マックス・リュティ『昔話の解釈』を読む
第1章七羽の烏 さあて、今日で終わるか!?
多くの学問が昔話を研究しています。
心理学もそのひとつ。とくに、ユング派の心理学的人類学が、集中してやっているそうです。
そこでは「七羽のからす」をどのように解釈しているのでしょうか。
まず、ユング心理学的人類学では、昔話は心の中の出来事を描いていると考えます。人間の無意識内での過程が表現されていて、それが昔話の魅力だというのです。
では、「七羽のからす」の無意識云々はどう説明されているのか。
兄さんたちがからすに変身させられますね。これは、動物段階への退行で、人間がより大きな無意識状態へ逆戻りすることをあらわすと考えるそうです。そして、そこから出てきたとき、人間はより成熟した完成した人格へと進んでいると考えます。
つまり、兄さんたちは、からすに変えられそして救い出された後では、以前とは違った存在になっているのです。
兄を救った妹は、意識と無意識の仲介者の役割を演じているというのです。
リュティさんはこれに反論します。
昔話が心の中の出来事を生き生きと描いたものであるということは、そのとおり。自分自身との対決は、人間存在の特質だからです。
動物への変身を無意識への後退とする解釈にも一理ある。が、「七羽のからす」のラストで、兄たちは何の成長も成熟も遂げていないではないか。一段高い境地に達したとはどこにも書いていない。せっかく無意識状態へ降りて行って出てきたのにね。これはどういうこと?
ユング派では、兄さんたちが複数(七人)であるというのは、人として完成していない、未成熟のしるしだと説明します。けれども、呪いが解けたとき、兄さんたちは、やはり七人です。あれれ?成熟はどこへ行った?
それから、妹が指を切ること、これは、妹があの世の暗い力と密かに結託していたんだけど、それを断ち切る意味があるんだと解釈します。リュティさんは、ここまでくるともう勝手気ままというよりほかないといいます。
結局、心理学による象徴的解釈は、相当大胆で、当たっているかもしれないけど決して確実とはいえないと、リュティさんは言います。
リュティさんは、文化人類学の研究も紹介します。
文化人類学では、昔話のモティーフを、古代の儀式と結びつけて考えます。
古代に、成人式で歯を折ったり小指を切り落とすという儀式があって、妹がガラスの山で指を切ることと結びつけています。「子どもっぽいあり方を捨て、子どもの自我意識を抑制すること」だと解釈されるのです。
ううむ。なんでそうなる?おもしろいけど、行き過ぎとちがうん???
では、昔話はどのように解釈するべきか、リュティさんはいいます。
わたしたちは、話から直接読み取れることだけを拠り所にする。
これは、分りやすいですね。
じゃあ、直接読み取れることって何かといえば、(以下引用)
人間的な失敗に基づく災いにみちた運命と、その運命は耐え忍ぶけなげな愛の献身によってでしか福に転じ得ないということである。それが写実的に描かれないで、聞く人の心から消えることのないほど鮮やかな姿をした人物によって描かれている、という点が独特であり、昔話の長所である。
人間的な失敗っていうのは、お父さんの呪いですね。妹がひな鳥の骨をなくしたこともそうですね。
呪いを掛けるお父さんは、ほんの脇役にすぎません。
お兄さんがからすになったきっかけを作ったのは、妹自身です。
妹は、みずからの意思ではないにせよ兄の不幸のもとになった。その同じ人物が兄を救う。
この話は、あらゆる象徴表現を越えて、きょうだい(兄妹)愛の賛歌なのです。
最後に感動的なリュティさんの引用
耐え忍ぶ、行動的な、不屈の愛が妹に自分自身の仕合せや生活を捨てる決心をさせ、中傷や誤解をものともしない力を得させたのであるが、この愛がこの話を聞く無数の人たちにとって力強い導きの星となった。
なるほどね。だからこどもたち、あんなにシーンと聴くんやね( •̀ .̫ •́ )✧
はい、おしまい。
終わったあ!
長いお付き合いありがとうございましたあ。
はい、次回から「白雪姫」
また長引きそうや(笑)
みなさん、「白雪姫」やったら知ってるわって?
そうおっしゃらずに、グリム完訳で読んでおいてください、宿題よ~