「昔話の本質と解釈」カテゴリーアーカイブ

昔話の解釈ー白雪姫6👸👸👸👸👸👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章 白雪姫 つづくよ~

「白雪姫」は、倒錯のテーマが貫かれている、ということでしたね。
善が悪に転化するだけでなく、それにつりあうように、悪が善に転化する。
前回は、悪であるこびとが善をなす、ということでした。類話的に見ると、こびとは、盗賊だったり人食いだったりするのでしたね。
つまり、捨てられた白雪姫は、なんとか命は助かるものの、悪者のところに逃げ込んでしまう。
「捨てられる」=悪
「命は助かる」=善
「悪者のところに逃げ込む」=悪
「悪者が白雪姫を保護する」=善
ってことです。

あ、そうか、だから、ディズニーとかのアニメや絵本で、七人のこびとが愛らしく描かれるのは、ぜんぜん「白雪姫」的じゃないんだ!!!
悪者なのに、よいことをするのが、白雪姫のテーマなのだ(づ ̄ 3 ̄)づ

さらに悪→善の具体例を示していきます。

「白雪姫」の全体の枠は、娘を殺そうとする母親の苦心です。ところが、白雪姫は、生きて、王子と結婚する。つまり母親は、欲しかったものを手に入れる代わりに、正反対のものを手に入れる。これ、倒錯です。悪が善に転化しています。
白雪姫側から見ると、追い出され毒を盛られる=悪、王子に見つけられて結婚する=善。ということです。
でもね、毒を盛られるからこそ、白雪姫は王子に発見されるのね。悪があったからこそ、白雪姫は幸せになる。白雪姫は毒殺されなかったら王子と出会わなかった。

白雪姫がガラスの棺に入れられて運ばれるところ。
グリムの七版では、召使がつまづいて、棺が揺れて、毒りんごが口から飛び出して、生き返る。
不手際(=悪)が善になる。

この場面、グリム初版では、こんな感じです。
王子はいつも棺とともに行動する。召使は年じゅう棺を担いでいなくてはならない。あるとき、腹を立てた召使が、棺を開けて、「こんな死んだ娘のために、一日じゅう骨を折らされるなんて!」といって、白雪姫を起こして背中をたたく。すると、口から毒りんごがとびだして生き返った。

めっちゃ笑えません?
ちっともロマンチックじゃない。
でもね、召使の悪意が白雪姫を生き返らせた(=善)のですよ。
倒錯です。

あ、だから、王子がキスをして目覚めさせるのは間違いなんだ!

アルバニアの類話では、白雪姫は指輪のせいで仮死状態になるんだけど、女中が、白雪姫の指から指輪を抜く、盗むんですね。それで、白雪姫は生き返る。
悪→善ですね。

悪から善が生じうること、悪い意志や不手際が救いとなりうること、これは、この種の話に繰り返し示されているもうひとつの転倒、善から悪への転倒と対をなすものであると、リュティさんは言います。

でね、この倒錯を描くことにどんな価値があるかってことなんだけど、人生では、良かれと思ってやったことや、だれもがよいと価値を認めているものが、よくないことになる、悪い結果を招くことってあるでしょ?
逆に、悪意があったのに、結果がよいことになることもあるよね。ああもう最低やって思っていたことが、素晴らしい結果を生むことも、あるでしょ?
それを言ってるんじゃないかなあ。
まあ、結論は先に置いて、もう少しこの章は続きます。

きょうはこれでおしまい。

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かぶさんが、神峯山寺(かぶさんじ)に行ってきました。
神峯山寺は、大阪府高槻市にある開闢1300年の天台宗のお寺。日本で最初に毘沙門天をまつったという山岳信仰のお寺です。
紅葉の名所。
かぶさんが写真をくれたので、貼り付けますね~

 

 

 

 

昔話の解釈ー白雪姫5👸👸👸👸👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章 白雪姫 つづき

「白雪姫」は人間の自己倒錯を描いている、ということでした。
何もかもがさかさまになっている。

グリムの「白雪姫」では、主人公が森の中をさまよって、七人のこびとの家に着きます。そこで白雪姫は保護される。
でも、類話の多くは、こびとではなくて、強盗とか人殺しの家に行きついているのですって。こびとの場合でも、人食いこびとだったりする!
一難去ってまた一難ですね~
こんな類話もあるそうです。
女王は、森の中に七人の小人が住んでいて近づいてくる娘をみな殺すということを知っている。それで、白雪姫を、七人の小人の洞窟の前に連れて行って「中へ入っていけ」といって置き去りにするんですって。

