「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

竜殺し2🐉

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第3章竜殺しー昔話の文体

前回(一昨日)の井戸端会議の最後に写真で載せておいた竜退治のおはなし、読みましたか?
もしまだなら、先に読んでから、今日のところを読んでね。
きょうは、そのおはなしの文体の特徴について、リュティさんが解説している所をまとめます。

なんか、ぎゅう詰めに説明してはる(笑)
分けて書きますね

話の筋は目標に向かってまっすぐに進む
総括すると文体の特徴はそれに尽きるということです。
おはなしを読んで、多分皆さん感じたと思うんだけど、「これって、あらすじ?」って、疑問に思わなかった?
私は思った。
でも、あらすじじゃなくて、これが原話そのままなんだって。

じゃあ、まっすぐに進むという特徴を詳しく見ていきます。

風景や外観を細かく描くことはしない
例えば、トロル。
どんな外見か、いっさい説明がない。ひとこと、「怪物」っていうだけ。
昔話にはこれで十分なんだって。
例えば、海辺。
事件現場なのに、どんなところなのかいっさい描写がない。
トロルが出てくるときに、「泡と大波があたり一面に渦巻いた」というだけ。

それに対して多くの創作童話では、例えば主人公の入っていく街の様子をいかに詳しく丁寧に描いていることか。狭い横町、美しい街角、切妻屋根の家・・・
ほんとうの昔話には、そういうものは何一つ出てこない。

ただ、銀の白の入っていく町では、「家という家が黒い幕をかけて」いますね。
これは、描写ですね。
でも、これを描写するのは、ストーリーに関係があるからなんです。
だって、銀の白は、変だなと思って町の人に聞くでしょ。そしたら、トロルがお姫さまをさらいに来るってことがわかる。だから銀の白は、トロルをやっつけに行く。そのための「黒い幕」なんです。

たまにグリムが、魔女の長い曲がった鼻とか赤い目について書いているけど、それは、グリムさんが後から付け足したもの。
ほんとうの昔話は、年とった魔女とか、醜い老婆としか言わない。

これを、リュティさんは、「描写力の欠如」といって、それが、昔話が面白い理由なんだといっています。

昔話の主人公は、旅をし、行動する
立ち止まったり、驚いたり、観察したり、思い悩んだりしないって。
たしかに、銀の白はそうですね。うだうだ考えていないですね。
登場人物の心の中についても描写しないのです。

感情や関係は外部へ投影される
例えば、しらみとり。
銀の白は、いきなりおひめさまに頭のしらみを取ってもらいますね。
おかしくない?
わたし、いつも、この類話を読むとき、この場面で笑ってしまう。
しらみかい!って。
リュティさんの説明、おもしろいから長めに引用しますね。

しらみをとることは原始民族にはたいへん好まれた欠かせない仕事であったとか、しらみとりは、婚約の儀式になることもあったとか、しらみをとる女は取ったしらみを食べるのが常で、そうすることによってしらみを取られた男の血を体へ受け入れた、
などと知っている必要は全くない。
(≧∀≦)ゞ(≧∀≦)ゞ(≧∀≦)ゞ

だからね、しらみ取ってるってとこで、ああふたりは深い関係になったんやなって思ったらよろしい、ということなのよ。
ほら、あとで、トロルに「この人は、~おれの姫だと思うな」って言ってるでしょ。

例えば、指輪。
お姫さまが銀の白の髪の毛に指輪を結びつける。これは?
そう、信頼と愛情を感じ取ればいいのね。

人物の孤立化
二人兄弟は別れて、ひとりで行動します。
お姫さまはお供を連れてひとりで海辺へやってくる。
お供が逃げるから、お姫さまは完全にひとりになる。
主人公とお姫さまは、二人きりで向き合うことになる。
孤立した者同士が一対一。
しかも、このふたり、それぞれに独特な存在です。
銀の白は、母親がリンゴを食べて妊娠した、その子どもなんだって。
お姫さまは、王の娘ということで際立った存在ですね。
昔話は、社会の末端にあるものを主人公にするっていうのは、常識ですね。

くっきりした極端なものを好む
昔話が、金・銀・鉄・水晶を好むのは、それらが、キラキラ輝くからだけではないし、貴重なもの(極端なもの)だからというだけでもない。昔話は、硬い物、形のはっきりしたものを好むからなのです。

それでね、昔話を聞く人は、くっきりした確かな明るい語り口から、昔話にそなわっている明るい輝きを自分の中に取り込むことになるんだって。
なるほど、それで昔話は楽しいんだヾ(≧▽≦*)o

はい、きょうはここまで。

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オンライン講座日常語の語り入門はしめきりました。
あちゃ、しまった~って思ったかた、一人ぐらい何とかなりますので、どうぞ~

