「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

今でもやっぱり生きている🧜‍♀️

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

『昔話の本質』が終わったので、その続編『昔話の解釈』を読みますね。
前巻と同じく、野村泫訳/福音館書店刊です。
この本の副題は、「今でもやっぱり生きている」です。
昔話の結末句ですね。ヨーロッパの昔話にはよく出てきます。
結末句については《昔話雑学》参照のこと(こちら⇒)

なぜこの副題を付けたのか。
この結末句について、本書の「まえがき」に説明があります。とっても興味深い説明です。

まず、「死んでいなければ、今でもやっぱり生きている」という句で語りを結ぶとき、語り手は、実際の出来事や現実の人間について語ったのではないぞ、ということを聞き手に合図で知らせているのです。
架空の話、ウソ話だよという宣言です。これは、発端句「むかしむかしあるところに」と同じ役割ですね。

架空の話だということに、どういう意味があるのでしょうか。

ひとつは、昔話の登場人物は、いつかどこかに生きていた実際の人間ではないけれど、だからこそ、今でも生きているということです。
彼らは、流れる時の外に立っていて、人間の本質を表しています人間の本質、それは、昔も今も、私たちすべてにかかわる問題です。昔話は、人間と、人間と世界の関係を形にあらわしたものです。

架空だということで、普遍性を持つ。これはあなたのことだといっているのです。

ふたつめは、現代、とくにヨーロッパでは口承がほとんど滅びてしまったそうです。けれども、グリムが『子どもと家庭のためのメルヒェン集』(いわゆるグリム童話)を編んで後、つぎつぎと昔話が集められて本の形に書き留められた。だから、今でもやっぱり生きているのです。

この書き留められた昔話集(資料)をみると、同じ話型に属する話が、さまざまなバリエーションを持って出てきます。
リュティさんは、これらの類話を比較することで、ひとつひとつの話の意義や、その話型が全体として持つ意味が分かると言います。それによって、新たな考察と理解にたどり着くことができると言います。

そこで、本書では、グリム童話でもとくに有名な話を取り上げ、その話の独自性と普遍性をよりよく理解するために、様々な類話を参照するかたちをとっています。

というわけで、次回は「七羽のからす」です。
たのしみでしょ。
KHM25。
前もって読んでおいてくださいね。あ、絵本ではだめですよ。

 

文学における奇跡2👼👼

なんだかとってもおひさしぶりで~す。
あ、でも月曜日には日本と外国の昔話を更新しましたよ~
きょうは、おはなしひろば、「みそ買い橋」をUPしたので、聞いてくださいね~

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マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第10章文学における奇跡つづき

いよいよ『昔話の本質』も今日が最後です。
で、いちばん分かりにくい部分です(笑)

近代になって、科学の発達によって、人びとが物事を合理的に考えるようになると、彼岸の世界との出会い(つまり奇跡)がなくなってきているのではないか、というところから、続きを読みます。

リュティさんは、シェークスピアの研究者でもあります。
それで、シェークスピアが、奇跡をどのように描いているか、「マクベス」で説明しています。
スコットランド王のマクベスは破壊の王です。それに対して、イングランド王は、奇跡の手を持っていて、どんな病人も治すことができる。
イエス・キリストの行った奇跡もほとんどが病人を治すことです。だから、イングランド王の病を治す力は、まことの王であることの証です。
ただ、シェークスピアは、イングランド王を表舞台に出しません。他の役柄(スコットランド人2人と医者)の会話の中に出てくるだけです。観客は、イングランド王の王たるすばらしさを、実際に見るのではなく、細やかな会話から想像するだけなのです。
こうすることで、奇跡をおこなうイングランド王は、観客の心の中だけに現れ、それは、この荒々しい戯曲の中で、闇に輝く光のような働きをしていると言います。
なるほど~。そういう手があるか!
さすがに大作家シェークスピア。と、リュティさんも言います。

闇に輝く光としての奇跡は、今も民衆や作家の心の中に生き続けているとリュティさんは言います。
非日常的なもの=超現実的なもの=奇跡、が文学の世界から消えてしまうとすると、それは文学の貧困に他なりません。たとえ、わたしたちがそれを現実の出来事とはとらえられなくても、それは、象徴としてあらわれてくるのです。