これのどこが倒錯かっていうとね、その強盗なり人殺しなり、人食いこびとなりが、見捨てられた主人公の保護者となり、援助者となるのです。
悪が善に転化しているのね。転化というか、倒錯です。
悪であるはずのものが、善をなす。

ポーランドの類話はこんなのです。
強盗たちが家に帰ってくると、白雪姫が倒れている。いくらさがしても、こんどは死の原因が分からない。でも、あまりにも美しく死んだようには見えなかったので、強盗たちは、白雪姫は聖者なのだと思う。そして、ガラスの棺を注文して、そっと白雪姫を入れて、その棺を高い松の木の上にしばりつける。強盗たちは、それからは心を入れかえて、修道院に入ってお坊さんになった。

強盗(悪)がお坊さん(善)に転化している。
リュティさんは、ここまでくると、もうついていけないといいます。こっけいだって。

ともあれ、この悪から善への転化は、前回見た善から悪への転化と、つり合いが取れています。ほら、母親が「まま母」になるとか、命の象徴だったはずのりんごが死をもたらすとか、転化というか倒錯があったでしょ。こんどはそのさかさま。悪者がよいことをする、という倒錯。

悪から善への倒錯、他にもあるんだよ~
それは次回へ。

きょうは午前中、おはなし入門講座で、その足で秋をさがしにウォーキング。
楽しかったけど、疲れちゃった。

だからきょうはこれでおしまい。

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見つけた秋。
上手く写真とれなかった。
そのうちいいスマホ買わなくちゃ。

 

 

 

 

 

 

昔話の解釈ー白雪姫4👸👸👸👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章 白雪姫

自分はいったい何者なのかという根源的な疑問が、まま母話の多い理由でしたね。
わたし、この人の子ども?
わたしはいったいだれ?
成長の過程でぶつかる哲学的な難問です。
その難問を与える役割を担うのが、子どもを拒絶する親。
実母でも継母でも養い親でもいいのです。

主人公は、捨てられた劣った者が最後には王者となる、幸せになる、という力学が昔話にはあります。
でも、白雪姫の女王の立場からこの話を読めば、これは悲劇であると、リュティさんは言います。
母親が「まま母(法的な継母ではなく、心理的葛藤を抱えた母なる者)」になりうること、愛する者が憎む者になること、子どもに命を与えたその同じ女が子どもを死へ追いやろうとすること、これは悲劇である。

人間って、得体の知れないものですねえ。
母親側から考えると、「白雪姫」は、人間の自己転倒、倒錯を描いたものだとリュティさんは言うのです。

でね、「倒錯」、これが「白雪姫」のキーワードなんだって。
グリムの「白雪姫」だけでなくこれの類話全体に共通するキーワード。
倒錯っていうのは、「逆」とか「さかさま」っていう意味ね。

おっと、話型番号と話型名、書いておくね。調べたい人は類話探して読んでね。
ATU709「白雪姫」

どのへんが倒錯しているかというと。
母親が「まま母」になる。
鏡は自分の美しさを示すはずなのに、他の人間の美しさを示す。
りんごは昔から命の象徴なのに、死のりんごとなる。
装飾品(くし、かざりひも)は生を高め整えるためにあるのに、死(仮死)をもたらす。
靴は足を保護するものなのに、足を傷つける。

根本のテーマがなんとよく話全体を貫いていることかと、リュティさんは言います。
倒錯というテーマが、話の個々の部分にピタッとはまっているというのです。
なるほど~
一貫しているんだ!
そんなこと、まったく気づかなかったなあ(ToT)/~~~

でね、様式が一貫していること、部分と全体がぴったり呼応していることは、一般的に、高度な芸術のしるしとされています。
つまり「白雪姫」はまずこの点ですばらしい芸術作品なんだヾ(•ω•`)o

女王が実母でなく「まま母」の場合もこの一貫性はくずれません。
良い母親が死んで、代わりに悪い母親があらわれる。
昔話では、人の相反する性格は、ふたりの人物に振り分けられるのです。
これは、昔話の平面性で説明できるって、気づきましたか?こちら⇒《昔話の語法》外的刺激