 

 

 

 

竜殺し1🐉

マックス・リュティ『昔話の本質』報告

第3章竜殺しー昔話の文体

竜殺しって、なんだか物騒な題名ですね(笑)
ここでは、いわゆる竜退治の昔話を一話取り上げて、昔話の文体について説明されています。
とりあげてあるのは、二人兄弟型昔話のスウェーデンの類話です。
ただし、この話の原典を翻訳で読むことはできません。部分的に引用されているので、それを載せていきますね。

二人兄弟型昔話は、きっとどこかで見たことがあると思います。
身近なところでは、グリム童話の「二人兄弟」。
めっちゃ面白くって、語りたいんだけど、めちゃめちゃ長いのです。
どうぞ、読んで見てくださいね~

はい、では、本題に入ります。
まずは、発端句についての説明です。

「むかしあった、いつかあるだろう。これがあらゆる昔話の発端である。『もし』もなければ、『ひょっとしたら』もない。鼎(かなえ)には確かに脚が三本ある。」

これは、ブルターニュ地方のある昔話の発端句です。(発端句についてはこちら⇒
リュティ氏は、これを、昔あったことは将来もあるだろうという昔話のささやかな哲学といいます。
昔といってはいるけれど、じつは過去のこと、もう終わったことではなくて、これからも起こることなんだよといって、語り始めるのですね。

たしかに、人間同士の戦いも、洪水も、感染症も、昔あったことは必ず繰り返されます。確実に。

さらに。
「『もし』もなければ『ひょっとしたら』もない。鼎には確かに脚が三本ある」というのは、昔話が世界を描くときの確かさ、明白さを面白おかしく言い換えたものだと言います。
昔話の文体が、鮮やかで、描写が確かだというのです。
わたしたちは、《昔話の語法》やそれぞれのところで昔話の文体(表現)について学んでいますね。
復習もかねて、少しずつ読んでいきます。

まず、取り上げるスウェーデンの昔話(題名が書いてないのです、ごめんなさい(⓿_⓿))は、百年以上前に記録されたものだそうです。

ふたりの兄弟の名前は、「銀の白」と「小さい見張り」。
まず銀の白が旅に出ます。

はい、説明は次回。
読んでおいてくださいね~(❤´艸`❤)

 

 

眠る七人の聖者~昔話🤴

マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章 眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話 報告つづき

グリム童話の巻末に、「子どものための聖者伝」があるのをご存じですか?
グリム童話は、昔話が「かえるの王さま」から「黄金の鍵」まで200話あって、そのあとに、子どものための聖者伝が10話おかれています。
そのなかに、「十二使徒」という話があります。
これまで読んできた聖者伝「眠る七人の聖者」「ジークブルクの修道院長エルフォ」や伝説「三百八年眠った僧院長」と同じく、長い眠りと、眠りからの復活という奇跡が物語られています。
きょうは、グリムの「十二使徒」が、本来の聖者伝や伝説とどう違うかを考えます。
先に答えを言いますと、づリムの「十二使徒」は昔話であって、聖者伝や伝説とは奇跡の扱い方が異なるということです。
では、具体的に見ていきましょう。

まず、「十二使徒」を読んでください。
『完訳グリム童話Ⅱ』小澤俊夫訳/ぎょうせい

PDFはこちら⇒十二使徒

写真のほうが見やすいかたはこちらをどうぞ。

グリムはこれを聖者伝だとしていますが、冒頭から、場所、人物を不特定に語り、細かな描写を排してストーリーを速いテンポで進めています。また、全てのものが金と銀と水晶でできているというように、昔話の好む固い物、極端なものが登場します。
そして、時代は救世主誕生の300年前と限定しているように見えますが、300という数は、いばら姫の100年と同じく、端数のない丸い数字です。聖者伝や伝説が、細かい端数によって事実であると信じさせようとしているのとは、趣が異なっていますね。

つまりグリム「十二使徒」は、復活という奇跡がテーマではあるけれど、語り口は昔話です。
昔話になったとたん、奇跡は、伝説のように不気味でも不思議でもなくなり、聖者伝にみられるような輝かしい信仰は問題にされなくなります。
事物、人物、事件など、あらゆるものが純化作用によって中身を抜かれて軽くなり、伝説や聖者伝の重さがありません。

リュティ氏は、昔話の語り口について、とっても興味深いことを説明しています。
これって、《昔話の語法》にもあるんだけど、もう一度考え直すチャンスです。
いきます!

