夫が、畑で、珍しく動画を撮った。
夫「これなんや?」
私「てんとう虫」
夫「オオテントウムシや」
ふつうより大きいやろと、夫は得々としておる。知ってるということがそんなに偉いか!?
珍しく家族のラインに動画を送った。
夫「これなんや?」
息子「ハラグロオオテントウ」
夫「ハラグロって、なんでそこまでわかる!?」
娘は無視(笑)
同じ環境で育った姉弟でも、興味をそのまま伸ばしてやったら、全然異なった分野に進んでいくんやな。
3歳児から虫博士といわれた息子は、30歳過ぎた今はそれを生業にしている。英数は超低空飛行だったが、頑固に塾を避け続けた。それでも何とかこの道を歩いている。おそらく一生好きなことだけをして生きていくつもりなんだろう。
自分で食べていけたらそれでいいと、わたしは思っている。
今日は、子供の日。
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第6章偽の花嫁と本当の花嫁
きょうは、「がちょう番の娘」ですよ~
リュティさんは、まず、「がちょう番の娘」のあらすじを書いています。(ここでは省略しますね。みなさん、自分で全文を読んでくださいね。)
そして、あらすじを書きながら、3か所、コメントを入れています。
1,娘の母親、つまり年とった女王様ですが、彼女のことを、リュティさんは魔法に通じた母親といっています。
娘に与えた、3滴の血のしずくや口をきくことのできる馬ファラダ。
長年語っていたのに、魔法の力だとは気づかなかったです。魔法というより母親の愛の力だと思って語っていました。
2,娘がキュルトヒェンといっしょに野原でがちょうの番をする場面を、リュティさんは、名高い野原の場面といいます。
ここでハインリッヒ・ハイネの詩を引用しています。
おばあさんがあの王女の話をするたびに
わたしの胸はひどくどきどきした
王女はただひとり荒野に座り
金色の髪をとかしていた・・・
ああ、「吹け吹け風よ~」の場面。ここ大好きなんだけどなかなかうまく語れないのよo(≧口≦)o
3,キュルトヒェンが年とった王さまに、野原でがちょう番の娘との間に起こったことを話す場面について、ここには、「悪いことが善いことになる」というなじみの深いモティーフがあらわれていると言います。
キュルトヒェンは、娘をやっつけてやろうと思って告訴するだけど、それがまさに事態をよいほうへ転換します。
おもしろいねえ。キュルトヒェンが王さまにいいつけなかったら、お姫さまは、いつまでたってもがちょう番だよ。ストーリーとしてはとっても大事なところ。ここをどう語るかやね( ̄︶ ̄)↗
物語の最後の場面で、王さまが偽の花嫁に謎をかけます。
偽の花嫁自身がした悪事を事細かに聞かせて、「そんな女にはどんな裁きを下すのがよいか」と謎をかける。
偽の花嫁は、自分のしたことなのに、気づかないで、「そんな女はすっぱだかにして、内側にとがったくぎを打ち付けたたるに入れ、二頭の白馬にひかせて、死ぬまで町中を引きずり回すとよいでしょう」と答える。
で、その通りの罰を受けるんですね。
自分のしたことだと気付かないなんて、非現実的で、実際には考えられないことですね。
つまりこれは、話が現実的写実的な物語ではなくて、象徴的な物語であることの証というわけです。だから、昔話を読むときは、それが象徴であると認識して読まないといけない。でないと、「そんなことないやろ」って、なるのですね。
そして、なぜ昔話は、犯罪を犯した偽の花嫁が自分自身に判決を下すことにこだわるのかというと、それは、昔話が、悪は自滅する、と信じ、望んでいるからなのです。
「昔話が、」というのは、「昔話を語りついできた人々が」と同じ意味ですよね。
「ヘンゼルとグレーテル」の魔女は、パン焼き窯の中で、自分がグレーテルに対してやろうとしたやり方で滅ぼされます。
ペローの「眠れる森の美女」では、悪い王女は、自分が娘を投げ込もうと用意した、蛇のうようよいるたるの中に飛び込みます。
人食い鬼を殺すには、人食い鬼の所有する刀で殺すしかないというモティーフもあります。
このような、悪の自壊作用は、リアルに現実を映しているのではなくて、本質を象徴的に表現しているのです。
リュティさんは言います。
現実観察でなく、本質観照が昔話の固有の贈り物なのである。
はい、今日はここまで。
次回も「がちょう番の娘」です。