語りつぐということ

かぶさんが、コメントで、お話の選び方について書いてくださっています。
≪語るために≫で7月に更新した「おはなしの選び方」を読んでくださってのこと
だと思います。
ありがとうございます。
このようにご意見をいただくと、やりがいが出ます。
8月の新聞には、「語り継ぐ」という言葉がたくさん出てきますね。
歴史の中で私たちが経験した様々な苦しみを世代を超えて語り継ぐことのたいせ
つさ、むつかしさが話題になっています。
さて、私たち語り手は、まさに「語りつぐ」作業を日々くり返しています。とく
に昔話を語るとき。
だれかがごく個人的な関係の中で語ってもらったストーリー(昔話)を、つぎに
向けて語ったその記録(テキスト)をもとに、私たちは語ります。
ごくごくおおざっぱに図式化すると下のようにりますね。
  語った人→私たち→聞き手
いつも書いているように、「私たち」は媒体ですね。
で、「→私たち→」の部分が、「語りつぐ」という作業だと考えていいと思います。
現代の語り手である「私たち」には、「語った人」の顔が見えません。
でも、その人たちが語りついでくれたものの中に、自分の琴線に触れる話があ
る。それを、どうしてもつぎへ伝えたくて、語るわけです。
かぶさんが、自分が語る話をよく知らなくてはいけないと書かれていますが、そ
の通りですね。
ババヤガーの中級講座では、いま、そこにスポットを当てて勉強してもらってい
ます。
それは当然のこととして、ここで問題にしたいのは、「→聞き手」の部分です。
聞き手の顔が見えていますか?ということなんです。
一方的に語り手の事情で、私の琴線に触れたのよ〜といって、聞かせていいもの
かどうかということです。
さらに、私、こんなふうに感じるのよ〜と、パフォーマンスしてもいいものかど
うかということなんです。
媒体が媒体としての役目を果たすのは、両者をぴったりくっつけたときです。
語ってくれた人の顔が見えないのは仕方がないけど、聞き手は目の前にいる。
聞き手の求めるものを語りましょう。
そのためにしないといけないことは、聞き手を知ること。
これが一番難しいことです。
でもね、聞き手の子どものすべてを知る必要はない。お話のおばちゃんとして、
知ればいいのです。
子どもがお話のおばちゃんであることを知ってくれて、「こんな話して」とか、
「それおもしろくない」とか自然に言える関係を作れば、十分。
そのための努力が、おはなし選びに重要だと思います。
おはなしを語る団体はたくさんあります。
「語りつぐ」ときの「→聞き手」をしっかり考えないと、覚える努力も、どんな
練習も、話し合いも、無駄になってしまうと思います。
  ヤン

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