すべてをガラスの球体の中に収めこんでいる)から笑い話も他の種類の昔話(本格昔話とか動物昔話とか)と同等の存在感でバランスが取れているんだと感じました。
つまり、わたしはいままで、笑い話をあんまりおもしろくない(大人になった自分から見ての偏見)とおもって、軽んじていたのだと気付きました。
語るのが難しいのは分かっていても、どこで間を取るかがわかれば子どもたちと楽しむことはできるし、やっぱりおまけの話だとしか思いませんでした。
でも、5章の解釈を読んで、ヤンさんの書かれたとおり、本格昔話で聞き手が全身を耳にして聞いた緊張を解くという大事な理由が分かりました。
また、笑い話の種類や必要な理由が分かり、今まで語りつがれてきた理由や類話の結末の種類を教えてもらって、人の本能に近いところで考える要素が笑い話の中にあるんだと思うと、これからはもっと読みこまないとなあと思いました。
わたしは「おいしいおかゆ」しかレパートリーにはありませんが、短い話なのになかなか覚えられずに一度挫折しました。
何年かして、経験がある程度できたときにやっと覚えましたが、それでも笑い話だとは思っていませんでした。
じゃあ、どう思っていたのかというと、なんとなく不思議な話だと思っていて、そのへんのわたしのあやふやさが最初に覚えられなかった理由で、覚えた後も語りに現れて、きっと聞き手もしっくりしていなかったんじゃないかと思います。
最後に、おかゆを食べないと家にたどり着けなかったというところで聞き手が「ええ~~!」と笑いながら驚いてくれるようになったのはもっとずっと後になってからだったのを思い出します。
笑い話も奥が深かったです!
なっがいコメントありがとうございます(笑)
あらためてリュティさんを読んで、真剣に冒険を生きて最後に笑い話で笑って終わるおはなし会を目指したいと思った。