今日は、マックス・リュティの語法理論を解説した小澤俊夫著『昔話の語法』(福音館書店)講読会の最終回、千秋楽、満員御礼、大団円でした。
4章の最後、「純化と含世界性」のお勉強です。
(語りの森HPの該当箇所はこちら ⇒ 純化作用 含世界性)
昔話が、中身をぬいて語る事の意味を改めて、あるいは言葉を変えてまとめとして勉強した思いです。
登場人物の地位や職業は説明せず、日常生活や性格もストーリーに関係がなければ語らない。
異界から来た登場人物と、なんの違和感もなく友達と話をするように会話する。
大人になって昔話を読むと、昔話とはそういうものだと思っていても、引っかかってしまうということがあります。
おはなしを選ぶときに、好きな話しか選べないのは、そんな引っかかりを感じないようにという思いもあったのかもしれません。
しかし、聞き手である子どもたちは、はなからそんな引っかかりはなく、即座に昔話の世界に入れます。
入れないのは大人のほうで、わたしの問題でした。
そこを意識せずに、ああ、どんな話を選ぼうかと考えていました。
いま思うと…。
昔話は個々の登場人物やモチーフを、徹底的に要らないものをそぎ落として図形化し、日常ではありえない結びつきを可能にします。
あるいは、記号やナンバーをふってあるだけのようにまで単純化します。
それを360度どこからでも見える透明なガラス玉の中に閉じ込めるのです。
何とでもくっつけるから、ガラス玉の中に全世界を入れることも可能となるわけです。
もし、自分が見ているガラス玉の中に不純物を見つけたら、それをきれいにしないといけませんし、まずこれが不純物だと見つけられなければなりません。
今はまだ、その力はありませんが、それでも今までやって来た勉強はこのあたりでそろそろ実を結んでもらわないと本当に困ると思う今日この頃。
ヤンさんが言われたように、語り手としてはいろいろな話をよいテキストで選んで、たくさんの昔話が持つ、たくさんのメッセージを聞き手である子どもたちに伝えていきたいと思います。
リュティ先生が書かれた「昔話というガラス玉のなかに世界がうつっているのである」という言葉に、ドキュンと心を打たれました。
すぐ手の届くところに世界があるというのに、正確に、いい形で語れているか、改めて自分に問いかける機会を与えてもらいました。
「語法は愛です!」(byヤンさん)にもドキュンと来ましたが、「ガラス玉の中の全世界」にもグサッとやられました。
お話が偏らないように、いろんなテーマの話を自在に語れるように、精進します。
道は遠し!
でも、一直線の一本道だから最短距離、の、はず(笑)