さて、「白雪姫」にはほかにも重要な「倒錯」がありますが、それは次回へ~
きょうはこれで、おしまい。

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今日は《外国の昔話》を更新しました。
小さい子向けのおはなし。
クリスマス会に向けて、どうぞ~

 

 

昔話の解釈ー白雪姫3👸👸👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章 白雪姫

白雪姫の初版で、女王は、欲しくてたまらなかった子どもを授かるけど、その子が自分より美しかったので、森へ捨てて殺そうとした。
そのことの意味を考えます。

そのなかで、リュティさんは、「まま母」「まま子」という言葉を使っています。これは、法律上の継母・継子という意味ではありません。
実の関係・義理の関係にかかわらず、母と子の間に深い葛藤が生じるときの、母親の心理的状態、子どもの心理的状態を、カギカッコつきで「まま母」「まま子」と呼んでいることをお断りしておきます。

さてさて、七版では、女王は、白雪姫を生むと亡くなります。新しい妃は、美しい人でしたが、もっと美しい白雪姫への妬みが高じて、狩人に、白雪姫を森で殺すように命じます。殺した証拠として白雪姫の肺と肝を持ち帰るようにというのです。狩人は、哀れに思って、白雪姫を逃がし、代わりにイノシシの肝と肺を持ち帰る。

ところが、初版では、実母が白雪姫を追放します。ただし、七版のようにひどいやり方ではなく、森に置き去りにして野獣に食べさせようというのです。追放のやりかたは和らいでいますね。
でも、嫉妬に目のくらんだ女王が白雪姫の「まま母」でなく、実母であるというところが驚きです。
ここから物語の全体が見えてくるとリュティさんは言います。

というのは、白雪姫の類話を総攬すると、女王が実母である話が少なからずあるというのです。「まま母」のほうが多いそうですが。

美しい子どもを欲しがった、その同じ女が、のちにはその子をねたんで、厄介払いにしようとする。母親はだれでも、「まま母」になる危険をはらんでいると、リュティさんは言います。そして、その限りでは、「白雪姫」はまさに現実の世界を反映しているというのです。
母親はだれでも、「まま母」になる危険をはらんでいる

ミュンヘンの精神科医ヴィトゲンシュタインの著書にこんなことが書かれてあるそうです。
ヴィトゲンシュタインが子どもの頃、母親が彼のおもちゃを取り上げたことがあった。彼はまだ幼くて、法律的な意味で継母というものがあることを理解していなかったんだけど、その時、母親に、「あなたは私の本当のお母さんなの?」と尋ねた。
そして、ヴィトゲンシュタインは、母親は皆、よい意味で「まま母」になるべきだ、子どもの願いをはねつけることも必要だと説いています。

リュティさんは、母親は子どもの願いを拒絶することができなくてはならない、そして、そのとき、子どもは「本当のお母さんなの?」をいう考えがうかぶこともあるだろうといいます。
かつて、「わたし、橋の下に捨てられてたんとちがうやろか」と思ったこと覚えていませんか?あれです。

これが、なぜ世の中にまま母話があんなに多いのかということのひとつの答えなのです。まま母話は子どもばかりでなく、人間一般の根本感情に一致しているのです。それはつまり、自分の正体を疑う気持ちです。

子ども、特に思春期になると、多かれ少なかれ誰もが、自分は何者かという根本的な問題にぶつかりますね。そして、それは、おとなになるにつれて考えるのをあきらめていく。でも、あきらめない人たち、芸術家や哲学者たちがいますね。

そういえば、「白雪姫」にかぎらず、昔話は主人公の正体を問うて飽きません。
主人公は獣なのか王子なのか?
灰かぶりなのか光輝く王の花嫁なのか?
かさぶた頭なのか金髪頭なのか?
抜け作なのか選ばれた男なのか?

