月別アーカイブ: 2020年3月

文学の楽しみを伝える📗

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』のつづきだよん。

第1章 子どもに本を手渡すこと
その4 文学の楽しみを伝える
ーイギリス、アメリカその他の国の文学教育 1953年発表

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英米では、子どもに本を手渡すには、楽しさを伝えることを基本にしているとのこと。(もう67年も前の文章ですが)
幼児期の家庭でのおはなしが、まず第一歩。
小学校・中学校では、先生の力によるんだけれど、心理学の裏付けをもとに、成長に合わせて読書指導をしているそうです。
どうやれば子どもたちを本に夢中にさせられるか、指導の実践例が書かれています。なるほどこれなら楽しいだろうな~って思うような例も。
でもそのためには、先生自身が相当量の本を読んでないとだめだろうなと思いました。
現代の日本ではどうだろう?
先生、余裕あるのかな?

「いかに教えるか」が先生の役割なら、「何を教えるか」は図書館の仕事だって。
文学教育は、学校と強く結びついた図書館の活動に支えられている。
う~ん。
これって、どう?
日本、遅れすぎてない???

図書館の活動
1、おはなしの時間。もちろん、ストーリーテリングのおはなし会ね。
2、児童文学賞の主催。例)絵本のコールデコット賞、読み物のニューベリー賞、カーネギー賞。
全部図書館員が選ぶのよ!
3、図書リストの作成。

ああ~~
今の私たち。
公立図書館でも学校図書館でも、おはなし会はだれがやってる?
子どもに何を読めばいいかわからなくて、子どもに何を薦めればよいかわからなくて、右往左往している私たち。基本リスト欲しいよね?
児童文学賞を出してるような人が図書館にいたら、どんなに心強いでしょうね~

せっかく勉強しようと読んでるのに、フラストレーションがたまってしまったあ
ちゃんちゃん!

続・続・続キャパシティの発見😁

きのうの続き~

リリアン・H・スミスの『児童文学論』でいえば第3章「批評の態度」ね。これについての瀬田先生の解説です。

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児童書がどんどん出版されるおかげで、文学的でない作品も増産されて、いいものが見落とされているって瀬田先生はいいます。1959年段階でこれだから、現代は以て知るべしですね。

だから、きちんと批評できないといけないっていうことなのね。
子どもと本をつなぐ立場にいる大人は。
難しいけどね。

で、瀬田先生が言うには、日本は特に間違った批評してきたんだって。
どんなふうに間違ったかと言うとね、社会的なことをテーマにしているかどうかに基準を置いてしまっているって。

社会的な見かたを不当にたくさん負わせた本を大人が歓迎するのは大きな間違いだって。大人の真剣な社会問題への興味を打ち出した本が賞賛されている。それは間違いだといいます。
大人の正義を子どもに持ち込んではいけない。

ちょっとほっとしました。
そういう本は、わたし、苦手だから。
なぜ違和感があったのか、わかった気がします。

子どもには子どもにとっての自然なテーマがあるはずですよね。
それを追いかけてほしいと思います。

瀬田先生の言葉を借りれば、「子どもの本質をつかもうとする努力をまず第一に」置くべきなんでしょう。

感動的な引用
スミス女史の態度は、終始文学的な質にむけられているが、それが読者としての子どもに密着した点を、ぼくたちは大いに学ぶべきではなかろうか

子どもの本質をつかむ・・・むしろこのほうが、ずっと難しい。社会問題は大人の問題だから大人にはわかりやすいんですよね。で上から教えることもできるし。

不断の努力やね。
古典に学ぼう!

続・続キャパシティの発見✨

一昨日のブログで書いた、私にとって環境の限界を超えさせてくれた本の一冊が、これ。
『クマのプーさん プー横丁にたった家』A・A・ミルン作/石井桃子訳/岩波書店刊
初版が1962年で、私が買ってもらったのは1963年。
長い人生で何度も何度も読みました。
プーと子ブタから、人生には友情と真剣さとユーモアが要るって、教わった。

さてさて
『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上』の報告の続き。

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第1章 子どもに本を手渡すこと
その3 キャパシティの発見

この項はリリアン・H・スミスの『児童文学論』の書評でしたね。
今日紹介するのは、「児童文学論の歴史」のところ。

児童文学の最初に登場するのは口承文学です。
昔話や童歌が、今も昔も子どもにとっての基本的な文学だといいます。

次に来るのが、『ロビンソン・クルーソー』『がリヴァー旅行記』などの大人の文学を、子どもが自分たちのものにした時代。

19世紀に、子どものための本屋ニューベリーの登場。
グリム、アンデルセン。そして『不思議の国のアリス』・・・

20世紀の多様性を、スミスは次のように要約します。
(写真を張り付けるね)

