バーゲンセールで戦って、欲しいものを手に入れたためしがない。
行列のできるお店では、必ず横入りされる。
人気アトラクションでは、いつも人の頭ばかり見ている。
神社の餅まきでは、ひとつも拾えない。
一日から始まっているワクチン予約の電話が、まだつながらない。わたしはきっと、ワクチンが打てないのだろう。
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マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む。
第6章偽の花嫁と本当の花嫁
「がちょう番の娘」
偽の花嫁が自分の悪事に自分で判決を下す。そんな実際にはありえないことを描くのは、悪は自壊するということを、わたしたちに象徴的に伝えるためでしたね。
そう考えると、この偽の花嫁のモティーフ自体が象徴的だということを念頭において読まないといけないわけです。
そこで、ユング派の心理的、人類学的な見方から、偽の花嫁を解釈しています。
偽の花嫁と結婚すること
=偽の価値が私たちを支配すること。人格の中心が曇らされること。
ほんとうの花嫁が姿を現すこと
=人格が復権すること。
これを昔話に当てはめれば、正当でない花嫁をうけいれるのは心が正当でない価値へ傾いていることを反映している。心の中の王者のようなところがないがしろにされていると、リュティさんは言います。
心の中の王者のようなところだってφ(゜▽゜*)♪
でね、ヴィルヘルム・グリム(弟のほう)が、「がちょう番の娘」のことをこう言っています。
この美しい昔話は、召し使いの姿に身をやつしてもなお失われることのない王者の尊厳を示しているが、その顔つきに飾り気がないだけいっそう深みを増している。
語り手にとって、めっちゃ貴重なコメントですね!
リュティさんは、「召し使いの姿に宿る尊厳」という言葉に傍点を付けて、シェークスピアのこんな言葉を引用しています。
私たちの中には誰にでも王者のようなところがある。
わたしたちは、自分の中の王者のようなところをおとしめて召し使いの仕事に用いていることが多いとリュティさんは言います。あ、もちろん象徴的にですよ。現実的に読むと職業差別になりますよ。
この召し使いの姿に宿る尊厳は、多くの昔話の核心をなしているけれども、とりわけ、「がちょう番の娘」にそれが当てはまるというのです。
さてさて、次回はいよいよがちょう番のクライマックスです。
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昨日は、初めて「おはなしひろば」の更新をわすれました。
ワクチン予約電話のせいです。
今日の午後、更新します。
予約電話はあきらめますo(≧口≦)o