最後に、シャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』を紹介しています。
シュレミールは、ふしぎな男に自分の影を売り、かわりにいくら使っても金貨がなくならない財布をもらいます。これは悪魔の奇跡です。
あなたなら、影とお金とどちらを取りますか?
シュレミールは、紆余曲折のはてに、財布を捨て、残ったわずかなお金で、古い靴を一足買います。図らずもその靴が七里靴だったのです。ほら、一歩で七里進む魔法のくつ。
シュレミールは、七里靴をはいて、世界じゅうをめぐり、大自然の奇跡を研究することができるようになります。
この作品は、昔話を使って昔話を克服し、奇跡を使って奇跡を克服しようとしています。
リュティさんは、これを、作家にとって昔話と奇跡がいつになっても欠かせないものであることの証拠だというのです。

なるほど、そうか、現代の文学にも昔話と奇跡は生きているということなんだな。
うん、なんとなくわかった。
たしかに、現代小説を読んでいても、昔話のモティーフをうまく使ってるなと思ったり、お、三回繰り返すのか!と思ったりすることがよくあるけれど、奇跡という面から深めるのも興味深いかもと思った次第。

はい、おしまい。

最後までお付き合いありがとうございました。
でもこれで終了ではない(笑)
続編『昔話の解釈』もよみますよ~

 

文学における奇跡👼

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第十章文学における奇跡

本書の最後の章です。
ここでいう文学は、口承も書承も含めての言葉による芸術としての文学です。
その文学の中で、奇跡がどのように扱われているかということが書かれています。

まずは奇跡の定義です。
超自然的なことが日常的な現実の中に起こること。

文学の原初から、奇跡は大きな役割を演じてきました。

最初は神話。神話は、神による不思議な行いがテーマです。まさに、奇跡を描いています。
叙事詩は、神話をテーマに物語られています。
戯曲ももとは祭式から発達したものです。キリスト教でいえば、復活祭劇やクリスマス劇。
抒情詩は、奇跡の力によって病気を治すための呪文から始まったそうです。
そして、おなじみの伝説、聖者伝、昔話。これらは、彼岸の人物や彼岸の世界と人間との出会いについて物語っていますね。

上記は民衆の口承ですが、創作文学でも奇跡は中心的なテーマでした。
たとえば。
ホメロスの『オデッセイ』、ダンテの『神曲』、ゲーテの『ファウスト』などなど。

18世紀になってようやく、奇跡を描くのではなく、写実的な文学が生まれた。
へ~。それまでは、奇跡の物語ばっかりやったんや~
21世紀を生きる私には驚きです。
レッシングの「賢者ナータン」(1779年)という韻文劇がその初見だそうです。
レッシングは、文学と現実から奇跡を締め出したとリュティさんは言います。
「賢者ナータン」は『レッシング名作集』(白水社/浜川祥枝ほか訳)に入ってるんだけど未見。

18世紀から19世紀の文学では、作家は、ありのままのこの世を畏敬の念を込めて描きます。そして、彼岸とのかかわりという奇跡を讃えるのではなくて、人との出会い、自然との出会い、運命との出会いを奇跡と感じ取る心の働きが描かれるのです。

は~い。今日はここまで。
次回はシェークスピアが登場します。

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今日はむしむし。
秋雨前線のせいらしい。

今週は日本の昔話「わらしべ長者」と絵本のこみちを更新してるから、見てね~o(*^@^*)o

 

 

昔話の主人公4👱‍♀️👱‍♂️

ここ京都府南部もようやく朝夕過ごしやすくなってきました。
昨日はクーラーなしで過ごせたよ。

もう早朝の蝉の声も聞こえない。
夕ぐれのツクツクホーシが人恋しい。

ほんと、今年の夏は、コロナと酷暑のダブルストレスで、まいった。

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マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第9章昔話の主人公ー昔話の描く人間像 つづき

伝説と昔話は、数百年間、肩を並べて民衆の間に生きてきました。
両者は、互いに補い合っています。

伝説は、「人間とは何か」「世界とは何か」という不安な問いかけをします。人間は、不気味な解き難い世界、人間を死でおびやかす世界と向き合っているという認識です。(これが事実かもしれないとヤンは思う)
昔話は、伝説の問いかけに、ある種の答えを示します。主人公は、危険な見知らぬ世界を安全に導かれて行きます。(希望、勇気を与えてくれる(*^▽^*))

昔話の主人公に関して、リュティさんは、天の恵みを与えられた者だと言います。

☆彼岸の存在の贈り物が主人公に集まってきて、危機を乗り切るのを助ける!
なぜなのか、理由は簡単。主人公だからです。ただそれだけ。
主人公には怠け者もいるでしょ。彼には「どんな願いでも口に出すだけでかなえられる」という贈り物が与えられるのよ。
どうしてそんな恩恵が与えられるかっていうと、主人公だからなんですよ。