昔話の無時間性
昔話は、時を無視することによって、時に打ち勝つ。
時を無視する?たとえば?
@昔話には若者も老人も出てくるが、老化現象は描かれない。
@魔法の品は、課題を果たすために必要なときに役割を務めるだけで、けっして相続されない。
@魔女が主人公の目をえぐりだしても、数年後にはめ込まれる。目は腐っていない。
@昔話が金銀ガラスなど金属や鉱物を好むのは時の経過によって変化しないものだから。
昔話というものは、うつろわない世界を描くものである。

昔話の奇跡
昔話の主人公は奇跡や魔法に驚かない。まるで分り切った事のように受け入れる。
例えば、森の獣は主人公を怖がらせることはあるけれども、獣が口をきいたとたん、主人公はこわくなくなる。
彼岸の人物は、ストーリーの中で敵か味方かのどちらかとして登場する。その存在自体が恐怖であったり(伝説)歓喜を起こしたり(聖者伝)するのではない。
不思議なことは、いのちを養う空気のようなものとなってストーリーにいきわたっているから、わざわざ取り上げられることはないというのです。

もし、わたしたちが、昔話(再話本・再話絵本)を読んでいて、時間の経過が描かれていたり、奇跡に驚いたりしていたら、それは偽物です。

まとめ
聖者伝は奇跡を讃え、伝説は奇跡を恐れ、昔話は奇跡を奇跡と思わない(*^▽^*)

はい、おしまい。

 

 

 

眠る七人の聖者~伝説

マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話 報告つづき

復活という奇跡を扱っている物語に、「三百八年間眠った僧院長」という伝説があります。

内容
僧院長エーヴォは、食後に森に散歩に行って、小鳥の声を聞いているうちに眠ってしまいます。30分ほどたって目を覚まして帰りますが、修道院の様子が一変していて、門番は一度も見たことがない男でした。
エーヴォが「誰にやとわれたんだ」ときくと、門番は、変な顔をして、
「ここの人間でもないのにどうしてそんなことを聞くんだ」といいました。エーヴォは、
「私はここの僧院長だ。昼寝から帰ってきたんだ」と叫びました。門番は、院長を呼んできました。院長は修道僧たちを全員集めましたが、だれも、エーヴォを知りません。皆、ひどく驚き、訳が分かりませんでした。
院長は、僧院の年代記を持ってこさせました。
書物をめくって探すと、1208年のところにエーヴォの名前が見つかった。この神父は308年間森で眠っていたのであった。エーヴォはそれをきくと、音もなく倒れ、砕けて塵となった。

おおお、恐いですね~~~
砕けて塵となるんですよ。

昨日読んだ聖者伝では、
聖者たちはみな頭を垂れて眠りにつき、神のみこころのままに死んだのに。

もう一つ聖者伝が紹介されています。「ジークブルクの修道院長エルフォ」
ストーリーは伝説のエーヴォさんの話とほとんど一緒なんだけど、エルフォが亡くなる部分を写しておきますね。
みんなはこの奇跡のゆえに神をたたえた。それからエルフォは教会へ行き、聖餐を受け、大声で神をほめたたえると、倒れて死んだ。これは、1367年のキリスト昇天祭の次の日に起こったが、この聖なる男が姿を消したのは、1067年の同じ日であった。

こうして伝説と聖者伝を比較して分かることは、伝説は、奇跡の不気味さや不思議さを伝えようとしているのに対し、聖者伝は奇跡を通じて神を讃えようとしているということですね。
伝説を聞く人は、驚き恐れ混乱します。聖者伝を聞く人は心が高揚して信仰心にみたされます。
つまり両者は語られる目的が異なるのです。
共通するのは、奇跡を事実であると信じさせようという意図があることです。だから、表現が写実的で、時間の流れに敏感です。年数で、事実を裏付けようとしていますね。

では、昔話はどうでしょうか。
次回は、グリム童話のなかの、子どものための聖者伝説から「十二使徒」を読みます。

オンライン講座日常語の語り入門、あとおひとり席が空いていますよ~
申し込み締め切りは15日。
迷っているあなた、思いきって、やってみよ~
こちら⇒

 

眠る七人の聖者~聖者伝⛪

ちょっと仕事が入ったり、息子が帰ってきたりして、バタバタしてました。

はい、報告ね。
マックス・リュティ『昔話の本質』
第2章眠る七人の聖者ー聖者伝―伝説―昔話

きょうは、「聖者伝」について。

まだラジオもなかった時代、人びとは、夜の団らんで、いろいろな話を語ってきたけども、それは「話」であって、昔話とか伝説とかに分類分けされてはいなかった。分類したのは研究者なのですね。
でも、人びとは意識していなかったけれども、自然に、はっきりとした区別はあった。
この章では、聖者伝・伝説・昔話の区別と役割について考えようというものです。