こうした歴史から生き残った傑作にはりっぱな文学尺度があると、古典を読むことの重要性が書かれています。

みんな、古くさいとか、めんどくさいとか、重いとか言わないで、読んでみようね~

続キャパシティの発見✨

え?
なんだか真面目~って?
はい、ヤンは真面目人間ですよ(笑)

新型コロナ騒ぎで、なにかに集中しないと、落ち着かないのよ。
お話の練習も、おしりに火がつかないとね・・・

で、きのうの続き(笑)
『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上・下』(福音館書店)を読んで。

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第1章 子どもに本を手わたすこと
その3 キャパシティの発見 1959年発表
ーリリアン・H・スミスの児童文学論『たゆまぬ年々』にふれてー

この項の途中までだったのね。そのつづき。

瀬田先生は、スミス『児童文学論』(岩波書店)の1~3章を翻訳しています。
その第1章 児童文学の中心点 のポイント。
子どもが本を読むキーは、おもしろさにある。
おもしろさとは、子どもがそれによって眼をひらくこと、一つの体験をすることだといいます。

スミス氏の言葉によれば、
「子どもの人生経験は、どうしてもその環境のせまい限界に限られている。そこで、子どもたちが求めるのは、そんな限界をさっさとのりこえていく道なのだ」と。

うん、わかる。
幸運にも私の小さな本箱には、子どもの頃のそんな本が何冊か並んでいる。
戦後日本に暮らす裕福でない家庭の、小さな女の子だったわたしは、家や学校での退屈とか悔しさとか孤独とかに打ち勝つために、本が必要だった。
わたしという限界を軽くのりこえて、本の世界に没頭したぞ。

そこにあったのは、私だけの世界。

でね、瀬田先生が言うには、子どものキャパシティがわからない大人が多いからだめだって。

ここまで読んで、表題の「キャパシティ」の意味が分かった。
つまり、子どものキャパシティ
受容力。受け入れる能力。

はい、感動的な引用。

大人が子どもにはその思想がむずかしかろうと考えたり、ニュアンスがわかるまいと考えたりするのは、子どものキャパシティがわからないのである。
子どもたちのひたすらに成長へむかう確かな本能は、読書のさいに永続するものや積極的な価値のあるものを、かならずちゃんと残していく。
その保持力は大人よりずっと信用できる。
それだのに、甘ったるくし、低め、薄めようとする大人の卑俗な根性。

きょうは、ここまで((´∀`))

 

キャパシティの発見 リリアン・H・スミスの児童文学論👩‍🎓

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論 上・下』(福音館書店)を読んで。きのうの続き。

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第1章 子どもに本を手わたすこと
その3 キャパシティの発見 1959年発表
ーリリアン・H・スミスの児童文学論『たゆまぬ年々』にふれてー

子どもの本が出版されてからの2世紀あまりの間、子どもたちに良い本を選び、選ぶことでよい本を作り出してきたのは、誰だと思いますか?

それは図書館員だったのです!

いまから61年前に、瀬田先生は、日本の児童書の出版について、質が低くより早い生産を競っていると、批判しています。これは、日本だけでなくヨーロッパでも似たようなものだったみたいです。

そんななかで、リリアン・H・スミスが『たゆまぬ年々』1953年を発表しました。
あの『児童文学論』(岩波書店)です。数年前に文庫化されましたね。

この本について評論するにあたり、瀬田先生は、カナダの児童図書館員だったスミスについて、また、彼女が登場するまでの児童図書館の歴史を書いています。
興味深いです。
図書館員が、どれほど子どもの本に情熱を抱き、出版界を牽引したかがよくわかります。

また、この本について、こんなふうに書いています。
引用します。

・・・子どもという読者の内面世界を徹底的に理解し、その子どもたちが「専ら好んで読む文学」として文学の一分野を成り立たせてきた児童文学の文学的質をみごとに分析して、子どもと文学とに楽しくも実りゆたかな橋をかけ渡した、まれにみる好著の一つである。

次回は、この項の続きを読みますね~

わたしたちババ・ヤガーでは、2年かけて「『児童文学』を読む会」を行いました。
結局、自分たちが、あまりにも子どもの本を読んでこなかったことを実感させられました。
ねえ、今度は各自で、よみましょ!