☆主人公は、まさに適切なことをする。正しいキーを押す。
天の恵みですね。理由は、主人公だからです。
お姫さまは蛙が嫌でたまらない。逃げて逃げて、最後は壁にたたきつける。すると蛙は救われて王子となる。ええ~、知らんかった(王女いわく)。
どうしてそんな恩恵が与えられるかっていうと、主人公だからなんですよ。

天の恵みを与えられていない者も昔話には出てきますね。たいていは、となりのじいさんだったり、主人公の兄弟姉妹だったり。その人たちは、いじわるだったり、嫉妬深かったり冷酷だったりします。
でも、聞き手たちは、必ず主人公と自分を同一視します。
前回、主人公は孤立していることを書きましたね。
ひとりで世界中を旅し、ひとりだからこそ本質的な問題と自由にかかわり合うことができる主人公。
そんな主人公と、自分を重ねて聞いているのです。

さてさて。

人間は、人間が作った秩序の中に暮らしています。国とか町とか家族とか。
外面的には共同体の仲間なんだけど、内面では全体の見通せない不可解な威嚇的な世界に投げ捨てられた存在だと感じる。(これって、今のコロナ禍の状況とそっくりだと思わない?自殺とか、鬱なんかも。)
そんな人間を描くのが伝説です。

じゃあ、その答えとしての昔話はどうか?

人間は孤立しているけれども、じつはあらゆるものと結ばれることができるんだ。
この洞察こそが、何百年の間、昔話が聞き手たちに力と信頼を贈ってきたとリュティさんはいいます。聞き手は、この洞察に内面的な真実を感じてきたのです。

引用
人間は世界へ投げ出された者、放棄された者、闇の中を手探りで進む者と思われるとしても、やはり人間は、一生の間、手元に流れ寄ってくる無数の援助を受けて一段また一段と進み、安全に導かれて行くのではなかろうか。

ちょっと感動。

でね、現代は量(マス)がものをいう時代だけれども、いろんな不公平や不安がある不条理の時代だけれど、この時代に、子どもたちがそういう人間像を、昔話から贈られ心の奥に取り入れることが大切。

はい、ここまで。

結局、昔話って、夢?希望?
でも夢や希望がなくてどうやって生きていけるだろうと、思うのです。

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コロナのワクチンまだできそうにないですねえ。
今までの感染症のワクチンは、最速で4年かかったって、新聞に書いてあった。
う~ん。
ワクチンできるまで、寿命が続くかなあ。
豪華客船で世界一周したいのに・・・

昔話の主人公3👱‍♀️👱‍♂️

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第9章昔話の主人公-昔話の描く人間像 つづき

昔話に描かれるもうひとつの人間像。
主人公は本来旅人である。

なんか、かっこいいですね~

伝説では、事件は故郷の村やその周辺で起きる。でも、昔話は、主人公を広い世界へ送り出す。といいます。なるほど。

まず旅立ちの理由。
親が貧しくて家に置けない。
仕事や競争で、むりやり。
単純に、冒険しよ~
悪者や動物にさらわれる。
さまざま(笑)まあ、何でもいいわけです。
大事なのは、主人公はたいして考え込まないで、さっさと出かけるということです。太陽の東、月の西、海底、地下、世界のはて・・・とにかく遠くまで行くんだけど、深く考えないでいくものだから、印象がとても軽やかで自由です。気持ちをのびのびとさせます。

他に旅の特徴としては、こんなことが書かれています。
主人公は、たいてい一人で旅します。兄弟二人で出かけるときでも、十字路で別れます。孤立しているんですね。
故郷に帰ってこないことが多い。故郷から孤立している。伝説が故郷に密着しているのに対して、昔話の主人公は、新たなレベルに向かって成長するのですね。
目的のある旅でも、どうやって成し遂げたらいいのか知らないまま歩いていく。それでも、彼岸者と出会って道が開ける。

途中で出会う彼岸者との関係について、リュティさんはこう言います。
昔話の主人公は孤立した人間として異郷へ出かけ、そこで決定的な出会いを持つ。
その出会い、つまり人を助ける動物や彼岸の存在も、主人公と同じように孤立しています。孤立した者同士だから結合が可能なんですね。(普遍的結合の可能性 こちら⇒
具体的には、主人公は、
彼岸の存在に驚かない(一次元性こちら⇒)。狐が人間の言葉で話しかけてもびっくりしませんね。
贈り物を当然のようにもらう。
危機一髪のところで贈り物を使い、その後はもう思い出しもしない。
援助者の素性に興味がない。
彼岸の不思議な力についてあれこれと思い煩わない。

はい、ここまで。
次回は伝説と比較しての昔話の描く人間像の説明です。