ううむ。そうだね…。

そして、最後は、さげすまれていた者や見損なわれていた者が、じつは王者であり、恵みを受けた者であることが分かるのです。
なぜなら、昔話は信頼の上に成り立っているから。

わたしは、大人になったいまは、自分の中の「まま母」性に目が行くけれど、子どもの立場に立てば、自分の「まま子」性に苦しんだことがあるのを思い出します。
そして、それは、自分の成長のために越えなければならない壁だったのだということにも思い当たります。

やっぱり、昔話は、すごい!o(*°▽°*)o

次回は、「白雪姫」の倒錯について~

はい、おしまい。

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昨日は、初級クラスの勉強会、楽しかったよ。
ウーカーさんの報告をお楽しみにね~

一昨日は、高校生の絵本読み聞かせ、楽しかったよ。
でも、今年はこれで最後、ちょっと寂しい。

明日は絵本の会で、五味太郎の作品紹介をします。

 

 

昔話の解釈ー白雪姫2👸👸

マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む

第2章 白雪姫

前回、初版の白雪姫の前半を紹介しました。
まだ読んでいない人は、先に前回のを読んでね。こちら⇒

私たちが普段読んでいる七版の白雪姫との違いについて、リュティさんの説明を紹介していきます。

まず、初版では簡潔で素朴な文体だったのが、のちには磨きをかけられてふっくらしていきます。
つまり、グリム兄弟は、口伝えの昔話から洗練された読む昔話を作り出した。そして、そのおかげで、グリム昔話集は世界を征服したのですって。

たとえば、白雪姫の冒頭。
初版「冬のことであった。空から雪が降っていた。」
七版「冬のさなかのことであった。雪のひらが羽のように空から舞い落ちていた。」

グリム兄弟、とくに弟のヴィルヘルムが主に改訂してるんだけど、文体に磨きをかけている、それは、時代の反映だとリュティさんはいいます。

当時のドイツは、ロマン主義と写実主義の間に挟まれたビーダーマイヤーの時代。ビーダーマイヤーというのは、地味な市民の生活態度と一致する簡素で細やかな調子が特徴の生活様式や芸術の概念です。そこでは、秩序と清潔、家庭的なくつろぎ、守られた状態と暖か味、自然と事物の人間化が好まれて、グリムさんたちも昔話集を読み物化するに際してそれらを取り入れていきます。
グリムさんも時代の子というわけね。

初版の雪は冷たい。七版の雪は羽のようだから、厳しくも冷たくもない。
みんなが思い出すのは、「ホレばあさん」で羽根布団をふるうと地上で雪が降るという俗信です。これで雪は親しみのある温かみのあるものになります。グリムさんは、そこをねらっているのです。
これがビーダーマイヤー調。

でも、比較しないで雪に冷たい感触を残している庶民的な元のテキストのほうが、現代の私たちにとっては、好ましいと、リュティさんはいいます。

そんな目でグリムを読んでみたら面白いかもと思います。
が、話は次に進む(笑)

女王の鏡への質問。
初版「鏡よ、壁の鏡よ、イギリスじゅうで一番きれいな人は誰?」
七版「鏡よ、壁の鏡よ、国じゅうで一番きれいな人は誰?」

どうして、グリム兄弟に白雪姫を語ったジャネット・ハッセンプフルークさんは、「イギリスじゅう」なんていったんでしょう?

じつは、当時、ヨーロッパ大陸の民間信仰とか伝説とか昔話のなかでは、イギリスっていうのは一種の彼岸の国だったんだって!
海を隔ててるでしょ。ほら、水は境界。
妖精のふるさとイギリス。

だから、白雪姫の物語は、もとは彼岸の物語なんですよ。話の出来事をすべて神話的な領域へ移している。

さて、いよいよもっと大きな問題です。
白雪姫を迫害するのは、実の母親ってところです。
びっくりしなかったですか?
母親は、子どもが欲しかったんですよね。雪のように白く、血のように赤いほおの、黒檀のような瞳の美しい子どもが欲しかった。で、思い通りの子どもが生まれた。それなのにですよ。がまんがならなくなって、野獣のうじゃうじゃいる森に捨てるんです。

これは、この物語のキモです。
次回をお楽しみに~~~(✿◠‿◠)

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ケストナーをぼちぼち読んでます。って前に書いたかな。
おすすめ本:『雪の中の三人男』創元推理文庫
笑ってすかっとしたいかた、おすすめ~
『一杯の珈琲から』より笑えた。

今は中村桂子さんおすすめの『空海』高村薫/新潮社を読んでます。
こっちもめっちゃおもしろ~い(^∀^●)