わたしたちもあまり意識していないよね。
なかでも、聖者伝は、わたしなんか、無宗教なので、ほとんど関心もありませんでした。

ここでは具体的に、ヤコブス・ア・ヴォラジネ(1230?-1298)の『黄金伝説』から「眠る七人の聖者」をとりあげています。

内容(緑字は引用、野村訳)
ローマ皇帝デシウスが異教を広めるためにエペソスの町の人たちを殺させます。そのとき、キリスト教徒の若者七人が迫害を逃れて洞穴に隠れます。すると、神様が、七人を眠らせて追っ手の目をくらませます。
それから372年たって、・・・異教がはやり、死者の復活はない、と言いふらした。そのために信仰がいたくおびやかされたので、信仰の厚い皇帝テオドシウスはおおいに悲しみ、毛の衣を身につけ、宮殿の奥にこもってひざまずき、夜も昼も泣いた。これを見た慈悲深い神さまは、悲しみに沈んでいるテオドシウスを慰め、死者復活の希望を強めようと思った。そこで、豊かな愛を広げて、七人の殉教者を生き返らせた。みんなは挨拶をかわしたが、ひと晩寝たとしか思っていなかった。
みんなは、マルコに町へパンを買いに行かせます。ところが町のようすががらりと変わっています。
門の上に十字のしるしがあるので、不思議に思った。別の門へ回ると、そこにも同じしるしがあった。マルコはおおいに怪しんだ。門という門に十字のしるしがあり、町のようすがすっかり変わっているので、マルコは夢を見ているのだと思って、十字を切った。
だれもマルコのことを知りません。
マルコがお金を出すと、パン屋の主人は、土の中から掘り出した古銭だろうと言います。
マルコは僧正と総督の前に連れていかれ、僧正は、神が奇跡を示そうとしていることに気付きます。
僧正たちはテオドシウス皇帝をよび、みんなで洞窟に行き、復活した七人に会いに行きます。
聖者たちが皇帝を見たとき、聖者の顔は太陽のように輝いた。皇帝は中へ入り、聖者の前にひれ伏して、神をたたえた。
聖者の一人が言います。
主はあなたのためにーあなたが、死者の復活ということはあるのだ、と固く信ずるようにー大いなる復活の日に先立って私たちをよみがえらせたのです。このことはよく知ってほしい。なぜなら、ご覧の通り、私たちはほんとうによみがえって生きているのだから。母の胎内にいるこどもが何の害も受けずに生きているように、私たちも横になって、生きたまま眠り、何も害をこうむらなかった」
こう言ったかと思うと、聖者たちはみな頭を地にたれて眠りにつき、神のみこころのままに死んだ。皇帝は起き上がると聖者たちの上に身を投げかけて泣き、口づけした。
最後にこのように付け加えてあります。
ところで、聖者たちが377年(372年)寝ていたというのは不確かかもしれない。というのは、聖者たちは主の年の448年によみがえったのであるが、デシウスは、1年3か月しか国を治めなかった。そしてそれは主の年の252年のことであった。だから聖者たちは196年しか眠っていなかったように思われる。

長い文章、読んでくださってお疲れ様でございますヾ(≧▽≦*)o
どうですか、私たちがなじんている昔話とはずいぶん違っていませんか。

その違いをリュティ氏はこのように説明しています。
@描写が写実的。
@あらゆる事柄が念入りに関係づけられている。
@年数に端数があるのは、信憑性を高めるため。
@末尾の批評は、学問的注釈でありつつ、終止符の役割も果たしている。
@末尾の批評は、語られたことの真実性をもう一度強調している。
これらからわかるのは、この話は真実ですよという姿勢で物語られているということです。つまり、信じなさい、ということです。

この物語のテーマは奇跡(最大の奇跡は復活)です。
奇跡を物語るのが目的の話です。
奇跡を物語ることによって、異教徒を改宗させ、虐げられたキリスト教徒を励ます。それが聖者伝の目的なのです。

当然、「むかし、あるところに」と語りだして「ふたりは、死んでいなければ今でも生きていることでしょう」で終結させる架空の昔話とは、同じ「奇跡」を語っても、扱い方が異なるということです。
「いばら姫」の100年の眠りとは違うのです。

聖者伝というのは、聖職者の手によって書き留められたもので、民衆の口伝えではありません。
ラテン語の聖者伝Legendaというのは「読まれうるもの」という意味でです。
聖者伝には、奇跡が書かれていて、信心を起こさせ、信仰を強める力があると考えられています。
人が読むことができる物語というだけでなく、人が読まなければならない物語なのです。

さあ、ここで、「この世の光」を思い出してください。
幽霊が読むことを怠った聖なる書物。文字が縦に書いてあって分厚い本。
ほら~、ウイグル文字による聖者伝????
ゴメン、単なる素人の仮説o(*^@^*)o